2010年6月28日月曜日

プラハ到着




列車は20分ばかり遅れて4時10分、プラハのマサリックバンホフに着く。
ここには同国の恩人、現大統領マサリック博士の銅像が建っている。
駅前でエスプラナードを呼んだら大男のポーターが来て荷物を持って歩き出す。
近くだろうと思って付いて行ったが、どうしてなかなかある。
しかも大男に付いて歩くのはかなり骨が折れた。
曲がりくねった道を行きホテルに着いた。
広間の横はカフェで、外からも入れるようになっている。
ちょうどお茶の時間で大勢の男女で賑やかだった。
事務員は英語を話すので、明日のルンドハルト(観光)を頼んだ。

まだ5時で夕食には早く、丁君と2人で地図を頼りに外へ出た。
ホテルの前から後ろに行って広い大通りに出る。非常な人通りである。
反対側などは歩けないほどだ。よく見るとここは左側通行。
欧州の都市は所によって左右が変わるので旅行者は大変だ。
たくさんの人にもまれながらショウウインドウを覗いて歩く。
今日は日曜日で特に人が多いらしい。
クリスマスも近く、いわゆる年末気分なのだろう。
商品も多く、若い夫婦連れが乳母車を買い、2人で持って行く和やかな光景を見た。
ここでは日曜日でも開いている店が相当にあった。


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プラハへ

ドイツの駅はどこでも同じである。
大きな鉄骨の屋上で行き止まり。この鉄骨の屋上の中は待ち合い室はもとより、
各種売店があり街路のようだ。外に出てタクシーで市内見物をする。
今日は日曜日で午前中は特に寂しい。店は皆閉めている。
目抜き通りを通って郊外近くまで行き、引き返す。
川沿いに寺院、劇場などを見て立派な橋を渡り
対岸に出て駅に帰った。約2時間を要した。

12時40分、ドレスデンを発ちチェコのプラハに向う。
午後1時頃、食堂車で飯を食っていたら、
ベルリンで同宿だった美術学校のY氏、農務省のN氏に出会い食事を共にする。

列車はライン河の支流に沿って走り、山峡の景色は絶景である。
緑樹濃い森、奇岩に架かる石橋、山頂の一角に突出する家、
川沿いのドライブウェー、それらの間によく洗練された小住宅が続く。
ここは必ず昼間通らねばなるまい。

午後3時頃、国境の駅に到着。税関吏や政府の役人が大勢来て、
パスポートから所持金一切、クレジットの残高まで細かく書かされる。
もちろんマルクは1人10マルクしか持ち出せない。
それ以上隠して持ち出すと死刑だそうだ、恐ろしいことだ。
一役人が調べの後でニコニコと話しかけ、日本の切手を持っていないかと言う。
2枚ばかりあったのでやったら非常に喜んでいた。
欧州は今、どこでも切手のコレクションが大流行だ。
駅に両替屋があるので試みに独貨10マルクを交換したら77クローネ50になった。
1クローネは日本円で約13円だ。
列車は沿道の絶景を窓外に眺めながら進む。
チェコの畑はよく耕され、青々とした麦が生えている。
家屋はドイツの農家より遥かに程度が低く、道路も泥濘で、
日本の田舎道の方が遥かにいい。

ドレスデン




12月13日 
午前6時。マダムに起こされる。
昨夜よく眠れなかったのでとても眠い。部屋で食事を済ませ、
7時20分にホテルからタクシーでアンハルター駅に向う。
まだ暗く人通りのないピカピカの道を行き停車場へ着く。
列車はすでに2番のプラットホームに着いていた。
プラーグ行きの2等車に乗る。
6人乗りのところにドイツ人2人と私たちである。

午前7時40分、
明け方の氷結したホームでめずらしく日の出を仰げ、幸先よく発車する。
ドイツの郊外は実に美しい。
すっきりとした松林、美しい白樺の林、広い芝生は青く、
単調ではあるが整然とした美しさがある。

