2010年4月30日金曜日

英国出発、再度パリへ

11月5日 
午前11時、同宿の方々、ホテルの主人夫婦に見送られて
タクシーをヴィクトリア駅へ走らす。
チヤリングロスの繁華街をトラガルファー・スクエアの人馴れた鳩の群、
ネビーアーチをくぐってグリーンパークを通り過ぎる。

この辺りは来年5月、皇帝戴冠式当日のためにぼつぼつ座席の予約を始めているそうで、
1人2ポンド約34〜5円である。当日近くなるとプレミアムも付き大変だそうだ。
沿道の建物という建物が、窓際は全て予約済みということだった。
当日の壮観が思い知れる。
正面のバッキンガム宮殿は皇帝御在館とみえ、
ユニオンジャックの皇帝旗が翻っていた。

駅にはわざわざ三菱のU氏が見送りに来られた。
同氏には滞在中非常にご厄介になった。
列車は定刻、雨に濡れた紅葉の森、緑の芝生の中を、
霧の向こうにクリスタルパレスを望みつつ郊外に進み、
静かな田園風景の中を1時間あまりでドーバーに着く。
列車内で渡された紙に姓名、年齢、職業、国籍を記入して改札口へ行き、旅券と共に見せる。
紙は取り上げ、パスポートは返してくれる。
連絡船は1時発、2時10分フランス・カレー港に到着だ。
ドーバー海峡は実に嫌だ。かなり荒れる。
帰船の中で仏国官吏の調べがある。例の如くパスポートを調べ、
行先、目的、滞在日数、身分などを聞き、赤線入りの札をくれる。
下船の時これを本船券と一緒に渡す。
駅構内でまた簡単であるが税関の検査がある。
それらが済んでやっとカレー・パリ間の急行に乗ることができた。

途中疲れて眠りながら午後6時、列車はパリ北駅に着いた。
2度目のパリである。
タクシーでこちらも再訪となるホテルグランドに向った。

ロンドンを名残惜しむ




11月4日 
午前10時頃からクリスタルパレス見物に出掛ける。
いよいよ濃霧の時季となり、今日はかなり見舞われた。
ロンドン滞在の25日間は天候に恵まれ、どれだけ能率をあげられたことやら。
旅程変更は大成功だった。
しかも出発間際にはロンドン名物の濃霧も見せてもらった。
太陽はちょうど磨きガラスを通して見るようで、
テムズ河の対岸はまったく見えない。
混雑する市街の自動車や人や馬車、大きな建物などが皆、
霧を通して美化された眺めもまた一入である。


クリスタルパレス(1936年に焼失)は案外と大きい。
鉄骨ガラス張りの大温室のようなものである。
パリのエッフェル塔と同じく、博覧会の遺物である。
内部はあまりに広いので、臨時の興行的なことにも使用されているようだ。
しかも建築各時代のモデルや有名な彫刻のイミテーションがたくさん並べてあった。
ここは高台で、天気がよければロンドン市街を見晴らせるそうである。
後にこのクリスタルパレスは私のベルリン滞在中、12月のある日に全焼してしまった。

荷物の整理などを済ませ、辺りを散歩する。
いよいよ帰ると思うと見るものも懐かしく名残惜しい。
再度来ることもないだろうロンドンよ、
実に真底の知れぬロンドンよ。
旅行案内には『ロンドン通と誰が言い得よう』と書いてあった。
たしかに実際に分かり得る人などはあるまい。

2010年4月28日水曜日

ロンドン出発準備

11月3日 
早朝、ドイツ駐在満州国商務官のK氏より電話があり、雨の中を訪問する。
ハイドパークのそばのグルブナー・ホテルである。婦人同伴で見えていた。
約1時間、ドイツ事情のあれこれを聞き、辞した。

今日は新帝陛下が議会開院式に初めて御臨行される日で、それを見物に行く。
グリーンパークのバッキンガム宮殿前に出る。
雨の中、沢山の人が人垣を作っている。定刻に2台のクルマで出御される。
群集の声でそれとわかったほどである。
毎日ここで行われる壮麗な近衛兵の交代式を見ていたので、
さぞかし立派な行列かと思ったが、前駆もなければ後衛もない。
ただ2台の普通自動車だけというあっさりしたものだった。
しかも車窓から片手を上げて、
窓辺から見送られている皇太后陛下に挨拶されつつ出られたそうだ。
群衆も意外そうな顔をして四方に散って行く。
海軍省の庭で打ち出された皇大砲は、飛び上がるほど大きく聴こえた。
最初から数えてみたが30発以上はあった。

午後は領事館へM領事にお別れの挨拶に出掛けたが、あいにくの留守。
次に三井銀行へ行ってドイツ滞在中の費用を信用状から出してもらう。
ドイツ滞在約50日、その間スカンジナビア行きおよび
中欧行きなどの汽車賃も含め、130ポンドを出した。
その内50ポンドはドイツのレジスターにして1135マルク、
もう80ポンドはここでの払い用にそのまま持っていることにする。
ドイツのレジスター、マルクは国外で買うと1割くらい安いそうで、
今日の相場が英貨1ポンドに対し22マルク70。
このレジスターは現金でなく帳面でくれ、ベルリンに行ってから現金化する。
これは旅行者に限られたことで、
1日100マルクまで引き出すことが許され、5日おきでなければ絶対に出せない。
入国する時に厳重な取り調べがある。
しかも国外には10マルク以上は持ち出せない。よく計算しておかねばならない。

それから郵船会社に行き、照国丸で同船してきたH氏にお別れ。
さらに宅送の荷物のことなどを係の人に頼む。
次いで三井物産、三菱に行った。
ここではU氏や支店長を交え1時間ばかり
真底知れぬロンドン視察談をして、雨の中をチューブで帰った。

夜は三井銀行T支店長のお招きで、
ピカデリーのカフェ・ロイヤルにてご馳走になる。
ここはタキシード客が多い、金ピカのすこぶる堂々としたレストランである。
一旦支店長にホテルまで送られて、
さらに同船同宿の方々とお別れにピカデリーのモニコに行く。
12時半頃まで歓をつくした。

ウインザー見物

11月2日 
今日はウィンゾル(ウインザー)宮殿の見物に出掛けた。
ハイドパークの角からバスに乗り1時間足らずで着く。
曇り空だが降りはせず、案内書きを片手に12時まで観る。






ここでも朝の近衛兵の交代式がある。
内部は博物館のようになっていて、調度品その他一切が陳列されている。
ここは現皇帝が時々来られるので一部分しか見せていなかった。


城の上から見たイートンの街はよい景色である。
宮殿の背面は一面の平野、折からの秋景色で美しい市内を背景に、
モーニング姿の学生がたくさん通る。バスの上からも大学生たちを見た。


1時半頃帰宿して、午後はロンドンの一流デパートを見物した。
商品が綺麗に並べられ、その数の多いこと。
しかしどれも日本製品に比べて非常に高価。レベルが違う。結果、あきらめて帰る。


夜はまた活動に行った。
ここはニュースものばかりのところで、日本の北海道大演習があった。
大元帥陛下の御巡視の光景や、歩兵の突撃などが映されて
トーキーなのでラッパの音や万歳の声に思わず襟を正し身が振えた。
ロンドンの活動小屋では最後に必ず国歌が吹奏され、
観客一同、起立が済んでから静かに退出することになっているようだ。

2010年4月27日火曜日

ロンドンの日曜日




10月31日 
午前中は雨のため休養する。
午後から降ったり晴れたりする中を、ブリティッシュ・ミュージアムを観る。
大きなものだ。ゆっくり観たら2、3日はかかるだろう。
クリート島のイノリス王官の土器や陶器類を観た。
例の壁画の死者の絵は鳥羽僧正の鳥獣戯画によく似ている。
東西三千年を隔ても、自然に対する愛は期せずして相似ていることを深く思わされた。


11月1日 
今日は日曜日である。
前にも書いたように欧州の日曜日ぐらい旅行者にとってつまらないものはない。
街は薬屋とタバコ屋しか開いてなく、
仕方ないので外人並みに公園散歩と洒落てみた。

