2010年9月30日木曜日

数々の最高峰と出会う旅…



有名な古城の博物館(スフォルツェスコ城)も外部から見た。
今日は第1日曜日なので休館だったのだ。
世界各国の美術工芸品が集められているとのことだったが残念だ。
周囲は赤レンガの高い城壁で巡らされている。

午後3時からここで見逃してはならないオペラ、スカラ座を観た。




今日は日曜なのでマチネーである。時間通りに行ったが慌てて座席に入れられた。
なるほど大きな大体円形で、周りを囲むギャラリーは6階仕様である。
ほぼ満員で、芝居の内容はわからないが大人しく最後まで観た。
背景と光線、俳優の服装などすべてが自然で無理がないようだ。
例のごとく一幕ごとに主だった俳優が幕外のステージに表れて挨拶をする。
拍手におされて4度も5度も出て来る。

午後6時に終わり繁華街を散歩する。
例の十字路のアーケード街を見た。
4階建てで通路上へ全体的に屋根がかけられている。
中は身動きもできないほどの人通りである。
ミラノはファシストの発祥地で、なんとなく勢いがあるようだ。
市内は45年来、市区改正が行われ拡張工事の最中で、
いたるところに工事中の家がある。建物も案外と新様式のものがある。
しかしどこも同じ横線式のものばかりだった。




ここまで来る間に「世界一」や「最大」というものに数多く出会った。
第1は元旦に登ったユングラフでこれが世界最高峰、
2日に越えた世界最長というスイス・イタリア間のアルプスのトンネル、
その次がミラノの世界最大最善美のステーション、
ついで世界最美のミラノ寺院、ドゥオモ。
あまり類例のない屋根のある街路、世界最古のスカラ座。
元旦からこちら、世界一の慶接に忙しい。
明日は午前10時発でヴェニスに行く予定である。
今日は案外と寒く、少々こたえた。


大きな地図で見る

2010年9月29日水曜日

ミラノの彫像墓地



自動車は公園の間を右に左に進む。
今日は特に寒く、樹木は銀の彫刻のように結晶して美しい。
着いたのは例の有名な彫刻墓地(ミラノ記念墓地)である。
建物はロココ風ロマネスクで、裏庭が全て墓地である。
ブロンズや大理石、花崗岩の立派な墓石の彫刻が並んでいる。
美術館も及ばない有様である。
生前の姿そのままのものもあれば、遺族の悲しみを表したもの、
子供の死を見つめている母親の姿、愛人の死骸に泣きついているのや、
花を手向ける乙女、どれもこれも真に迫った名彫刻ばかりで実に豪奢なものである。
永遠の住居として外人は特に墓地を飾るものだが、
こことゼノアのものとが世界最美のものである。
今日は日曜なので大勢の参拝者が色とりどりの花を手に盛んに来る。
建物の中にも沢山の彫刻があり、壁のニッチには写真入りの墓石が取付けられ、
小さな花束が供せられている。
入口の尼さんに心付けをして外へ出た。

イタリアの傑作、ダヴィンチの傑作




正月三日 日曜日。
昨夜ほどではないが今朝も相当な濃霧である。
午前9時からクックの観光に加わる。
クックの自動車がホテルまで迎えに来る。




やがてドゥオモ広場に出る。有名なミラノ寺院の広場である。
大きいものを予想していたが、実際は意外に小さく感じられた。
しかし内部に入るに及びやはり大きいと感じた。
中には400〜500人ほどの信徒がいて日曜の説教の真最中だったが、
ほんの一隅にすぎない。ブロンズのキリストの一代を表した
大きくて立派な正面扉の内部にある、大きなステンドグラス窓の美しさ。
濃霧でついに屋上には上がれず、尖塔に立つ2000もあるという彫像を下から見た。
建物全体が薄鼠色の大理石でゴシック様式である。
正面の一部にはルネッサンスの手法が混用されているが気がつかないほどである。