9時半ドレスデン到着。
下車の用意をしていると老車掌が来て切符を出せと言う。
何のことかと思って渡すと、乗車のとき回遊券の帳面から
3枚切り取ったのを持って来てこちらに来いと言う。
ホームに降りて駅長のところに行く。
なるほど、途中下車を告げなかったので1度取り上げた。
国境までの切符を返してくれるというわけだ。
駅長は3枚の切符を丁寧に貼付けてくれる。
気の毒なことをした。途中下車を言告げなくてはならないのだ。

2010年6月25日金曜日

外国の理髪店、写真館

12月12日 
だいぶん頭髪が伸び耳までかかるようになったので、
カーデウェーの理髪館に行く。
散髪・洗顔・ひげ剃りで3マルクだ。
5ペニーを散髪人にやる。それが習慣である。
ベルリンでは料理屋でもカフェでも
チップは勘定書に入っているので世話はないが、
理髪店だけは別に職人にやる。
散髪は日本の方が上手で、衛生的で気持がよくて安い。

3時頃記念写真を撮りに行く。
キューナーステンダムの「エンケルメン」というのが上手いと聞いて行く。
黙っていたら色々な形で6枚くらい撮った。
『午後9時頃には焼き付けてホテルに見本を持って来るからその中から選べ』と言う。
なかなか美術的に撮れていて面白いので、
1枚頼んだら約50マルク、日本円で40円ばかり取られた。
もっとも大きさは4ツ切りである。

いよいよ明日出発し、中欧諸国へ出掛ける。
コースは、アンハルター駅を出て、道中ドレスデンを2〜3時間見物し、
途中国境を越えてチェコスロバキアのプラハに泊まり翌日見物、
午後出発してハンガリーに入り、同夜は首都ブタペストへ、ここには2泊の予定。
その後オーストリアに入り、ベルリン帰着の予定で、約11日間の旅行である。
旅の準備などをして、折から届いた満州日日や新京日日を読みふける。
しかし明朝は早いので早く就寝する。

ハーゲンベック動物園




12月11日 
午前9時。U氏に起こされた。外は濃霧が激しく暗い。
今日はハーゲンベックの動物園見物である。
20分ほど電車に乗って有名な門の前に着く。
案内書を買って1から42まで順を追って見たが、
ベルリンのツォーを見た目にはかなり見劣りがする。
全盛期の設備も建ってはいるが経営困難と見えて
掃除も行き届かず、破損したままである。

帰途は電車で領事館や事務所へ挨拶に寄った。
領事館で英国皇帝退位の話を聞いておどろいた。
それから1つ2つデパート見物などをして、3時半の特急でベルリンに帰る。
定刻5時半ベルリン着のはずが、すでに市内に入りながら
故障か何かで2、3度停車し、ついに1時間半も遅れた。
2時間で走る特急がこんな有様。あきれてものが言えない。
しかも係員もなんとも言って来ない。
乗客も落ち着いたもので黙って知らん顔をしている。
やっと動き出したと思ったら最後の駅の前でまた止まってしまった。
我慢出来ないので下車した。小さな駅でタクシーもなく、やっと歩いてツォーまで行き
「都」に寄って朝からのすきっ腹にしこたま詰め込んだ。


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2010年6月21日月曜日

ハンブルグの夜





本日の夕食はこの地の一日本人が経営する日本料理店で、
久しぶりに本物の日本料理に近いものを食べることができた。美味かった。
一品残さず食べた。主人は英国その他にすでに30年あまりもいるという。
日本料理も少々怪しいが、この主人のサービスで色々と話しながら愉快に食った。

食後、東京・浅草のような盛り場、サンポーロの夜影見物に行く。
近付くに連れてイルミネーションで空も明るく、まったくの不夜城である。
大通りの両側は活動写真や劇場、ダンスホール、カフェ、レストラン、
変な見せ物まであり実に賑やか。一流カフェに入ってみる。
正面ではバンドを盛んにやっている。中央はダンス場や余興場。
その周囲の階上・階下のテーブルでは、着飾った男女の客が酒を飲んでいる。
その間にはその手の女も大勢いる。
やがて時間が来ると中央のダンス場が2メートルくらいせり上がり、
4〜50人の裸体の女が舞台が止まるとすぐに踊りだす。
滑稽なものや軽業に近いものなど色々ある。
その間にはお客やダンサーが出てきて、これがまた盛んに踊る。
みな夜会服で着飾り、貴婦人のようだが高級娼婦だそうだ。
これが自分たちの席のすぐそばに陣取って、
席に着くなり「ああ喉が渇いた」などと聞こえよがしに言う。
相手になったら大変だ、知らないふりをして余興を見る。