ハイドパークに行く。
この公園も最早最後の見物だろう。沢山の人出である。
乗馬姿の勇ましい男女の群、肥馬にまたがって秋の林間を散歩しているのは素敵である。
そこから近いクイーンズゲートを左折して、
ナショナル・ヒストリー・アルバートなどのミュージアムを見物する。
いずれも大きなもので、陳列品は実に豊富。
とてもゆっくり観られるものではない、よく見たら特別なものもあるだろう。
ターナーやセザンヌ、ゴッホなどの近代画も相当飾られていた。
一室全てにロダンの彫刻が並んでいるところもあった。
ユーゴーの家など、歴史的に有名なものも部分的に飾られ、日本の美術品も随分あった。
夜は活動見物に行く。
ちょっとした戦争ものだがおもしろく、
どこでも見せるミッキーマウスのマンガも極彩色の複雑なものをやっていた。

英国にて、雑務あれこれ…



10月30日
正午、かねてより約束してあったロンドン建築請負業協会の書記長に面会。
例によって、親切に色々と話を聞かせてもらえた。
前回の時と大同小異で様々な記録をもらう。
これで予定していた人々には会った。

結果を総合してみるとわからないことや矛盾したことがたくさんある。
考えてみれば国情を異にし習慣も違う。
さらに言語の不通もあり、十分にわからないのも当たり前だろう。
専門のことを知る前にまず、一般の事情を知らなくては想像できないことも多い。
しかし沢山の書物を貰ったのでこれらをゆっくり見て、
聞いたことと考え足せば得るところも多いだろう。
英国では政府発行の各種書類は、印刷局(営繕省の管轄)で
どんなものでも至極安価な料金で誰にでも配布してくれる。
私も早速行き、たくさんのリストの中から選定して、20数冊を分けてもらった。
新刊は別に見やすいところに陳列され、
所員は丁寧に私たちの希望に沿って色々と調べて見つけてくれ、
買った書籍はちゃんと荷造りしてくれる。非常に便利である。
たくさんの人が利用している。役所の組織に関するものは急送にした。


昼食は支那料理に行ってみた。
地下にある相当な店で、英国人も来て食っている。
しかし洋風化されたものだった。
帰途、本屋に立ち寄って、印度建築の書籍を3冊ばかり買う。
夜は三菱商事の案内で、シンプソンにてご馳走になる。
9時からアドルフ・シェーターのアメリカのレビューを観た。
建物内部は英国に似合わぬモダンなもので、壁もろともビロード張りだった。
肩のこらないパリよりは幾分高尚なように思った。

2010年4月26日月曜日

美術館とショッピング

10月29日 
朝からミージュアム見物。
ナショナルギャラリーレオナルド・ダ・ヴィンチの崖上の聖母を観る。
澄み切った淵のような深さ、ミケランジェロのキリスト埋葬
ラファエロの塔上の聖母、水浴の女、パリの審判などは皆よい絵である。
ここは古代美術が多く、地階では講義があった。


10月30日 
買い物類の整理をする。
ここではスコッチ類とダンヒルの物を少々買い求めた。
その他の物は高くてとても買えない。
それらを郵船会社が無料で大連まで送り届けてくれる。
土産物といえばロンドンのヤマトホテル前では2、3軒の商店が視察客向けに網を張っている。
1軒は「酒井商店」といって洋酒類および付属品、スコッチ類を扱い、
もう1軒は「阿佐土」といって雑貨類を売り、英国製品がなんでもある。
「山中」という宝石商もある。
これらの番頭がアメリカからの客、欧州からの客の新顔と見ると掴まえて上手に親切に勧める。
視察者の多くは何か欲しいと思っている頃合いなので、何かと便利でもあり、
日本ではとても買えない高価なものでも割合容易に買うらしく、相当繁盛している。
酒井商店のマダムはなかなかのやり手で、一度見物に入ったが最後、空手では帰さない。
このような店がベルリンでは「中管」「よさの」の2軒、
パリには「伴野商店」がある。
いずれも土産物だけでなく案内もやり、汽車、帰船の切符から荷物の運送など、
視察者のために用を弁じている。
在留者には非常に便利で、恐らく大抵の人は厄介になっているはずだ。

オックスフォード

10月28日 
今日はオックスフォード行きである。
午前6時半起床、向こうの屋根に太陽が反射している。晴天である。
一行は朝鮮総督府のO氏と、東京池貝鉄工所の子息と丁君の4人である。
ホテルの自動車を主人が運転する。
片道約100マイル、汽車で行けば2日がかりの旅を1日でやるのだ。

1時間ほどで、先頃ボートレースの開かれた湖のあるところに出る。
岸辺の老樹が紅葉し、静かな水辺に真っ白いスワンの群、点在する田舎家、よい眺めである。
沿道はなだらかな一面の芝生が青々と、折からの秋も豊かに、紅葉の並木が道を覆う。
丘と森の連続、澄み渡る小川の流れをみやるうち、やがてオックスフォードの街に着く。


この街は街に学校があるというより、学校の中に街があると言った方がよいくらいだ。
帰途見物することにして車をさらに進め、
ストラトフォードナボンシェイクスピアの遺跡を訪ねる。
古く錆びついた寂しくて物静かな街である。家々の庭には秋草が乱れ、薔薇の生け垣、
紅葉の大樹を背にした粗石葺きのシェイクスピア夫人の家。
その粗野な、愛すべき詩的な家。あの物静かで愛に満ちた多くの作品も、
この粗野な内に気品をたたえた家で暖かな婦人の愛によって織り出されたものであろう。
シェイクスピアの生家であり、最後の家も見た。
彼の遺物を納めた博物館もある。
静かな森の中に建つ寺院に、彼らの永遠の住まいである墓も見た。
彼の洗礼から最後の埋葬までが記録された古い一冊の帳簿が置いてあった。
彼の名を冠した有名な劇場もあったが、先年焼けてしまい今は粗末なものができている。
この街はすべてがシェイクスピアで持っていると言ってよい。

昼食時になったので、テムズ河の上流の緩やかな流れを前に、
青々とした芝生の広がる紅葉の樹下で持参の弁当を開いた。
対岸の常緑樹の間の色とりどりの紅葉、
樹の下で落ち葉を焚き上る紫煙、絵のような存在である。

食後、オックスフォードの街に引き返す。古く気品ある街である。
ここのカレッジは寄宿舎を中心に各種単科大学があり、礼拝堂、講堂、図書館もある。
建物の間は美しく芝生が敷かれ、散歩道があり、中央に大きなドーム型の礼拝堂がある。
内部は図書館として使われていた。その屋上のテラスに昇って市内を見下ろす。
形の変わった色々な塔があり、これが皆別々のカレッジである。
街の中をテムズ河が静かに流れ、河岸の紅葉が盛りで見ごとであった。

この大学はケンブリッジ同様私立で、英国自慢の大学で優良な英国紳士の養成所である。
街の店でカレッジの紋章入りの旗などを買い帰途に着いた。
早や黄昏、満月に近い月が右に左に、樹間に宿る。


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2010年4月25日日曜日

イギリス人気質というもの

英国人は自尊心が強く、職業等によって自分を卑下することはなく、
いかなる地位の人に対しても対等に応対する度量を持っている。
また、他人の人格も尊重し、礼儀正しく、
人に不愉快を感じさせるようなことにはよく気をつけ、
横柄な態度はしないように思った。

聞いた話だが、汽車である英国人と一緒になった者が
駅で降りる時にホテルのことを心配し、荷物等の手配を案じていたら、
その英国人が
『自分はその駅のポーター(赤帽)である、荷物のこともホテルのことも心配するな、
 自分がちゃんと頼んでやる』
といったそうだ。
一般客として平服で汽車に乗っている時でも自分の職業を名乗る自信は
なかなか見上げたものではないか。
国民の間に相互扶助の観念が発達し、
失業者には相当な保護もあり失業保険制度も確立していて、
一般に博愛の精神に富み、富者の寄付でたくさんの立派な病院が建ち、国家的観念は強い。
国民は自己の思想と国家を信頼し、冷静で興奮せず、
したがって急速な社会的変化が起こらない。
一方で大きな植民地を持ち、国が裕福であるという関係もあるのだろうが。