次いでラストサッパー(最後の晩餐)の絵がある寺院に来た。
キリストを中心に13人が食卓に付いている壁画で、
レオナルド・ダ・ヴィンチの作として有名なものである。
相当に古いものだ。大分消えかけていて保存に苦心しているようだ。

2010年9月23日木曜日

ミラノ 〜MILANO〜 へ



汽車は10分ばかり遅れて来た。
プラットホームで傘のような格好をしたベルが鳴り発車する。上品な音だ。
崖に向かって右は湖水である。静かな水面、雪を頂く雄大な遠山、
屹然と天にそびえるユレグスフを霧の彼方に見上げるのも絶景である。
蒼々と済み渡る湖水の渚に小舟を浮かべて漁をする様子、
緑の芝生の背後に建つ木造住宅、断崖の線路、アーチの続く石橋、
連続したトンネル、遥かに見下ろす谷の町、
スキーでジャンプする人の様子なども1、2カ所見られた。


途中、山間の小駅でミラノ行き列車に乗り替え、1時過ぎに食堂へ行く。
若い連中がスモーキングでワインを飲みながら歓声を上げている。
皆イタリア人だ。元気なものである。
席に戻ってみると若いイタリア人夫婦が乗っている。
休日を利用してスイスへスキーに行ったのだそうだ。
沿道の影色の説明やらミラノの話、
やがてはイタリアと日本とはすべてがよく似ている、満州とエチオピア、
さてはアメリカはフィリピンを日本に譲るべきだなどと言っていた。
我らの旅行の話をしたり、各所で得たコレクションブック、
家族の写真などを見せ合う。
おかげでミラノに着くまで退屈しなかった。



スイス〜イタリア間の例の長いトンネルもいつのまにか過ぎ、景色は一変。
太陽はあかあかと照り輝き、山上に古い石造りの家屋、白い壁の町、
汽車は湖の右岸を走る。静かな湖面は緑樹の影を宿し、遠く山上の町を反映する。
沿道は急に樹木の種類を増し、大きなシュロの木が各所に、竹やぶなどもある。


午後6時、ミラノ到着。大きな駅だ。想像以上に大きい。
世界最大のものであるという。鉄骨造のプラットホームの上屋、
待合所から玄関までみな大きなものである。
総大理石で大きな大理石柱の連立する玄関があり、乗り物はすべてこの中に入る。
イタリア・ルネッサンス様式の実に立派なものである。

インターラーケンをあとにイタリアへ




正月2日 
8時に目覚める。
昨夜はさすがに疲れたと見え、我ながらよく眠った。
ぐっすりと10時間ぐらい寝たので気持ちがいい。
朝飯前に50通ばかりの年賀状を書き、朝食の後、外へ出た。

今日は曇天であるが、昨日は実に恵まれた登山日和であった。
宿のマダムも「いいチャンスだった、おまえたちの心掛けがいいからだ」
などとお世辞を言っていた。今朝も4、5人の客が昇ったらしいが、

おそらく昨日のようには遠望も効かないだろう。


ここインターラーケンには夜着いたので、町を見るのは今が初めてだ。
山峡の田舎町だが左右を崖谷に挟まれ、
しかも2つの湖の間にある小さな遊園地のようで、
町じゅうがホテルと土産物の店といってよい。
例の屋根の大きい鳩時計のような建物が軒を連ね、
遠望の雪を頂く山を背景に、よくマッチしている。
小雪が降ってきて少し寒い。
途中の土産物店で木彫りの風俗人形などを買って宿に帰る。
娘さんたちを写真に撮ったりして、勘定を済ませて別れる。
別れ際、このホテルの写真入りのチョコレートを一包みくれた。
昨日の返礼だろう。外国では珍しいことだ。
「お前たちの旅行の無事を祈る、早く家族のところへ帰れ」と
マダムが真面目くさって言っていた。