10時頃ここを出て公娼のいる通りを見た。
裏通りで一丁ほどの通りに、出入り口は木柵が設けられその間から入るのだ。
通りの両側は皆それで、窓という窓に脛もあらわに厚化粧の顔を出し、片言の日本語で呼ぶ。
旧制の公娼廃止の結果、約2万人の私娼がでるようになったということで、
ヒットラーも仕方がないのでこんなことを許しているのだろう。

途中で特産の某氏も加わって総勢5人、もう1軒カフェに飛び込む。
深夜12時頃だが大変な人出である。
蒸れた空気、雑然とした光景、男女の群れが飲み踊り騒ぐ。盛んなものである。
いつしか我らもいい気持ちに酔ってここの一員となる。
2、3度ダンス場に飛び出してみた。1曲の長いこと、へとへとになり、
酒の酔いも色もさめてしまう。宿に帰ったのは2時だった。

2010年6月20日日曜日

港湾都市、ハンブルグの様相




次いでビスマルクの石造りの巨像を見て埠頭に出る。
広い港内は海のようで、これがエルベ河数千里の上流にある人工の港とは思えない。
岸壁では1時間おきに出発する大きな遊覧船が客を呼んでいた。
対岸には倉庫や、林のような重機類が見通しのつかないほど並んでいる。
沢山の船舶は荷役中のものもあり、岸壁と離れて2列に係留している。
1万トン以上の船が多数停泊している。
私たちの乗った郵船の照国丸や靖国丸もここまで来るのである。
日章旗を高く翻す日本の貨物船も2、3隻いた。

この港はエルベ河の中流で、
アルトナというハンブルグの隣接地から約5里の間に築かれた人口の港で、
5万トン大の船を横付けでき、
150隻の大汽船と50隻の小船が自由に発着できるということである。

それからエルベ河の河底を通じる地下道を通過してみた。
地下道の出入り口には普通の通路と同じく大エレベーターがあり、
中は歩道・車道に別れ、自動車は車道を走り、人は両側の歩道を歩く。
工場地帯から帰る人と自動車で身動きも出来ないほどの混雑だった。
この地下道は深さ70尺長さ1500尺で、
エルベ河は大船を浮かべ、この河底は間断なく自動車を走らせる。
当時は相当苦心な工事であったが、
このスピード時代ではエレベーターで上下することはすでに時代遅れだろう。
ロンドンのタワーブリッヂ同様、過去の存在だ。

ハンブルグの街並



湖に面した食堂で遅い昼食を済ませ、タクシーで市内見物に出る。
市の中央にあるビーネヌアステル池の付近には
大きな商店、銀行、劇場、料理店やホテルなどの高層大建築が集まっている。
ラトハウス(市庁舎)は有名なもので壮麗である。
ここの広場は電車、バス、地下鉄などの中心点で非常な雑踏である。
所々に大尖塔のある教会が建ち、四方に続く商店街はなかなかの繁華で、
ベルリンよりもむしろ活気横行し、街を行く人々も忙しそうだ。
この付近に日本領事館や正金銀行もある。

市内は500年前の古く細い運河の両側に傾いて倒れそうな建物が並び、
隣家同士でお互いに迫り合って持ちこたえている。
その汚れた壁、色、かたちが運河の水面に映り面白い。
高台の教会の尖塔までエレベーターで昇り市街を見下ろしたが
あいにくの濃霧で見えなかった。
何年も前にプレートで見せられ驚異の目を奪ったセロハンスの建築物、赤レンガ、
その異様な形・・・久しぶりに旧知に会ったような気がした。

2010年6月18日金曜日

ハンブルグ行き

12月10日 
今日はハンブルグ行きである。
ベルリン〜ハンブルグ間を約2時間で走る、
流線型の超特急ガソリンカーが1両を占める列車を利用する。

中央にプラットホームがあって前方は普通車両、後方は喫煙車両で、
中央に簡単な食堂やトイレがある。室内も座席もモダンでなかなか立派である。
満員だったが席をリザーブしてあったのでゆっくりと乗り込む。
車内に1人の日本人がいた。東京三越のU君である。
氏も初めて行くので同行することにした。