ロンドン生活事情

ロンドンの日曜日は、徹底的な安息日である。
午前中は教会へ行き、公園や郊外に出掛け、仕事のことは忘れて朗らかに休養する。
働く時間と遊ぶ時間を明確に区別している。
商店は薬屋と小さな飲食店しか開いていない。興行物なども早じまいである。
新聞はもちろん、郵便配達も全休である。交通機関までが少なくなる。
平日でも閉店時間が確守されて、書簡は12時半頃から2時まで休み、夜は7時に全部店を閉じる。
あまりに徹底しているので旅行者には実に不便で、日曜日などは過ごしようがないくらいだ。

酒を飲むにも制限がある。
料理店では午前中は一切飲酒できない。
正午から午後3時まで売り、3時から6時までは禁じられ、6時から11時まで許すのだ。
これは料理店のことで、酒商では午後7時以降は絶対に売らない。
執務時間の飲酒は禁じられ、これが正確に実行されている。
欧州での飲酒はパリのワイン、
ベルリンのビール、
英国のウイスキーと相場は大体決まっていて、
ここロンドンでは良いウイスキーが安く飲めると思っていたのだがそうでもない。
内国消費税がかけられているからここは非常に高い。外国で飲む方が安いのだ。

街を歩いていると人道では音楽をやっている。
その脇には帽子が上向きに置いてある。中にはいくらかの金が投げ入れられている。
通行人も立ち止まって聴いている。1人の者や、4〜5人の大掛かりのもある。
辻にはマッチ売りのおばあさんがいて、
日本のようにタバコにマッチなど付けてはくれない。マッチはなかなか高いのだ。
街頭の花売りも奇麗なものだ。
新聞の売り子が記事を手に声高に怒鳴り、
靴磨きが辻々にいて通行人に声を掛ける。これらの多くは地下鉄の入口にいる。

ロンドンでは地下鉄をチューブ、
パリではメトロ、
ベルリンではウンター、
ニューヨークではサブと称するそうである。
ロンドンの地下鉄は六、七十尺から百尺くらい地下を走っており、
戦争時の避難所にも適当とされている。
歩道から通じる階段を降り、地下の広場で切符が売られ、
ピカデリーなどの広間の周囲は皆、有名な商店の装飾窓に使われている。
改札口からは百尺近くをエスカレーターでさらに下り、これが大きいところは二畳ほどもある。
急がない人は右側に、急ぐ人は左側を走って通る。
電車はおよそ1分おきに走り、1・2等に区別され、喫煙車は別に付いている。
地上のような交通制限がなく、ゴー・ストップもないため
最も早く移動できるので、たくさんの人に利用され
乗降客はどこもいっぱいだった。

2010年4月24日土曜日

ピカデリー

夜のロンドンといえば何といってもピカデリーだろう。
劇場や活動写真館、料理店、カフェが軒を並べ、歩道は歩けない程の人通り、
車道はゆるゆると動くバスと自動車と電車で埋め尽くされる。
ものすごい光景である。

ここからリージェント・ストリートを通りオックスフォード通りへ出る間が、
性業婦人の横行で世界的に有名なところである。
深紅の唇をした女たちがショーウインドウを見ているふりをしながら右往左往している。
ピカデリーの一端に「モニコ」というレストランがある。
ここの地階にあつまる女はその多くが日本人客専門であるそうだ。
毎夜11時頃から着飾った女たちが入ってくる。
しかし決して客のテーブルには来ない。
彼女らは別のテーブルに付いて仲間たちと酒を飲んでいる。
客の方で気に入ったのがいれば目で合図をして、別々に出て行くのである。
大抵の女が2部屋にバスくらいは持っていて、朝飯を食わせるそうである。
これで1晩3ポンド、日本円にして約50円。

ある夜、三菱の方々の案内で4人連れで彼女らのアパートに行ってみたが、
なかなか立派なものである。立派な家具を置き、女らしく色々の物で飾り立てていた。
日本の長襦袢や日本人形、扇子など日本の物がたくさんあるのに驚いた。
よく見ると一日本人の写真が飾られている。聞けばその男とは約2年も同棲していたそうで、
『いまだに手紙が来る、私のスイートハートだ』と遠慮なしにのろけられた。
彼女らにうつつをぬかし貴重な使命の時をこんなことで送る留学生や視察者の面々も、
写真などを興へて我が身を晒しているなど気が知れない。
その多くが日本で相当の地位にある人なのだから呆れる。
ロンドンばかりのことではない。パリやベルリンでも日本人のよく行く料理店などには、
さも得意気にこれらの女を同伴している日本人を見かけることがある。
若い者ならとにかく、大抵相当の年配者である。
いくら旅の恥はかき捨てでもこれはどうかと思う。
しかし遠く故国を離れ、性的解決を要する必要もあろう。
何も道徳的にばかり考える必要もなかろうし、
一生の思い出にこれらを経験することも悪くはなかろうが、
それにしても公然とすることではなかろうに。


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ロンドンの公園

ロンドン市には中央にハイドパークケンシングパークがあり、
リージェントパークには有名な動物園がある。
また、街はずれにある自然林の広大なリッチモンドパーク
人工的な美しさのキューガーデン
東洋風の建物、ウエストミンスターの中心地にあるゼームスパーク
これらの内で最も市民が集まるところは、何といってもハイドパークだろう。
面積は実に8,000万坪もあるそうだ。
サーペンタインという池、南端のルッテンローという練馬場、
池ではボートレースができるくらいだ。
公園はほとんどが平面的で、点在する老樹と芝生で大都会の中心とは思えない幽なところがある。
日曜などは大変な人出だ。大抵の夕方にはマーブルアーチ付近の所々で演説が始まり、
自分で担いできた三脚の上で弁士が熱演している。
聴衆はこれを取り巻いて静かに聴いている。終った後で質問などをしている者もいた。
演説はいかなる種類のものも自由で放任している。
聴衆も訓練されていて、嬌激で扇動的な演説を聴いても盲目的に雷同しない。
冷静に聴くのが常だそうだ。しばらくして真の興論が生まれるのだろう。

この公園の夏の夜の光景も見ものだそうだ。
樹陰の薄暗い芝生の上に無数の男女がごろごろと横臥し醜態を演じているそうで、
英人はこれをグラズ・サンドウイッチといい、通る人も見てみぬふりをしているという。
政府は無論不干渉である。英国人は酷いことは見ない、知らないという風で、
ピカデリーやリージェント・ストリートにあれほど淫売婦がいても、
前首相ロイド・ジョージは議会で英国に1人の淫売婦なしと声明し、
議会もこれを承認しているという状態。
12月近い今時分ではまさか芝生に寝転ぶわけにもいかないと見え、
暗がりのベンチで抱き合い接吻しているのがあちこちにいて、前を平気では通れない。
しかも公園の中を自動車が幾台も静かに通っているが、これが皆その手の自動車である。
欧州の自動車は日本と反対で、走行時にルームランプは燈火しないことになっている。
停車し、料金を払う時に必要上燈火する。
したがってこれらの乗客には実に都合よくできているようだ。

ロンドン市街をつぶさに見る

オックスフォード通りはロンドン市の東西を貫通する幹線で中央にあり、
沿道の建物は6〜7階建てで中には10階以上のものある。
大抵は古い様式でなかなか立派なものが多い。
10階以上の多くは新様式で、小売商店が軒を並べ大きなデパートなどもある。
ちょうど日本の銀座というところだろう。


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2階建ての赤いバスが十間おきくらいに走り、旧式の大きなタクシーが連なる。
この旧式タクシーは我々旅行者には非常に便利で、大抵の荷物は積めてしまう。
勿論、荷物1個ごとに別料金を取るが、メーター制で1割くらいのチップが必要だ。
これはロンドンだけではなく欧州どこでも共通のことで、夜12時以降は料金が倍増する。
次に欧州の街で目立つのは荷馬車だ。
太い足の立派な馬が石敷の街路をカツカツと走るのは独特の情景だ。
車道は電車と自家用自動車で埋めつくされている。