2010年9月20日月曜日

ユングフラウ〜Jungfraujoch 〜登頂 




終着駅はホテルになっていて、郵便局や食堂もある。
ベランダからの見晴らしがよい。
ここは下の駅から1万2千尺断崖の中間にあるのだ。
右にユングラウの頂上の麗姿を眺め、前面は見渡す限りの大スロープ、
右手の絶景の下には千古の氷河が横たわる。このベランダで写真を撮り、
絵はがきを書き、食事をとって元旦のスタンプを受けた。

直射日光を受け暑いぐらいで、みんな外套をとる。
休憩後エレベーターで昇る。その先は徒歩で右に進む。
メガネとステッキで断崖の小路を辿る。
一歩誤れば千丈の谷底に墜ちるのだ、とても下を見ては歩けない。
そこを過ぎれば平坦な丘に出る。下界を見下ろすと自分は雲上の人、
今日はよく晴れて、遠い麓までよく見える。

右手ユングラウの頂上まではあと約2千尺もある。
天にそびえるその壮観は陽に反射して限りなく美しい。
海抜1万2千尺、これより先は我らも昇れない。
案内人の話によれば一人の日本人がスキーで頂上まで昇ったとのことだ。
断崖の頂上に立ち、大声で「満州帝国、日本帝国万歳」と叫ぶと皆驚いていたが、
真面目な口調でベリーグッドを叫び厳粛な気分になる。


危ない道も案内人に助けられながら石室へと帰り、2時30分、再度電車で下る。
多くのスキーヤーが勇敢にもスロープを滑っていた。
インターラーケンに着いたのは午後6時半、辺りはすでに暗く、
空を仰げば薄暮の後方にかすかにユングラウの頂上がそびえている。
大雪崩を心配し、寒いだろうと思っていたのに暑いほどだった。
しかし1万2千尺もあるので、頂上は空気が希薄で頭痛に苦しみムカムカとした。
頂上の石室には澤上の鳥に似たくちばしの黒い鳥が旅人の投げるパンを巧みに宙取りした。
宿で美味い夕食をとり、主婦の差し出すサインブックに感想を書く。
「家族的な宿で、東洋の遊子をゆっくりとさせ、特に料理が美味しい」と書き、
「娘が美人」と加えた。その上にユングラウの勇姿とスキーヤーをスケッチした。
主婦にそれを説明してやるとしきりにサンキューを連発していた。


正月元旦・ユングラフ登山へ

1月1日
康徳4年元旦、7時に起こされて目覚める。
7時50分、登山列車が出るので荷物を整え食事もそこそこに駅に急ぐ。
元旦だというのに相当の人出だ。
大抵はスキーヤーで、列車はほとんど満員である。
我らのことを宿のポーターが若い夫婦に頼んでくれる。
この若夫婦とチョコレートをかじりながら話しているうちに、
2人はドイツ、シュツットガルトの建築家であることがわかる。
話は一段と油に乗ってきたと言いたいが、なにせ英語・独語まじりの片言なのだ。
彼は今、シュツットガルトでアパートの現場監督をやっているとのこと、
6月にはベルリンへ戻るという。今ドイツでは仕事がなく、
建築家はあまっているが東洋はどうかと聞かれる。
満州国の話をしたが本気にはしなかったようだ。
面白いことに夫人も建築家で、一緒に事務所で働いているとのことだった。
スキー場で下車し、3度乗り換えて終着駅に着く。
今日は季節はずれの晴天で、列車内は暑いほどスチームが通っている。
座席の前方に東洋人らしい夫婦がいるので行ってみると、
九大のI医学博士で、ドイツ滞在中正月の休暇を利用して旅行中とのこと。