定刻午前11時出発、時速約160●の快速力で走る。大した揺れはない。
窓の外は雪の平原、雪の衣を着た樹木。ハルピン線とよく似ている。
U君のデパートの話やドイツ商品の特長を聞きながら、
いつしかハンブルグ・ハーフトバンホフに着く。
事務所から電話があったそうで、駅では満州国事務所当地出張所の所員に出迎えられ、
タクシーで湖畔の「アトランティック・ホテル」に投宿。
湖畔の見晴らしのよい部屋だ。
このホテルは当地一流で時々ヒットラーも宿泊するそうである。

ベルリン中央銀行を見学




12月9日 
目下、ベルリン市に新築工事中の中央銀行の現場見学に出掛けた。
銀行の●事務所では建築技師に会い、副総裁も来られ模型について説明してくれた。
それから現場の主任技師に連れられて現場を見た。
建物はすでに7割方出来ていて仕上げにとりかかっている。
建坪3万5千平米の5階建てである。
簡単な新様式で、鉄骨コンクリート造の外部は石張り、
階下の壁全面に大彫刻があり、ちょうどその原石を取り付けているところだった。
外国の建物の彫刻は皆、建物に取付けた後に施す。
ここでは鉄骨を被覆するコンクリートはレンガや石などを同時に打ち、
柱や梁が出来た頃には壁面は完成しているわけだ。
地階の防毒層と屋根の防空は説明しなかったが、
図面上で見ると屋上には2重のスラブを打ち、約1メートルの中空が出来ており、
地階は4層で最下部の2層はおそらく防毒装置ではないだろうか。
いずれも平時はガレージにするらしい。鉄骨はもちろんリベッチングだった。

郊外を愛で、サーキットを走る

12月6日 
日曜日でよい天気である。部屋の窓越しに公園が見える。
市街の家々は陽光を受けてあかあかと照り輝いている。
風もなく空気は澄み渡り、微動だにせず立つ樹木、
池には無心で遊ぶ水鳥、静かで平和な光景である。

今日はK氏の案内でベルリン郊外の秋を見に出掛けることにした。
自動車で迎えられ、クルメランケからワンゼに出て、
静かな湖水、白樺や松林の間にある白壁の住宅、
沿道に紅葉を敷いた鬱蒼たる森林をみる。
新緑の頃から夏にかけてはどんなにか美観なことだろう。
大勢の男女が相携えてピクニックに出掛けている。

湖畔の料亭で昼食を済ませ、坦々とした自動車道路で有名な自動車競技場に出る。
ここはオリンピックのマラソンのターン地点である。
汽車の線路に沿った松林の中、一直線に出来ている。
ここはプライベートエリアで、料金を払わねばならない。
この気持のよい自動車道路を約60里の速力で走らせる。
側を走る汽車を追い越すのは実に痛快である。

3時頃帰宿、あんなによい天気だったのに雪になった。
途中で自動車事故を見た。道路の並木に衝突して並木が中央に立っていた。
相当の怪我人が出たことと思う。
ベルリンでは毎日約300件の事故があり4、5人程の死人がでると聞くが、
自分たちは1度も見受けたことはない。

2010年6月16日水曜日

お礼の会を開催

12月5日 
滞在中、公私とも非常にご厄介になった満州国事務所の方々へ
お礼の気持を込めて日本人会で日本料理の昼食を差し上げることにした。
K氏をはじめ、皆にご出席いただいた。
ナチスの現状、ドイツ人の私的生活、はては日本人の実情から
話は次第に下っていき、ベルリンの夜の話になる。
来訪日本人も1度はぜひ通らねばならぬ関門とのこと、
この点K氏と私はいまだに脱力状態で大笑い。