リージェント・ストリートはピカデリーからオックスフォード通りへ通じる円形の街路で、
大体が商店街であるが、整った5〜6階建て建築である。大劇場やホテルなども多い。
ストランド新聞街とかいう出版業の中心地、フリート・ストリート、
セントポール寺院のあるカンノンストリート、宝石商や時計店、
呉服雑貨商の大商店があるチープサイドなど、みな賑やかなものである。
 


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街は不整頓で、街路は曲がりくねり、広い所から急に狭い道路に出たり、
高い建物があるかと思うとその隣に2階建てくらいの店があったり、
立派なものの間に貧弱なものがあり、新旧不揃いで、建物は多くが黒く煤けている。
古きを尊び、新しきを追わない英国人の特長だろう。
この保守的な考えが市街の改良や市民生活の合理化を阻害し、
ことに古典的建造物が至るところにあって、市街の整理ができていない。
あるものは成可く●さずに使うという風で、統制なんて思いもよらないことらしく、
電球などは会社がいくつもあって共通でない。これは実に不便なものだ。
英人の気質も万事に華美を好まず、家庭は昔風に地味で堅実で、

主従関係などは実に封建的。しかも礼儀正しく厳格だ。
通行人を見ても皆どこか田舎臭く、身なりには何の流行もないように見える。
女学生なども地味な服装で、多くはメガネをかけて

電車や馬車でも皆本に目を落していて、若い明朗さが感じられない。
ロンドンの市街は実に保守的で、モダンな感じがしない。
しかし広さと深い落ち着きを帯びていることは確かだ。




2010年4月23日金曜日

ロンドン・イーストサイド

次にロンドンブリッヂを渡って対岸に出て、タワーブリッヂに出る。
1894年に架せられた有名な開閉橋で、当時は非常にモダンで役立つ物だったが、
スピード時代の今日においては、1分間に何十台という地上交通をわずかでも遮断してしまうので、
最近はまったく開かないようだ。川底には鉄道が通り盛んに交通しているそうだ。

橋を見物しながらロンドン塔に到着。
これは単なる塔ではない。約800〜900年前に築かれた当時の要塞である。
城郭内にはいくつもの石造建築があり、
中央に四ツ角に塔のある正方形の建物が高くそびえている。
それをホワイトタワーと称し、一時は宮殿にも牢獄にもなった。
今は古代武器の陳列館で日本刀などもあった。
見物人の興味を引くのは罪人の首切り道具である。
地階の石牢、テムズ河の水牢、王侯貴族が斬られた幾多の長史の跡である。
最後に驚いたのは、長さ五尺、廻り一尺五寸もある純金の棒が10本くらいあったことと、
宝石の王冠、黄金の枝の一握りもある卵形のダイヤモンド。
これは世界最大で516カラットあるそうだ。
ロンドン塔の建物は多くが兵営として使われ、周囲の空壕は練兵場になっている。
黒い毛の帽子を被り、赤い上着を着けた老人の守衛は煤けた城門と城によく似合う。
これと並んで写真を撮った。


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そこを出てセントポール寺院に詣でる。
世界四大伽藍の1つといわれる大寺院だが、せっかくの古建築も前の広場が狭いので
よく見ることができない。ローマの聖ピーター寺院と同形である。
ここにはネルソンやウェリントン、キッチナー元帥など多くの墓がある。
地階にある賑やかなストランド大街や、出版業の中心地、
フリート・ストリートを通ってリージェントパークを経てホテルに帰った。

ロンドン市内観光 〜ヴィクトリアパークからOxford St〜



次にウエストミンスターベイ前のラレバ石橋を渡り、
対岸から議事堂を望みつつ、ウエストミンスター橋をヴィクトリアンパーク、
メントの気持のよい川岸の並木通りの散歩道をドライブする。
対岸の市庁舎を眺めてホテルに帰った。これで午前の時間が過ぎた。


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昼食後さらに出発。
オックスフォード・ストリート、カンノン通りを過ぎバンク広場に出る。
正面にナショナル・エキスチェンジを見て、右に市長官邸、
左は有名なイングランド・バンクである。まさにこのあたりはロンドンの心臓部であり、
商業の中心地、世界経済界の源泉でもあるだろう。
地上は乗合い自動車、地下は鉄道の集合で、その往来の頻繁なこと言葉を失う。
この付近は世界有数の銀行会社、大商店の集っているところでもあり、
その緊張した空気、行き交う人の忙しそうな光景は目も眩むばかり。
さすがはロンドンの底力を感じる。


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2010年4月22日木曜日

ロンドン市内見物




10月27日 
晴天だが寒い。ホテルの自動車で出掛ける。
まず午前11時にバッキンガム宮殿で毎日行われる近衛兵の交代式を見た。
宮殿前のヴィクトリア皇后の大理石像のテラス上から見た。
毎日のこととはいえ、たくさんの見物人だ。
定刻になると音楽隊を先頭にして休憩隊が行進を始める。
先頭が金属製の枝を面白い格好に振って通る。
鼓の楽隊を先頭に交代兵が出勤する。形式張った英国の表現だろうか、
宮殿の右側の並木道を近衛騎兵の交代兵が
赤服・白ふちの帽子に金色の装飾でいかめしく、馬上豊かに通るのは美しい。

それが済んでチャーリング・クロス、ニュー・オックスフォード通り、
ハイドパークのマーブルアーチを通り公園に入る。
池の端で小憩の後、火薬庫を右にブリッジを渡りアルバート・ホール前に出て、
記念碑の前で撮影。さらにクイーンズゲートの高級住宅街を
ナチュラル・ヒストリーミュージアムやロイヤルアルバート・ミュージアム、
ロンドン・ミュージアム科学博物館などを見て、
再度ハイドパークの片側の道に出て近衛兵営を右に見て、
有名なハイドパーク・ホテル前をマーナーに出て、
バッキンガム宮殿前を官衛街に入って首相官邸を見た。
これは実に粗末な物である。


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英国の建築請負い業務についてリサーチ




10月26日 
朝から雨が降る。
午前11時、かねて紹介されていた
パブリック・ウオークス・コントラクター・アソシエーションに
主任のリッター氏を訪問する。
色々と話を聞いたが、氏は土木技師で建築のことはあまり知らないという。
ここは請負業者の協会で、別にシビルインヂニア・インスティチュートがあり、
建築としてはアーキテクト・ソサイエティーがあり、建築業者をして
ビルディング・コンストラクター・アソシエーション等があることを教えてくれ、
紹介状を書いてくれた。28日に訪問することにした。
本日の話題の要領は下記の通りだ。


<1>工事入札は官および民間共いかなる方法によっても官民ともに公入札を目標とし、
一般に公告し入札期日を指定する。官においてはその工事程度によって入札希望者を処理し、
審議許可の上、入札させる。また、入札者自身も自重して自信を有する者のみが真面目な入札をする。
労働賃金および時間は政府で各職別に定められ、絶対に不正入札または大きな誤りはない。
ただし材料費には相違がある。


<2>総合請負か、または部分請負か。
勿論、総合的請負もあるが、多くは各職別でその都度政府の指示による。


<3>官および市による請負規則
営繕省およびロンドン市役所とも、建築土木その他に分かれ規定されている。
これは後日送付してもらう。


<4>請負人は工事入札の場合、当然の利益としてどのぐらいを計上するか。
今時分は非常な不景気のため、通常時の3分および5分くらいの見当。


<5>長期工事の入札方法
2年置きぐらいを限度とする。これを各職別にさらに区分している。


<6>請負業者において計画設計まで行う場合はあるか
絶対に無い。ただし基本的フールサイズは作製し、主任設計者の検査を受ける他、
設計計画に関する図面は政府および政府嘱託の技師、並びに民間に委託できるが、
これは建築技師の責任で行う。但し、その工事はすべて直に請負者と協力する必要があり、
その設計料は請負者合意の上で、最後に支払う場合がある。


<7>工事中の不可抗力による損害の処置について
請負者の申し出により協会を介在して官と交渉する。多くは協会の仲裁によって決定する。
徹底していない場合も多くある。国情の相違、伝統的な習慣から来ることもある。