車内では満杯のスキーヤーが、男も女も歌い叫ぶ賑やかさだ。
列車は次第に山に差しかかっていく。雪が深い。
前面を覆うような山々、荘厳の美、巨大な氷柱の連続、天にそびえる岩。
6〜7千尺ほどの場所で大概のスキーヤーは下車し車内は急に静かになる。
駅の前面は深い谷、麓に続く大渓谷白涯々雪の峨々たる連山、
峰の間の大なだれ、壮観そのものである。ここからすぐトンネルである。
長さ約9キロの舗装なしのアブト式、急勾配のアブト式を進み、終着駅まで約40分、
そのうち2カ所ほど横孔を掘り、乗客を下車させ見物出来る。その景色は偉大だ。

2010年9月18日土曜日

インターラーケン Interlaken の大晦日


やがて暗闇のインターラーケンに着いた。
外に出て空を仰げば満点の星、明日の晴天を思わせる。

「ユングラフはいいぞ」とかねてK君が紹介してくれた「ホテル・ユラ」に投宿。
駅に近くこじんまりとして、従業員はすべて家族の者、主人夫婦に綺麗な15、6の娘。
サロンでウイーンのラジオを聞いていたマダムが部屋へ案内してくれ、
バスの世話をしてくれる。空腹を覚えて食堂に出る。
ここではめずらしくウエーターが女で、5フランのワインをあおるとなかなか美味い。
付近で穫れる川魚のフライも美味く、久しぶりに食事らしい食事をした。
食後、マダムがサインブックを持って来る。見ると知人が多い。
板垣参謀長の名もある。満鉄の方々も多い。K君の詩吟も見える。N君の墨絵もよい。
何か書かなくてはならないが、ワインの元気で明日に伸ばしてもらう。
サロンでマダムや娘らと語り合う。沢山の写真を見せられ、我らも家族の写真を見せると、
なんとめでたい家族だろうと立って握手を求められた。
日本のクリスマスカードや絹のハンカチを宿の娘にプレゼントした。
語る言葉は英・独語交じりの片言だが、楽しい夕べはなかなか終わりそうもない。

4時頃から大晦日で静かな街の中へ出る。さすがに少々寒い。5〜6度だろう。
だが外套なしの人も多い。少し行くと郵便局前の広場で音楽が始まっている。
たくさんの人々が暗く寒い街路で静かに聴きいっている。
こうして今晩は夜通し起きているのだそうだ。
田舎町とて、出たり入ったり特徴のある建物が多い。

宿に帰れば2、3の家族があつまって盛んにトランプに興じている。
マダムが熱い茶を入れてくれ、明朝の出発は早いからと床を勧める。
部屋に戻るが大晦日だと思うとなかなか床につけず、またワインをとる。
ちょうど今頃は日本の元旦で、子供たちが大騒ぎだろうと想像する。

康徳3年12月31日は、無事に遠くスイス、ユングラフの麓で終わる。
明日は元旦、世界最高のユングラフの頂上で迎えるのだ。
希望と努力の新春だ。

ベルン~Bern〜駅にてあわや、ロストバッゲージ




やがて汽車は動き出す。
丁君は動く窓から「バッゲージ!!!」と叫ぶ。
荷物なしでは旅もできず、我も丁君も続いて下車、列車は行ってしまった。
ふと気づいてみれば、丁君は外套も帽子も車の中に置き忘れた。
これは一大事と、ようやく駅員をつかまえて話してみたが通じない。
しばらくすると英語を話せるスキー客が
「今の列車は引き返してくるから安心しろ」と言う。
それは一安心だが、荷物を持ったポーターはまだ来ない。

ホームはスキー客で満杯、満足に歩けもしない中を血まなこになって探す。
ようやく見つけたがわからないはずだ。人が変わっていたのだ。
ポーターの方でもわからなくて困っていたらしい。
次の列車が来たが、丁君の物を乗せた列車はまだ見えない。

発車の時間が近付く。車掌に話したらこちらに来いと言う。
丁君付いて行き、しばらくすると持ち物を手にして戻ったのでやれやれと一安心。
その列車はウイーン行きだった。
ウイーンに連れて行かれなかったのは幸いである。