宴を午後4時に終え、5時頃より外交部から来ているS君を伴って
マージャンを2回ばかり試みた。久しぶりでなんだか忘れたような気がする。
12時頃終えて外へ出る。あまりに喉が渇いたのでカフェに飛び込む。
土曜日で中は男女の群れで満員、しかも皆相当酩酊して男女相擁して接吻、
とても見ていられない。外の者も大声で歌っている。
我らのテーブルにビール片手で押しかけてくる者もいる。
昼間は皆無口で、電車の中でも大声で話すのは無教養なこととすましているが、
夜になると別人のようになる。

ベルリン動物園などを見つつ…



12月4日 
今日はツォー動物園見物である。
正門は東洋風の極彩色で、ディテールもよくできている。
中の各種の動物小屋は世界各国の建物の模型だ。
広い庭園内にはとても1日ではすべて観ることのできないほど
たくさんの動物が集められている。
時候が悪いため、わずかに黒熊が外の砂原に出ているだけで、
トラもライオンも皆、檻の中にいた。
鳥類には初めて見る美しいのが数限りなくいた。
特に水族館は立派で、内部に熱帯植物を配して動物の自然な棲息の状態が見られる。
夏のここは様々な余興などもあって面白いそうだ。


出口のところでS博士にばったり会う。
2、3日前にパリから来られたそうで、3人連れで街を散歩して別れた。


午前中、かねてから進行中だった国務院庁舎がいよいよ竣工したので、
所長、局長、ならびに大林組あてに祝電を打った。
普通電報で3通の料金が約50マルクほど。
この電報はちょうど5日の朝着くはずだ。
工事半ばにして出発した国務院庁舎がどんなふうに出来たか早く見たいものだ。
大切な竣工時期に留守をして甚だ責任を感じる。
国都建設局から需要處に専任を命じられ、極端に多忙な間の計画で遺憾な点が多い。
永遠な責任あるものを考えるにあたり、
もう少し落ち着きのある仕事の仕方をしなければならないと思う。
第8庁舎、総合法院、民政都庁舎、国務総理大臣官邸や建国廟など
上司がおられることである。皆々順調に進んでいることだろう。
宮内府の計画はどうなったかも甚だ気になる。

2010年6月15日火曜日

海外居住者の苦難を偲ぶ




海外居住者は一見すると華やかなものだが、
考えてみるとそれはごく僅かなことで、不自由で気の毒なことが多い。

公私共に母国にいる場合の2、3倍の努力を払わなければならない。
公務上においても国情の違う、しかも対外的には極端な秘密主義を相手にし、
相当認識を有する自信があっても恐らく徹底できることではなかろう。
その間も自国からは勝手な注文が殺到し遅速を云々され、
うまくいって当然で不成功の場合はその責任を問われ、
おまけに日に月に視察漫遊の旅行者が押し掛け、
何の連絡もなく一人よがりの認識不足の依頼をしてくる。
繁多な用務の間でも彼らを相手にしないわけにはいかない。
役所は予算の都合で従業員も不十分、文具にいたるまでしばられて、
公務の対面もあり、事情を具申すれば贅沢のようにとられてなかなか承認しない。

大小公務はこちらの都合のよいようには運ばず、
私的生活においても衣食住の三要素を欠き、子供たちの通学も考慮せねばならない。
そんなこんなで家族を故国に残し、離れ離れで5〜6年も独身生活を送る者もいるようだ。

一概には言えないが、こんな不自然な生活をしながら満足のいく仕事はできないだろう。
K氏はこれに加えて未承認の各国を相手とし、
しかも初の駐在官として多大な期待をされているだけに、非常な苦心と努力を必要とし、
細心の注意をもって相当押しの強い活動を続けられている。
必ず好結果を得られると確信するが、その苦心を想像すると同情に堪えない。
しかし日独協定の成立は氏の努力にも好転を来すものと思う。

在ドイツ邦人宅を訪問する




夜、ベルリン満州国通称代表であるK氏の自宅に招待された。
住まいは市の南方郊外の住宅街で、
庭園を広々とった2階建ての相当な住宅が続いている。
概して古い様式のものが多く、プレートなどでお馴染みのものも見受ける中に、
新様式の白壁フラットのものもあった。