もっと聞きたいことはあったが、非常に時間を取ったのでこれぐらいにして
あとは書物その他を送ってもらうことにした。

ロンドン郊外の美景




10月25日 
日曜日でとても好い天気である。
予定もなく、欧州の日曜日は公園の他に仕方がないだろうと思案していたら
三井銀行から電話が入る。天気がいいからどこかに案内するとのこと、
これは渡りに船と早速お願いすることにした。

午前11時頃、自動車で迎えに来られ、早速丁君と3人連れで出掛けた。
トラガルファー・スクエアを見てアーチを通り、
バッキンガム宮殿を左に見てハイドパークの側を港外に出る。
景色のいい田舎の風景を賞しながら、ゼラードクルスのゴルフリンクに立ち寄る。
庭園の紅葉した大樹、芝生のスロープのリンクの広いこと、
常緑樹の並木、小川の流れ、チャールストンパーク・ホテルの古い家、赤いツタの壁、
すべてが絵のような景色である。
ここの食堂で大勢の貴族的なゴルファーたちと一緒に昼食をとる。
窓越しに見える外の眺めは実にいい。ここのビフテキは美味かった。

田舎町を右に左に、よい景色の中をハンプトンコートに行く。
英帝の離宮で、外から見たところはほんの邸宅のようだが、内部は相当立派なものである。
歴代皇帝の絵が各部屋に架けられ、家具類は当時のままに配置されている。
全体をゴブラン織りで張りつめた部屋もあった。庭園はイタリア式で見事なものである。
雨が降ったが、緑葉も紅葉も一入だった。
見事な噴水を通してテムズ河を望む景色は実にいい。

帰途、キューガーデンの12層塔を左に見て、リッチモンドパークをドライブする。
自然のままの大公園を乗馬の男女が自由に飛ばしている。
見事な角を持った鹿が放されている。
老樹の鬱蒼とした中を馳駈するさまは、まるで名画を観るようだった。

2010年4月21日水曜日

英国建築の壮麗さを飽くことなく見る




10月24日 
土曜日なので各所への訪問は見合わせ、朝からカメラを持って散歩に出た。

まず、トラガルファー広場に出る。
中央には高さ120尺あまりの円柱、搭上にはネルソン将軍がそびえ立っている。
塔下の四隅にはライオンが配置され、辺りにはよく馴れた鳩がたくさん集まっている。
豆売りの婆さんから買って袋を手にすると、鳩がよく知っていて
頭から肩、手先までたかられて面食らった。おかげで土だらけになってしまった。

正面の建物はナショナル・アートギャラリーで、
前面に2つの噴水がさかんに水を吹き上げている。
ここから南が官庁街、ホワイトホール南側の海軍省、陸軍省、大蔵省、外務省、
印度省の官公署があつまっている。南端は例の高い塔の立った国会議事堂、壮麗なものである。
これと道路を隔てて後ろ向きに建っている大寺院が、ウエストミンスターアーベイである。
ホワイトホールの近衛兵の詰所では、赤服・白毛・金モールの乗馬服が美しい。
ちょいと失敬してその前に立ち、カメラに納めた。ニコニコしている。
この一帯の建物はみな有名なもので、写真や書物の上で度々お目にかかったものばかりで
初めて見るような気がしない。皆お馴染みである。なんだか笑いかけられているような気がする。



テムズ河畔の国会議事堂は実に建築美の粋として有名なもので、英国人の誇りである。
貴族院の側から中へ入る。壁画や石像の並んだ広間、貴族院の議場の金光の美しさ、
歴史書や大政治家の彫像がある廊下を通って衆議院に出る。
貴族院の仏堂のような金光にくらべて、ここはオーク生地のままの仕上げで地味なものである。
最後に右の大広間の教会を通って外へ出た。内部は割合と狭苦しい。
ちょっと寺院的な感じもする。ゴシック様式だからだろう。
内部は写真を撮らせないので外部を2、3枚撮り、前のウエストミンスターアーベイに行く。
これは約千年前の建築で、英国歴代皇帝の即位式を挙げられる寺院である。
今年5月には新帝の即位式もここで挙行されるわけだ。
内部は寺院として実に壮麗なものである。
ホールの敷石にはいくつもの名前が掘られており、これは英国偉人の墓である。
左右に英傑文豪の彫像が並び、帝王の墓は別室にある。

ここを出てテムズ河に沿った小公園を通り、
樹間に見える議事堂の勇姿をカメラに入れつつ、ランバースブリッジ対岸に出た。
ここから見た議事堂のなんと麗しいこと、素晴らしい存在である。
先輩の偉大なる努力の跡を、ベンチに寄りかかり飽きずに眺めた。

帰途、アートギャラリーに立ち寄る。近代美術、特に絵画を集めた美術館である。
ターナーの絵をはじめブラック、ゴッホの白い葵、ゴーギャンのタヒチ、
セザンヌその他、見覚えのある絵がたくさんある。
簡単な昼飯をここでとり午後6時まで観た。

英国 営繕業務のリサーチ




英国の営繕業務は大体において中央統制主義である。
無論、軍部と印度省などの独立カ所もあるが、
その他はすべて営繕省の統制下にあり、
我が営繕需品局と同様、中央官●の需品を統制し、ことに皇室用品も取り扱い、
しかも我々のところにはない国家管理の建造物の一切の管理の責任を有し、
さらに中央官公所、公式開宴の世話までやっている。

請負関係に関しては●統的習慣と各個人の自制、
一人一業主義による教育訓練が行われ徒業は徹底、
その結果、真の責任を有し、自然と業務に通達し信用を維持している。
総合的請負のようなものはほとんどなく、すべてが分業的に行われており、
その間の接合的業務のようなものは、
政府および各業者の組合などと協定した法律によって厳然明細に区分され、
わずかの誤りもないようだ。
そのあたりに関して私は、官の入札などの惑わしさについて質問したが、
むしろその問いを不思議と受け取られたほどであった。

英国営繕省を訪問

午後3時、約束の時間である。
M領事を訪問して紹介状をもらい、
バスに乗ってウエストミンスターの営繕省に行く。

この建物は印度省の建物の隣、ゼームスパークに面して建ち、
ルネッサンス様式の大建築である。受付に刺を通じて時間に面会した。
階上の事務室では1時間ばかり話を聞くことができた。
印刷物をもらう約束をして、さらに詳細な話については
請負に関するセクションの主任、H氏を紹介される。
H氏は英人に珍しく椅子を勧められ、タバコを出され、
『何でも聞け、自分の知っている限り答えよう』と、
とてもくだけた雰囲気で話してくれた。
ここでも遠慮なく、色々と聞くことができた。
午後6時半、すでに退庁時刻を過ぎていたのに気付き、驚いて辞した。
英国の保守的な官吏であろうと思ったのにとても親切で平民的である。
これは学ぶべきことと思った。

英国の街並、その非凡なる美しさ



10月23日 
午前10時、M領事より
『紹介状が出来たので営繕省を本日午後3時半に訪問してほしい』とのこと。
それまでの時間を利用して丁君とバスでハイドパークに行った。

マーブルアーチ前にて下車。
撮影をしつつ秋色豊かな公園に入る。
マーブルアーチは案外小さく大した価値はない。
ハイドパークは市の中心にあり、これはさすがに大公園である。
特に手入れをしているというほどでもない天然の風致で、
老樹が紅葉し広々とした緑の芝生が敷き詰められた平坦な公園は、
都心と思えないほどゆったりとしたものである。
平凡だが非凡の感を受けた。
今日は日曜ではないがなかなかの人出である。
腕を組んで通る男女、子供連れの夫婦者、乳母車を押す女性、
ベンチで静かに休む者、芝生に寝転んでいる学生、犬連れの女性など
たくさんの人に利用されている。
こんな大公園もここでこそ存在意義があるように思う。
芝生にはたくさんの青いベンチがあるがこれは皆有料である。
1日1ペニーだそうだ。