列車の中は満員で、2等も3等もない。狭い廊下も人で一杯で身動きできない。
あの騒ぎのせいで我々は最後に乗り込んだので、小さな荷物の置き場もない。
インターラーケンまでわずか1時間の辛抱と立ち続ける。
右も左もスキー客の男女、リュックサックとスキーだらけ。
この混雑の中、ふと気づくと側で若い男女が抱擁し続け、
寸時の休みもなく濃艶な接吻をやり通しだ。
途中の駅で降りていったが、約30分の間は気も遠くなるようだった。
腹立たしくもなってくる。しかし身動きのできない悲しさ、見ないわけにはいかない。
目をつぶればなおはっきりと写る。さすがにスキー客らも舌打ちしていた。

ローザンヌ〜Lausanne〜より大晦日のインターラーケンへ




午後3時半、ローザンヌに着く。
湖に面した斜面の町、段々に建てられた5、6階建ての軽快な建物が美しい。
車中では四辺の景色の移り変わるさまに、ゆったり腰かけてはおられず、
写真を撮るのも忘れて眺めていたが、ふと気付いて2、3枚撮った。
遥かなる山上の町は、今まさに夕日の中に入っていくかのようだった。

午後5時、ベルン着。
早速荷物を一時預けにしようと思ったが客が多く、
1時間あまりしか見物時間のない私たちには待ちきれなくて、
ポーターに事情を話してどうにか預かってもらう。

身軽になって無鉄砲に町に出る。
とはいえ大体のところは汽車の中で地図を調べておいた。
百尺もある国会議事堂の大建築物、深谷に架かる高い橋、
夕闇の彼方に雪のアルプス連山を望む寺院の尖塔に、
暮れの電飾が金色に、夕闇の天にさす。
マーケットの賑やかさ、押すな押すなの人の波。
特色あるローカルなものを売る店では売り子は独語・仏語を半々に喋る。
時間がないため近くで絵はがきを買い求めて出す。

駅に戻れば再び大変な人、相当大きな駅だがいっぱいである。
皆、翌日からの2〜3日の休みを利用して思い思いのところへ向うらしく、
まるで戦場のようなありさまである。
男女の群れの多くはスキーに行くらしく、
男装の女など、プラットホームもまた同様の状況である。
早速ポーターを探したが見つからない。
そうこうしている間に乗るべき列車が着いた。
ポーターはまだ見つからない。

2010年9月13日月曜日

レマン湖地方の麗しき眺め




12月31日 

日本では大晦日というのに、旅の気楽さゆえ、
一見呑気でもあるが反面では淋しいものだ。
午後2時半、インターラーケン行きの汽車に乗る。
しかし途中で、スイスの首府ベルンに立ち寄るつもりだ。

汽車はレマン湖に沿って走り、常緑樹の並木越しに水鳥の遊ぶ静かな湖、
スイス特有の大きな屋根、階下を石積み、階上を下見板にしたもの、
例のハーフティンバーの別荘や住宅などを木々の間に眺めながら進む。
その眺めはまるで公園の中を行くかのような絶景である。
気候のよい時に通るのを想像するだけでも形容に苦しむ。
今日は折悪く濃霧が深く、遠望もまったくできない。
左に湖を隔てて見えるはずのユングラフの姿もない。
この列車には食堂車がなく、3時頃途中の駅でサンドイッチや果物を求めて済ます。

午後3時過ぎ、ナーンを過ぎる頃から皮肉にも霧が晴れて陽光を見る。
我らの気候はずれの旅を笑うかのようだ。
だが晴れた景色のなんと美しいこと。
常緑樹、落葉樹、白樺の並木、紅葉のスロープ、美しい配列の建物、
寺院の尖塔、丘や森の続く広々とした景色、
遠く雪を頂く連山が陽に反射して眩しく、
芝生に続く斜面のブドウ畑が実に美しい。

ジュネーブの建築、街並...