主人、令嬢の出迎えを受けてしばらく応接室で雑談、やがて食堂に案内され、
婦人に心づくしのドイツ料理をご馳走になる。
話せば料理の苦心談など、様々なことをお聞き出来た。
特にベルリンは魚類に不足し、野菜その他は実に高値であるそうだ。
日本料理は材料に困るそうで、日本などでは想像もできないことだ。

日本人の海外居住者の苦心は実際に同情に堪えない。
考えてみたまえ、味噌なし、醤油なし、茶もなし、豆腐もこんにゃくもない。
その他日本では特に貴重でもないような調味料のショウガも山椒もないのだ。
このような状況下では日本食とはいかない。
しかも常食の米はイタリア米で、色は黒くサラサラで油気のないものだ。実際心細い。
小さいお嬢ちゃんなど、子供心にも故郷を思い出して
「こんにゃくが食べたい」などと言って困らせるそうだ。
日本のものは子供でも制して食べるそうで、聞くだけでもいじらしいではないか。
日本茶も来客時にだけ使われ、家族は紅茶のお茶漬けだ。
贅沢は言えない。帰って子供たちにも話してやらなければならない。
K氏は5人の令嬢をもたれ、皆それぞれベルリンの学校に通学しておられる。
10時に辞す。

ベルリンのドリンクバー




11月30日 
三井銀行の当市代理店「コンメルツ・バンク」では、
新しく私たちのクレジットからレジスターマルクを出してくれない。
仕方がないので正金銀行に行って頼むと承知してくれ、早速1回分500マルクを引き出す。

正金で出会ったM氏と付近のオートマットで昼食をとる。
いわゆるカフェテリアで、ガラス棚の中に種々の料理が並べられ、
各自好きなものを選び、記入してある金を入れれば少しして1人前が出てくる。
スープとコーヒーは別のカウンターで売っている。
その他の飲み物は反対側の壁に水道のようなコックが並んでいて、
名前と定価が付いており、その上の棚にコップが載っている。
下の洗い場でちょっと洗ってコックの下に置き、金を入れればちゃんと1杯分だけ出る。
結局10銭の料理1皿、スープを1皿10銭、計30銭である。
安くて早いがあまりにも事務的で、飯を食うような気がしない。
衛生的にもどうかと思う。

2010年6月14日月曜日

オリンピックスタジアム見物




11月29日 
トルコ旅行より無事帰られたM氏の来訪を受け、
私たちの中欧旅行について細々とした注意をいただいた。
各種の準備ができ、氏の親切は感謝に堪えない。

昼頃から氏の案内で郊外のオリンピックスタジアム見物に行く。
今日はよい天気で久しぶりに日光を見る。
大スタジアムおよび後方のフィールド、右側の水泳場、
その他各種単独競技場や野外劇場などを見た。
建物は総石造りで主要な部分には塔や彫像が建てられ、前面には広場がある。
場外からスタジアムに入った。トンネルその他、随分と思いきった設備である。
次回のオリンピックは日本が招来に成功したが、
果たしてこれを越えるような設備ができるかどうか。
M氏の言われるところでは今尚、敷地さえ確定しないらしい。

何事につけても日本はあまりにも意見が多すぎるように思う。
設計にしても意見が対立しているとかで困ったものである。
小異を捨てて国家を基礎とし、大同に協力すべきだろう。
設備なども何もベルリンのものを越すような考えを持つ必要はあるまい。
要は新時代の日本精神を練り込んだ、競技精神に目標を置いた簡素なものでよいと思う。
大きなスタジアムの正面や水泳場に立って、
遠来の日本選手たちが優勝旗を掲げたときの感激的な光景を想像してみる。
傍らの塔身に優勝国および選手の氏名が彫刻され、永遠にその名誉をとどめていた。