ラウンドポンドの辺りを散歩する。
池端は波打ち際のようにできていて、大勢の子供が玩具のヨットを浮かべて遊んでいる。
無論大人も一緒でこのあたりはパリ同様。
かなり大きなヨットが風を孕んでよく走る。本物そっくりだ。
このあたりは日当たりがよいので日光浴の人の賑わいも加わる。
とくに乳母車を押した乳母たちがたくさんいた。
公園に沿った建物は皆、7、8階建ての立派なもので、すこぶる美観だ。
公園の垣根に沿って花が飾られている。
菊花、ヒヤシンス、チューリップ、カーネーション、すみれなど
色とりどりの見事な花が並べられている。菊花は日本の国花だが、
ここのはまるでダリアのようで色も形も少々変わっている。
きれいではあったが、私たちが菊花から受ける感じは無いように思えた。

2010年4月20日火曜日

体調回復、本国諸機関を訪問




10月20日・21日 
ホテルで予後の静養をした。その間に所々への通信をする。
  
10月22日 
今日は母の命日である。
苦しんだ風邪も治り活動できるようになった。
再び倒れないようにと念じた。丁君と共に各所訪問の続きをやる。

今日は大使館へ行ったが、バスの2階に上って繁華な市街を見下ろしながら、
恐ろしいような賑やかさの中を走る。
2時間ばかり待ち、やっと某書記官と面会。調査の目的を話して便宜を乞うた。
しかしさっぱり要領を得ず、満州の話を2、3したのだが
不認識甚だしく、早速に辞して外へ出た。
ちょうど12時である。
大使がご出勤で、玄関を開けて最大の敬意を表して迎え入れられたものの
正面にいた私たちには目もくれず、ここでは心象を害すること甚だしい。

再度バスに乗り三菱商事へ行き、
支店長および鉄材部U氏らに面会する。
私たちの目的について何かと親切に相談にのっていただき、様々な注意を受けた。
その後、U氏の案内で領事館にM氏を訪問した。
大使館のことがあるのでどうだろうかと思ったが、氏は実に平民的で親切な方。
種々の用件を聞いていただき、支持を得られた。
アシスタントの外国人を呼び色々と調べられ、
ヒズ・メジョシティー・オフイツス・オブ・ワークス(営繕省)の次席の方に紹介、
明日その返事を受ける約束をして辞去した。
丁寧で要領よく、快速に徹底されて嬉しかった。
これで午前中の不愉快を忘れることができた。

回復の兆し、本国からの通信に安らぐ

10月19日 
熱は37度7分に下がる。
マダムが野菜スープを持って来てくれる。
飲みたくなかったがせっかくの親切をと無理に飲んでみたがやはり駄目。
しかし夕方頃からだいぶん元気が出てきた。
食事もいくらか受け付けるようになった。もう大丈夫だ。

三井より留守宅からの手紙を持参された。
妻からのが2通、長男、長女や子供たちからのが一切封入してあった。
その後しばらくして最初の通信をロンドンの病床で見た。
役所のM君からも来ている。
私の出発後の事務全般を知ることができ、諸氏が忙しくしている様子が目に見えるようだ。
すべての仕事をやりっぱなしで出て来たのだ。非常に責任を感じる。
早く帰って協力しなければならない。
何にしても外国にいる身には、本国からの通信は感慨深いものだった。
長男もすでに退院して姉の家で養生しているとのこと、安心だ。
小さい子供からは土産をどっさり持って早く帰ってくれと書いてある。
無事に皆の顔が見たいものである。

ロンドンに病む



10月15日 
8時に目覚める。今日は晴天だが頭が少々重い。
各所へ挨拶に出掛けるのでモーニングにした。
ホテルの自動車で三井物産に赴く。
支店長が不在で次席の方や庶務主任の方々に面会する。
用件の概要を説明し便宜を乞うた。
大連から4、5日前に赴任されたY氏と一緒に近くの三井銀行へ徒歩で行った。
T支店長と種々会談する。
この頃から次第に気分が悪くなり、めまいを感じはじめた。
しきりと悪寒を覚え、来た早々に辞して丁君やY君とも別れ、
急いでタクシーを雇い帰宿、ベッドに入る。
体温38度5分、食欲はない。

10月16日 
体温が下がらずまだ気分が悪い。午後になると39度に上昇した。
冷やし袋も水枕もなく心細い。
熱のためにとりとめもない夢を見る。
留守のこと、子供のこと、はては幼少の頃のことなどが断片的に夢現の間をさまよう。

10月17日 
体温がますます上昇し、丁君やホテルの夫婦が心配してくれ、
早速医師を呼ぶことになった。
午後、日本人医師が来診。
扁桃腺とのことで、疲れも出たのかパリ以来の無理も手伝い、
ひどくやられてしまったようだ。
1人ベッドに伏せ訪れる者もない寂しさ心細さを覚え、
渡欧中の客死者のことなどが頭に浮かぶ。嫌だ嫌だ。

10月18日 
熱やや下がる。やれやれ。ホテルのマダムも度々来訪してくれる。
自分の家にいるように遠慮なく仕事を命じてくれと言う。
渡る世間に鬼はなし。
食欲は依然としてないが3日ばかり何も食べていないのでミルクをもらう。
この3〜4日は通じもなくやはり受付けない。
どうなることやら。

2010年4月19日月曜日

ロンドン中心街の賑やかさ

英国の列車はまことに旧式で、側面から乗り、車両は小さく天井も低い。
しかしクッションはゆったりとして立派である。
今日は注意して喫煙のできる車両に乗る。
英国人たちはちょうどお茶の時間と見えて座席にテーブルを作らせ、
サンドウィッチを食べコーヒーを飲んでいる。
発車の合図は日本の昔のものと同じである。
前部でランプを振り、後部で笛を吹き、機関車が汽笛を鳴らして発車する。

日が暮れて約2時間でロンドン、ビクトリア・ステーションに着いた。
電報を打っておいたので、停車場にはヤマトホテルから出迎えてくれた。
駅前からタクシーを飛ばす。
バッキンガム宮殿前、トラガルファー広場、チャーリングクルスに
デンマークストリートのホテルに着いた。
なにはともあれ朝から飯を食っていないので、
食堂に飛び込み日本食にビールで安着の杯をあげた。
気遣っていた体調も良いので早速地図を片手に賑やかな街に出る。
ちょうど8時である。
チャーリングクルスからピカデリーサーカスに出る。
盛んなイルミネーション、ネオンサイン●を●く明るさ、その点滅、
多種な色彩が実に美しい。それに自動車やバスの波、人道の人の群れ、
雑踏はすさまじい景色である。広場の中心にはエロス女神の銅像が建っている。
ここからレジェント・ストリートを経て、オックスフォード・ストリートに出て、
10時頃には無事に帰った。

ここでも商店は7時閉店、ただショウウインドーだけはあかあかと電飾され美しく、
意匠も凝らされており、これを見て歩くだけでもよい眺めである。
これらの商店の間に活動館や劇場バー、ダンスホール、そしてカフェと薬屋だけは店を開けている。
レジェンド・ストリートで娼婦の襲撃を受けた。
あとで聞いたことだが、この辺りが最も彼女らが出没するところであるそうだ。
寒さも気遣ったほどでなく、3時間ほど散歩したら汗が出るくらいで、
店のショウウインドーもまだだいぶん夏物が飾られている。
値札を見るとこれが相当に高くちょっと手が出ない。
子供たちと約束したものも買えそうにない。こうしてロンドンの一夜は終わった。

英国へ、ドーバー海峡を行く

雨のドーバー海峡はものすごく揺れる。
税関に調べられている間は気づかなかったが、
それが済みやれやれと思ったら少々船酔いを感じてくる。
しかし1時間くらいで上陸するのだ、何のことはない。

午後5時、ドーバーに入港する。
防波堤は3階建ての建物ほどの高さで、大砲が露出している。
左側の山上には城壁のごとく薄暮にそびえている。
桟橋にはすでに列車が横付けになっており、すぐにこれに乗り込む。
無論ここでも英国税関の調べがある。
私のエキザクターをどこで買ったかとか、いくらだとか言いながらひねくり回していたが、
「日本で買った、身分はアーキテクトだ」と言ったら笑っていた。

英国の列車はまことに旧式で、側面から乗り、車両は小さく天井も低い。
しかしクッションはゆったりとして立派である。
今日は注意して喫煙のできる車両に乗る。
英国人たちはちょうどお茶の時間と見えて座席にテーブルを作らせ、
サンドウィッチを食べコーヒーを飲んでいる。
発車の合図は日本の昔のものと同じである。
前部でランプを振り、後部で笛を吹き、機関車が汽笛を鳴らして発車する。