タクシーで市内見物に出た。
労働国際連盟会館に行ったが、番人が中に入れてくれない。
東洋から来た建築家だと頼み込むが、がんとして聞き入れない。
国際連盟脱退の余波かと苦笑する。他に同様の外人の見物人もあった。
仕方なくその上手にあるミュージアムから外部を見る。
相当大きなものだがデザインも感心しなければ、ディテールもこなれていない。
新旧の手法が入り交じり不徹底だ。
それが連盟の内容と合致しているかのようで苦笑を漏らす。
しかし遠望は広く、湖水に映るクリーム色のサンドストンの遠景は絵のように美しい。

古い連盟会館を見た。松岡全権大使が全国民の意見を代表して、
居並ぶ幾百もの各国代表の中で苦闘したガラス張りの会場も見る。
ここで多数の腹黒い白人たちを相手にしたのだ。

丘の上の古い寺院、宗教革命記念碑、広場、劇場などを見て、
湖に沿って建ち並ぶ盛り場を見る。
公園は湖水を入れて美しく、梢にクリネズミが遊び、長閑なものだ。


ジュネーブ Geneva

12月31日 


ジュネーブは国際連盟、国際労働局、万国郵便連合、
赤十字総合その他国際機関が集結し、スイス人は世界の首府だと言っている。
さすが国際都市だけにすべてが国際的で、外国人を特に丁寧に優待する。
この街には27カ国の子供が通うという国際小学校もある。
スイスに母国語はなく、伊・独・仏語が通用されている。
ジュネーブは仏語が多く用いられている。
人口わずか13万というが、世界的な問題が勃発した時は
世界中から人が集まり少なからざる金を落していく。

ホテルの前はまるで海のようなジュネーブ湖、遠くはかすんで見えない。
湖に面して公園があり、ここはかねて日本が国際連盟脱退直前に
松岡全権が東天を拝し云々…の場所。私たちもここで東天を拝す。
折悪く濃霧が深くて遠望できず、モンブランの勇姿も見えない。残念だ。
今日は何事かあるらしく、皆、記念章のリボンを付けて広場に集る。
何ごとかと尋ねては見たものの一向に言葉が通じない。

2010年9月10日金曜日

パリ・リヨン駅より、ジュネーブへ





12月30日 


早朝から珍しく陽光を見る好天気だ。
旅での会合は会うが別れである。
朝、T博士に別れを告げて、12時50分パリ・リヨン駅発の列車に乗る。
タクシーはセーヌ河沿いに人と自動車のあいだを縫って走る。
エッフェル塔は頂上まではっきりと見えた。
この塔を中心に今、建築の博覧会場も大部分が出来上がり、
例のトロカデロを改造して正門にする工事も大半を終え、
左右の高い建物も仕上げ工事に忙しい様子。
博覧会場とはいえすべて鉄骨鉄筋の本建築ばかり。
日本のそれとはまったく趣を異にする。

パリ・リヨン駅はパリに初めて降り立った駅だ。
その時は夜のことでわからなかったが、
今眺めるとフレンチ・ルネッサンスの趣の高い塔などがあり、
昔モデルにしたこともあって懐かしさを感じた。
列車は満員、少し早く来てよかった。窓際の席に着く。
2人ずつ6人1組で身動きもできないほどだ。
向い側のプラットホームでは、若い男女の別れの抱擁シーンが何組も見える。
しまいに彼・彼女らはところ構わず接吻する。
プラットホームの群衆はまったく気にせず見向きもしない。
外国ならではのステーション風景である。
定刻発車、郊外の景観はベルリンの方が遥かに美しく、
こちらは建物も粗雑で景色も悪い。
打ち続く野菜畑に日本の●の形をしたガラスの蓋をしたものが数千、見渡す限り続いている。
温床だろう。やがて川沿いの美しい丘を通り、
川向こうに平野、樹木の茂みに一時よい眺めが見えた。