日独協定の締結にあたり…




11月25日 
あらかじめ約束してあったベルリン建築協会の会長を訪問する。
書記長と共に私たちの懸命の問いによく答えてくれた。約2時間で辞す。

外に出ると大きな声で夕刊を売っており、いつものことで別に気にとめなかったが、
わざと私たちに突き付けるので見ると、日独協定の成立を報じている。
満州国事務所に行ってK氏その他と大いに祝福する。
東西非常時において、国家同士が同様の目的に自然と手を繋いだため出来たので、
奇とするには及ばないが、これによって東西が真の平和を確立し、
その他の国の各種の問題も解決するだろう。
英・仏の老人国はしばらく機嫌が悪いだろうが、時代の流れに抗うことはできまい。
自然に了解することだろう。
スペインに対するロシアの努力もある程度の牽制ができ、
次にイタリアも加盟するだろうから、これで欧州の紛糾も解消するだろう。
ただ気を付けねばならないのは、
あまりに積極的になりすぎてその反対の結果を招来しないよう、
老人国とも協力し自信ある冷静な実動をとらなくてはならない。
満州国承認問題も一歩進展したものと見てよいだろう。
当地の満州事務所もいよいよ多忙となり、
各種懸案問題も斬時解決するものと考えられ、K氏と共に祝福した。

工業学校などを見学




11月24日 
今日は少し寒いが工業学校の参観である。
音楽学校や美術学校などが並んでいる。
建築科の教師に連れられて製図室を見せてもらう。クラシックな製図をしている。
教師の話では、ここではおもに構造に重きを置いて、
美術的なものは美術学校の建築科でやっているそうだ。
生徒作品の図面や模型などを見たあと、交通博物館に行く。
歴史的な鉄道の陳列があり、実物や模型で詳しく説明してある。
カイゼルの使用した宮廷列車がすでに過去の存在として陳列してある。
ナチスの兵士がたくさん見物していた。
建築関連はほんの僅かに歴史的な製図があっただけだ。

夕食は久しぶりに「あけぼの」ですき焼きを食べた。
丁君のお相手に日本酒を飲んでいい気持ちになったところで、
イタリア駐在官のA中佐に会う。
O大尉がロンドンへ行くなど何事かあるらしい。
日日の記者も「1、2日のうちにちょっと面白いことがあります」
などと言っていたが果たして何のことやら。

2010年6月9日水曜日

音楽会、夢幻の調べに酔う夕べ

ベルリンのいわゆる下町に出て市役所に行く。
赤レンガのゴシック風建築で、オリンピックのために化粧直しをされていた。
ここの地下で昼食をとる。
どこの市役所にも地階にレストランがあり、割合に美味いものを安く食わせる。
帰途、近くのデパートで子供服を見た。
スキー用の毛の帽子と首巻きがおもしろいので、2、3個買って新京に送らせた。
今晩はフィルハーモニーがあるのでT君の案内で行くことにする。
丁君は疲れて帰るというので荷物を頼み出掛けた。

7時の開演までまだ時間がありファーターランドに寄る。
見物はこの次として、ここのシネマを観て定刻に音楽会へ行く。
付近はすでに自動車と人の波、皆タキシードや燕尾服、
婦人はドレスに身を包んでいる。場内は大変な人だ。
大ホールは金色燦然たるもので、正面のステージは段型となり、
約100名の楽士は礼服に各種の楽器を持って控え、
階上にはギャラリーがあり、約6000人を収容できるそうだ。
やがて白髪のコンダクター、サバタ氏が嵐のような拍手に迎えられて、
中央に着座し聴衆に挨拶する。イタリア人とのこと。
曲目はヨハン・シュトラウス作、ドンキホーテの物語。
低く高く、遠く近く、万雷のごとくあるいはまた水流のごとく、
約1時間に渡る演奏に酔わされ急賛総員規律のアンコールの拍手。
その後第2曲目、ボレロが始まる。
ちょっと日本の何かに似ているように思った。これで約20分の休憩である。

広間に出てコーヒーを飲んで一服する。
やがて開演のベルに再度着席、第3曲目、ブラームスのシンフォニーである。
その哀音は斬時強大となり、無限に引き延ばされる夢幻の調べ、
思わず瞑目すると、約100人による各種の音色もただ1つの音となる。
ホールも聴衆もいずこにか消え、身体は天上遥か美しき夢の中を飛ぶ喜びである。
恥ずかしいことであるが、私はいまだこのような音楽を聴いたことがなかった。
音楽に対する目を開かせられた気がする。子供のためにもよいだろう。