パリ発、ロンドンへ



10月14日 
今朝も体調がはっきりしないが、いつまでも仕方がないので出発することにする。
午後、パリ北駅を出発、ロンドン行き急行に乗る。
途中で雨となり、割合に寂しい沿道の光景を見ながら午後3時半、カレー港に到着。
席はリザーブしなかったので外国人の中に割り込む。


欧州の汽車には喫煙車と非喫煙車とがある。これに気をつけなければならない。
折悪しく飛び込んだ車両がタバコを喫めない車で、3時間ばかり辛い思いをした。
この列車はカレーまで1度も停車しない。
カレー駅で列車を捨てて連絡船に乗り、英国に渡るのである。
ドーバー海峡は見るからに濃霧に閉ざされ、波が高い。


青い目のボーイに荷物を渡し、乗客は並んで税関の検査を受ける。
ここの税関員は女である。それが済んで埠頭側でパスポートを見せ、
検印と番号札をもらい連絡船に乗る時にこれを渡すのだ。
所持金検査もあり、フランスの銀貨を持ち出すことはできない。
船内では航海中に国籍、年齢、ロンドンでの住所、渡英目的などを
渡された紙に英文で記入して、英国官吏の詰所に自分で持って行かなければならない。

「何の目的で来たのか」と尋ねられる。
「パスポートにある通り観光の目的だ」という。
「どのくらい滞在するのか」と聞かれる。
「1ヶ月あまりだ」と答えると、
「英国から先はどこへいくのか」という。
「再度パリへ帰る」と答えると、紙片に何か記入してスタンプを押して渡してくれる。
これが上陸許可証だった。


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2010年4月18日日曜日

パリ、ホテルにて静養す



10月13日 
今日も好天気である。
朝食を部屋でとる。食堂に行くと非常に高いのだ。
ここもボーイを呼ぶのは電話である。
マルセイユ以来習ったフランス語でやる。
すぐに燕尾服を着たウェーターが来る。
パンとコーヒーにミルクを添えて、バターとジャムを付けて持って来る。
欧州一帯はどこもパンは美味いが、ここパリはことに美味い。
昨日1日ほとんど何も食べなかったので、特に美味い。
これが部屋で食べれば1円50銭くらいだが、
食堂に出るとこれにフルーツが1つ付いて4円くらいになる。

外は好天気で実に惜しいが、やはり静養することにする。
どうしても体がだるくて大儀である。

在パリ邦人諸氏を訪ねる




10月12日 
朝、大使館に行って在留届けをし、目的について挨拶方を依頼した。
大使はまだご出勤前ということで、次回会うことにする。
徒歩で近くにある東日のK君を訪問する。
氏はすでに故人になった大連のK君の令弟で、満州育ちの青年記者である。
若く美しい細君に迎えられ、色々もてなされた。
K君は物静かなヤング・ジェントルマンである。
この人が最近、スペインの戦乱地へ飛び込み、戦火のニュースのトップを切って
東都のジャーナリズム連をあっといわせた快男児とは見えない。
1時間あまりフランスやスペイン問題を中心とする欧州各国の動向について
聞くことができた。再会を約束して辞す。


帰途、近くの「都」という日本料理屋で日本食をとる。
しかし昨日来、少々下痢気味なので注意をし、丁君やN君がうまそうに食べるのを
羨ましく見ながら、おかゆをこしらえてもらって食べる。

バスに乗り凱旋門前で降り、無名戦士の墓に詣で、
広く気持のよいシャンゼリゼ大通りを徒歩で満鉄事務所に行く。
遠くコンコルド広場の大噴水越しに宮殿を望み、
道路両側のマロニエの大木は今をさかりと紅葉して美しく、
6〜7階建ての統制された美術的建築、
広い人道にたくさんの椅子を並べたカフェのある街並は、実に整然と美観。
美しい街並、たくさんの通行人、外国に来たことを痛感する。


満鉄事務所に行ったが所長は満州出張で不在、M氏に面会する。
氏の令弟とマルセイユで会った話から、最近フランス国内閣左右派の●争が激しく、
何かたくらんでいるそうで多少危険ともいえるらしく、
私たちが2、3日中に英国へ渡ることを話したら賛成していた。

それから三井物産のパリ支店長を訪問しパリの話をする。
氏は長らく英京ロンドンにおられたので、我らの旅程について
色々と注意をいただき、非常に得るところがあった。
三菱やモパンを訪ねる予定だったが少々疲れたのでタクシーで宿に帰る。
腹具合がまだ悪いので夕食をとらずに静養し、英国に渡る荷物の整理などをする。

パリの夜

当初考えていた旅程は、
マルセイユ上陸後イタリアを見て、スイスに入り、
中欧を見てフランスに入り、ドイツを見てスカンジナビアへ、
それから英国に渡り米国に向かうというものだった。

ところが色々考え、船中で経験者から話を聞いたり、また荷物のことなどを考えると、
語学も十分でなく不慣れなところに荷物を抱えて歩くのは面倒、
しかも北欧、ことに英国は次第に濃霧の多くなる時季に行かねばならないため、
時季的な効果を考えて変更した。
まずパリに入り、荷物の大半を預けておいて英国へ渡り、
再度パリに戻って荷物をまとめてドイツに渡り、
ベルリンから手軽な旅装でスカンジナビアの旅を済ませ、
再度ベルリンに戻り、ここを根城にドイツの各都市や中欧各国を旅して、
その後ベルリンに滞在して十分に目的を果し、再度パリに移動して
スイス、イタリアを旅行するのが時季にかなった旅行であろうと決定した。
このような旅程なので、2、3日中にパリを出発して英国に渡ることにする。

本日夜はホリベルゼルに米国から来ている黒人の美女、ジョセフィン・ベーカーのレビューを観る
彼女の微妙に動かす裸体のスネークダンスや、色々な劇を採り入れたレビューは、
舞台装置と華美な衣装や道具、それに光線を極度に応用して実に美しい。
夜9時に開演して1時頃に終えた。途中2回ほど約30分の休憩時間があった。

劇場の入口側に小屋ほどの大きさのキャバレーがあり、
たくさんの観客がテーブルについてワインやビールをやっている。
その正面には舞台があって、スペイン風の女が特有の音楽をやっている。
ホールの周壁は一切がスペイン風に装飾され、
着飾った男女の観客が階上階下のバルコニーから観ている。
この間をけばけばしい服装をした娼婦が右往左往している。

2010年4月17日土曜日

ルーブル、コンコルド、エトワール




午前10時より観光に出掛ける。
私たちは英語の組に入いる。若い夫婦連れと4人である。
ルーブル博物館からコンコルド広場、エトワール凱旋門、
午前中の部を12時半頃に終え、一旦付近のレストランで食事をし、
2時頃から午後の部へも参加した。これらの記事はまたあとで書くことにする。


共和国とはいえフランスは多分に保守的で、軍人などは中世期に近い服装をしている。
婦人の服装もいたって地味で黒づくめ、どこに流行があるのかと思える。
今日は月曜日で、ルーブルの公園の池には
大人が子供と一緒に小さなヨットを浮かべて競争などしている。暢気なものだ。
気候も時々暖かく、フランス人は小柄な人も多いのであまり気が置けない雰囲気だ。
何となくゆったりと落ち着いているようである。
芸術の都、街はどこを見ても美術的で美しい。
富める国フランスにとってドイツさえなかったら何の心配もなかろうに、
世の中はままならないものである。