列車が止まるたびに多くの人が乗り降りする。
車内には上品な白髪の老人が5、6歳の子供を連れて乗り込む。
人々は身動きもできない中で互いに席を譲り合う。
面倒なのと腹が減らないので昼食を抜いたが、
さすがに7時の夕食までは我慢ができず、4時のお茶の時間に食堂に行く。

満員の列車は午後9時40分、ジュネーブに到着。
湖畔の「ホテル・メトロポール」に投じる。
見物は一切翌日にまわし、入浴後、水の都・ジュネーブの湖を
心地よく見下ろしながら絵はがきを2、3通出して床に入る。

パリ滞在



12月29日 
三井物産に行く。
パリもこれで三度目、宿で道順を聞きバスで容易に行き着いた。
支店長に会い金の引出しに日仏銀行を指示され、そこで受け取ることにする。
支店長は来春ロンドンに栄転とのこと、家族と共に海外に在住する者が、
子どもの教育でいかに困難しているか、実情を聞いて同情に堪えなかった。

郷里より数通の書面が届いており、宿での楽しみにポケットに納める。
日仏銀行の場所は、はいはいと聞いて出たものの、
外に出てみれば少しも見当がつかない。
仕方なく車に乗ったがすぐに止まる。目と鼻の先だったとは迂闊だった。
日仏銀行にはY氏がおられ、親切にお世話になる。
イタリアリラを2000リラ買う。
これはドイツのレジスターマルクと同様、国外で買えば安く手に入いる。
ほかに250シルほどスイスの紙幣を買う。
なお1250フランほど、合計43ポンドほど引き出した。
クレジットが少なくなっていくが、計画通りにいっているので大丈夫だろう。

イタリア通の坂野商店に行く。
様々な外遊の人々が出入りするこの店で商品を見ながら5時頃まで話し込む。
帰りはオペラ裏から記憶をたどりバスで宿に帰り着く。
折からT博士に玄関で出会い、夕食を共にして
ベルリンのT氏宛てに寄せ書きなどをする。
食後、氏の部屋で雑談に耽っていたが、喉が渇くあまりに外に出て
カフェに飛び込みフランスビールを試みた。

2010年9月4日土曜日

ベルリン出発、3度目のパリへ




12月28日 
午前8時、宿のマダムらに見送られ、
パリ行きの急行でツォー駅を出発。
街はまだ闇の中だ。
特別列車なので車賃のほかに座席料を3マルク取られる。

午前11時頃、ハノーバー着。
陽も麗らかで心地よい郊外の風景である。
車内の隣席には小柄な美人と似合いの夫婦、車内もまた麗らかである。
ハノーバーの建物の多くはレンガ洗い出しの軽快な5、6階建て。
ドイツの建物は一般に新旧を問わず軽快なものが多い。

午後5時、ベルギー国境のアーヘンに着く。
例によってパスポート、所持金品の検査があったが簡単なものだった。
このあたりの沿道一帯には大小の工場が軒を連ね、
駅付近にも溶鉱炉などが隣接した大工場地帯である。
さらにその中に住宅地区が散在している。

夜7時、フランス国境で型通りの検査を通過し、11時パリ北駅に着く。
今回の宿は日本人旅館の牡丹屋。
グランドオペラ付近からシャンゼリゼ、エトワールの凱旋門を通り、
約15分でパッシーの先にある宿に着いた。
久しぶりに日本茶をご馳走になり、陸軍の会があってK中佐にもお会いできた。

フロントでイタリアまわりの切符の予約を頼む。
旅程はジュネーブからローザンヌに出てインターラーケンに行き、
有名なユングラフに登り、イタリアのミラノに出て、
ヴェニスを見てフローレンス(フィレンツェ)を経てローマに入る。
帰途は海岸線をピサよりにゼノアに出て、
ニース、モンテカルロ、モナコを見てマルセイユを通り、パリに帰る。
ここでは正金も三井も何末31日まであるとのこと。
翌日は三井に行くことにし、疲れたので11時頃床に付く。