この建物は1838年造、今から100年ほど前のもので、
外観は立地の関係もあって倉庫のようだが内部は大変立派である。
ことに聴衆がおそらく中流以上の人たちだろうが、教養を備え、
音楽に対する理解を持ち、訓練されていることには感心した。
約6000人以上の人々はコトリとも音をたてず、囁き声ひとつしない。
その極致の妙技は楽曲が終わるまで拍手などしないことである。
日本でもこのような個人的な修養と、大衆の訓練とに一層の努力の必要を考えさせられた。
4年後のオリンピック招致に成功したといえ、スポーツばかりのことではない。
国民全体が各種所作で嘲りを受けないようにしなくては、真の成功とは言えまい。
就寝前まで色々と考えさせられた。

ベルリン市街見物、ふたたび



ブランデンブルグ凱旋門をくぐると、
ベルリンでもっとも繁華なウンターデンリンゲンの大通りに出る。
この通りは公園を貫通して東西に走る最長最大の中央道路で、東端は宮殿に至る。
この界隈がベルリンの心臓部である。
官公庁、大学、図書館、寺院、博物館、オペラ座その他、
様々な建築物は皆この近辺にある。
街路の中心にフレデリック大帝の銅像があり、フレデリック橋を渡れば、
右に宮殿、左にドームの寺院があり、広場の横に博物館がある。
宮殿前には河を背にして馬上のウィルヘルム1世の銅像がある。
宮殿を見たが外部は煤けて汚いが、内部はあっさりと堅実に仕立ててある。
カイザーが人民に大戦の布告をしたというバルコニーや、
ネルソンがトラファッガー戦争で乗っていた船材で作り、
布告分を書いたという英国皇帝から送られた机なども見た。
今、カイゼルはセント・ヘレナの配所で悠々自適な日々を過ごしているそうだが、
皇太子やその弟たちはベルリンでナチス党院として活動しているそうである。


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2010年6月5日土曜日

ポツダム市内見物へ




11月23日 
今日は朝からとてもよい天気で、太陽は燦々と照り輝く。
丁君と写真機片手に市内見物に出掛けた。

テヤーガルテンのミュージアムまでバスで行き、
両側の大理石像を眺めながら散歩する。よい気持だ。
32もある彫像は皆立派なもので、背後はスターリンのように常緑樹で覆われている。
その先端、国会議事堂の広場に出て戦勝記念碑に上る。
普仏戦争時のもので、階段で上部まで昇ってみた。
天気がよいので遠くまで見晴らすことができるが、上はかなり風があって寒く、早々に降りた。
そのすぐ脇に国立クロルオペラがあり、
その前には欧州戦争で活躍したモルトム将軍の石造りの彫像が建っている。
この広場は「王様広場」と言われている。
その正面が国会議事堂。
ドイツ風のがっちりとしたルネッサンス様式で小さいがよくまとまっている。
昔はこのテラスで、国歌ドイツランドユーバーアツレスインデアウエルトの音楽のあと、
大統領が国民に挨拶したものだそうだが、
独裁下の今日は1年に12時間くらいしか議会の招集がなく、
今に貸家の札が斜めに貼られることだろう。
議事堂の前にはビスマルクの銅像が建ち、
下の4組の群像は、統制と聡明と征服と武力の象徴である。
鉄と血潮と剣のドイツ魂が見えるようだ。

建物よりもまず庭園




外に出て夕暮れ時の桑の並木通りを歩いた。
一直線の散歩道をぼつぼつ歩き約20分。
両側の大きな老樹が鬱蒼とした森をなすところで、
清水の池、彫像ビラ、青々とした芝生を見る。
建物よりもまず庭園だなあと思う。

帰途はベルリンのポツダム駅で下車、
すぐ前の「カフェ・ファーターランド」に入る。
大きなカフェで世界各国のモデルを作り、その趣を見せているので有名である。
日本もあるそうだ。ところが今日は運悪く音楽停止だ。
仕方なく階下のレストランで夕食を取る。
大きな食堂で壁や天井は金銀のモザイクで目が覚めるようである。
日曜の夕方で、散歩帰りの客で満員だ。
帰途、路上でカフェ・ヴィクトリアの主人夫婦と出会う。今日は休みだという。
そう度々行ってたまるものか。
2度ばかり行って大騒ぎをやってしまったので、すっかり顔を覚えられてしまったようだ。