パリ、シャンゼリゼの美しき哉




繁華街のショーウインドゥを覗きながら、マドレーヌ寺院広場のクック社に行く。
観光は10時からだという。あと1時間もあるので寺院に入る。

今日は日曜日でパリの街なかはたくさんの人である。
薄暗い堂内は金色に輝く神前、窓側のステンドグラスの極彩色の美しさ、
朝の光を受けてとても美しい、立派なギリシャ風彫刻。
まだ時間があるので少し先のルーブル広場に出る。
中央にそびえ立つはナポレオンが持ってきたエジプトのオベリスク、
その左右のブロンズの大噴水石越しにはシャンゼリゼの大通りが遠くに見え、
コンコルド広場の凱旋門、マドレーヌ寺院を正面に、
左正面は有名なルーブルの宮殿で、今は博物館となっている。
広場の周囲は建物も美しいセーヌ河の橋、素晴らしい眺めである。
ちょうど秋の真っ盛り、紅葉の樹や、
シャンゼリゼのプラタナス並木の美しさは筆舌に尽し難い。

パリのホテル




10月11日 日曜。
午前7時、バスルームの滴水の音で目覚める。
何事かと覗けば、丁君が使用しているが流れが止まらないという。
建築屋が色々とやってみたけれど止まらない。
そこでウェイターを呼ぼうとしたがベルがない。
どうも電話のようだ。さて何といったらよいか、わからない。
ええいままよ!と部屋番号を言ったらすぐに来た。なんのことはない、
そばにおいてある棒付きのブラシでトラップのところをコツコツやると止まった。
さあ、これはさっぱりわからない、K君に聞いてみなければ。
ところでフランスのバスルームには、必ず例の「ビデ」がついている。
これがあるためにフランスは人が○へず男女の問題が絶えないそうである。
湯と水とが出る。


午前9時半からトーマスクック社の観光があるので
全市のアウトラインを認識することにする。仕度して外へ出る。
下の大食堂で簡単な朝食をとる。
果実を1つ食べてみる。リンゴだが美味くない。
しかも1つ60銭くらい取られた。
ホテルの食事は非常に高いので、次からは外で食べることにした。

2010年4月16日金曜日

パリ着




午後7時10分、パリ・リヨン駅着。
駅前は暗い。これが花の都パリか…と思う。
打電しておいたのでN君が出迎えてくれている。
自動車で比較的暗い街をグランド・ホテルに投宿する。
ホテル付近はさすがに明るい。有名なグランド・オペラのすぐ目の前である。大きなホテルだ。
ヤマトホテルの4倍くらいはあるだろうか、内部も美しい。門番の大体服に驚かされる。

ホテルでちょっと休み、日本人会へ日本食を食いに行く。初めて外へ出る。
オペラ前の広場である。
見覚えのあるオペラ、その落ち着きある容姿、金色然たるオーナメント付近のにぎやかなカフェ、
広々としたショーウインドゥの明るさ、遠く打ち続く各色の街頭ネオン、
なるほどこれが花の都パリか…と心躍るのを覚える。

メトロで日本人倶楽部に到着。早速祝杯を挙げる。
N君からバスやメトロの乗り方を教わる。
パリのタクシーは非常に高く、到底毎日使用することは出来ない。
とくに交通の激しいパリの街では、タクシーはゴー・ストップでかえって遅く、
移動はメトロにかぎるそうだ。今日はだいぶん疲れたので早くにホテルへ帰る。
入浴後、日誌を書いてすぐに就寝。今日初めて丁君と別室になる。
ちょうど12時である。

マルセイユ発、パリへ




10月10日 
午前9時の汽車でマルセイユを出発。
欧州の汽車旅行は多くの場合2等で十分だ。1等にはほとんど乗っていない。
たまたま乗っているのは無賃乗車の客だそうだ。
しかし2等もなかなか立派で、深々としたクッションは気持がよい。
8人乗りだが今日は都合よく丁君と私の他に1人だけである。
今朝から小雨がしとしと降り、今尚やまずかなり寒い。
しかし車内はちょうどよい程度のスチームが入っている。


景色のよい海岸線を通り過ぎ、山の手に差しかかる。
リヨンまでは実に寂しい景色である。灰色の岩山に小さな樹々を見るばかりで、
野もすべての取り入れを終えたのか何もない。空はどんよりと寂しい。

ところがリヨン市に入ると沿道の景色は一変し、
古色然たる田舎町を左右に、直線的なポプラの木、柏の類、
紅葉の中や緑の野原に牛が放牧され、小川の流れも清らかに、
教会の尖塔を中心とする田舎町、なかなかよい景色である。


リヨン駅からは満員で、私たちの部屋も7人になる。
フランス人は物静かで皆、黙々と新聞に見入っており大きな声で話さない。
今日は土曜日で、大変客の多い間に兵士がたくさん乗ってきた。
彼らは廊下に立ち、あるいは物に腰掛けている。
横を見ると皆少年である。タバコはどうかと急覚えのフランス語で勧める。
好まぬというのもあれば遠慮なく「メルシ」と受け取る者もいる。
1人の若者を捉えて片言のフランス語で話す。手帳を出してまず歳を聞くと、
18だという。丁度憲三と同じである。兄2人が欧州大戦で死んだらしい。
明日の日曜日を田舎の家で過ごすために帰るのだそうだ。
服装のことを聞いた。帽子を「シャッポ」という。なるほど私たちの少年の頃を思い出す。
母からその時分流行した赤いすじ入りの軍帽、いわゆるシャッポを買ってもらって得意であった。
母が逝ってすでに30余年、母の年を過ぎてすでに45年、私も老いたものだ。

将校かと思うような立派な服装をした者が来て、食堂のリザーブをする。切符を渡す。
行ってみると食堂は汚い。満鉄線の方が遥かにきれいである。
食べ物も肉はちょっと美味いが、見たところ乱暴な料理だ。見た目よりも味らしい。
いくらでもおかわりをくれる。見るとフランス人は大抵おかわりをしている。
体格の問題だ。私たちは1皿がやっとである。またここでも備え付けの水はなく、
ミネラルウォーターである。私たちはワインを取って飲んだ。

マルセイユ2日目

10月9日 
7時に目覚める。昨夜は欧州大陸の第一夜をよく眠った。
9時にはY氏が迎えに来るので早速起床。用意して下の食堂で簡単な朝飯を済ます。
このあたりの人々も朝は皆、パンとコーヒーくらいである。
少し時間があるので市内を散歩する。
文具店でサインブックを求めたが、小さいので3円くらいする。
写真のフィルムもアグファのベストで約50銭。
高い絵ハガキも買ったが、大体1枚10銭である。宿料と比べると高いように思う。
ショーウインドゥに飾られた婦人服も相当高い。
ちょっとしたハンドバッグが20円くらいだ。
しかし男の洋服類は安く、25円くらいでなかなか洒落たのがある。
ネクタイは安い。多分人絹だろうが30銭くらいのものがたくさんある。
Y氏が都合で9時に来られないという。



正午から雨が降り、仙台高工出のM氏が同宿する。氏はパリ満鉄事務所のM氏の令弟だ。
欧州からの帰途で、当地から諏訪丸で帰省されるという。
昼食を共にして様々な欧州旅行談を聞く。
私たちは本日までの船中生活と寄港地の風物について話した。



午後2時からY氏に案内していただきタクシーでマルセイユ市内見物に出かける。
●城港に架けられた渡船橋を自動車のまま渡り、
海岸にある欧州大戦記念碑を見て、眺めの良い海岸のドライブウェイを快走する。

雨は止み、遠く海上にモンテクリスト(別名・巌窟王)で有名なデーブの城砦を望む。
緑樹の間にかさなる色とりどりの別荘、丘の上のノートルダム寺院の高塔の金色。
登山エレベーターで寺院に参拝、寺院はロマネスク調の砂岩石造だ。
ここからの市内の眺めは実に良い。
さらに競馬場や植物園を見た。樹木や草花は日本と似ている。
ちょうど柿の時季で、すずなりになっているのも懐かしい。
道路の両側はプラタナスの並木がトンネルのようで、若芽頃は特別に美観とのこと。
両側の屋敷街は新京の住宅街もこのようであったならと羨ましくなる。

博物館前に到着。見上げる階段式噴水は美しく、さすがに古都の落ち着きが見られた。
帰途、郵便局へ立ち寄って切手を求め、コレクションブックにスタンプを乞うと
丁寧にしてくれた。1度部屋に帰った。
喉が乾いて街のカフェでお茶を飲む。
ライターの石が無くなったので大通りの店で買う。
片言でも結構間に合うようだ。心配することはない。