2010年3月31日水曜日

出発準備 〜パッキングをする〜


諸々の手続きが済み、身の回りの細々した用意は家族にまかせて、
先輩知己の経験者を訪ねて各種の注意を受け心の準備をした。

大連病院で健康診断をしてもらう。異常なし。
旅費は英貨で、三井銀行のクレジットで準備した。今、英ポンドは邦貨で17円少々である。
正金銀行という話もあったが、三井物産の方々にも随分厄介になるらしいので、
どこででも一度に話ができるようにと三井銀行にすることにした。

手回り品の用意は大カバン2個、手さげ1個の計3個。
大カバンの1つには主として冬物普通背広2着、合着1着、タキシード1着、モーニング1着、
冬および合着外套1着と冬シャツを、その他の1つは主として夏物を入れた。
これはマルセイユで船に依頼して送り返すつもりだ。欧米ともに冬着で足りるからである。
手さげカバンは薬品類、その他身の回りの細々とした物である。
外人に対する土産物としては、絹のハンカチーフ、袱紗、小型の仏像など。
このあたりは長女がきちんと目録を作り各カバンの内側へ表記してくれた。
さらにインド洋での用意にと、和服ひと揃えを持参することにした。

これで一切の準備は整った。
その間、学友冬夏会諸氏による星ケ浦における送別家族会をはじめ、
建築協会、木曜会、土建協会、若葉会、暖房協会などの諸●●の送別会、
植木工事課長およびK夫妻、その他の招宴に多忙をきわめた。
その間に家族との会食、長男の見舞いとまったく己を見出せず、
わずかに前日、妻その他と留守中の相談や病児についての打合せなどをした。

新京から子供も全員集合する。なかなか賑やかである。


新京を出発。ビザ取得に手間取る


8月18日 午前9時 新京発。

閣下および各位、多数の知己友人および請負関係の方々などによる見送りに
切実な感謝の黙礼を残して出発した。
四平街ではK氏、W夫人らに見送られる。
K氏より浮世絵2冊を送られる。外国へのお土産に適切な物、ありがたく頂戴する。
W夫人よりご主人が病中とお聞きし、快癒を祈る。

午後1時、奉天で現地事務所の方々および土建協会より、O氏のほかY氏など、
たくさんの方々から見送りを受けた。ただただ感謝に堪えない。

午後8時半、大連駅着。
ここでも先輩、友人など多数に出迎えられた。
諸氏より寄せられたご好意を切実に痛感せざるを得ない。
長女らと折から入院中の長男を大連病院に見舞う。
思ったより軽症とのことでひとまず安心する。


翌日から早速、旅券の査証を受けに出掛ける。
まずロシア領事館に行ったが、私の旅程がドイツからソビエトへ入国することになっているので

『我々の管轄ではない。ドイツに行ってしてもらえ』

とのこと。取りつく島がないのでそうすることにする。
次は英国領事館。ここは日本人がいて本当に親切に世話をしてくれた。
しかし外国流に折から正午の休暇時間。彼らは定時にならなければ事務を始めない。
相当詳細に用件、旅程を記入して、翌日午前に下附された。査証料として邦貨11円あまりを支払う。
次いで米国領事館。ここではまず断られた。
というのは、大連の米国領事館は日本の大使館の関東州の出張所だそうだ。
したがって関東州にしか権限がないという。

『関東州で発行したパスポートならここでするが、君のは新京領事館の発行だから奉天でしてもらえ』

とのこと。さあ大変!直接奉天まで行かなければならない。
ええいままよ、当たって砕けろ と少し難しい顔をして、

『それは困る!新京総領事館ではたしかに大連で査証してもらえると言われて来たのだ。
 しかも出発が2、3日後に迫っていてとても奉天まで行くヒマはない。
 電報料は出すから照会のうえ出してほしい!』
 
と頼み、料金を置いて帰った。
翌日午前中に電話で尋ねたが、まだ返事が来ないという。
これはいよいよ奉天行きか…と腹を定めて翌日再訪してみると、許可の報せが来たという。
やれやれと早速ここで詳細な用件や日程を提出し、やっと承認された。
承認に先立ち領事が出て来て、

『米国の諸規定を厳守する誓約を立てるため右の手を挙げろ』

というので仕方がなく挙げる。領事は、

『大変時間が掛かって気の毒だった。貴下の長い旅程のつつがなきことを祈る』

などと丁寧に言われ少し面食らう。感謝に堪えない旨を述べて外へ出る。


ようやくこれで手続き上の問題は済んだ。
合計約21カ国を巡るわけだ。彼の地、英・米・露・ポーランド以外は査証はいらない。
注意すべきは満州で発行されたパスポートに対する各国の査証は
日本国所在の大公使館ではしないことになっている点だった。

つまり、発行場所の領事館でしてもらわなければならないのだった。


出発前に




思い掛けなく外遊を命ぜられた私は、歓喜と感謝と希望と杞憂、
寂寥、勇気などなどの錯綜する気持ちに投げ入れられた。
出発前、第一に語学と費用と服装などの準備に当惑し、
さらに任務という1つの責任に厭迫を感じたが、
局長、所長らの親切な御指示があってようやく出掛ける決心もついた。
早速、旅券下附用の写真を撮るなど、旅程をあれこれと研究しはじめた。
先輩の注意もあって、世界文化の発達の順序を追って行くことにする。
つまり、インド洋から先に欧州諸国を見て周り、
帰途、米国を経由し横浜へ帰港という順序に決定した。


その間に各種の参考書を集め、研究を始めた。
先輩、友人からも同様の書物を沢山いただいた。時間を要する物の注文もする。
旅券は新京日本総領事館へ2、3度足を運び、割合簡単に下附された。
もとより普通旅券である。ただし職業のところには「満州国官吏」とある。
無論外交部の満州国旅券をもいただいた。これは公用旅券である。
外交部から各国の日本大公使館宛依頼状を出してもらうように依頼した。
尚、K氏を通じて三井、三菱の在外各支店へも依頼状をお願いした。心強いことだ。

いよいよ公報にも出た。辞令もいただいた。旅費は大連で受け取るように小切手でもらった。
これら一切の手続きに関してはE氏、N氏、S氏にとてもご厄介になった。感謝に堪えない。
そろそろ送別会が始まる。
六馬会全員として中央飯店で盛大に、しかも切実の送別をいただいた。
局長、所長ら幹部の方々からは料亭開花で丁寧なお招きをいただいた。
あの晩は本当に我を忘れて愉快に過ごし、ついに家に帰ったのを覚えていない。
同窓の方々からは親密な会が扇芳亭であった。
土建協会の方々からはヤマトホテルで、S会長、H顧問から懇切な挨拶をいただいた。
とくに感激を覚えたのは、満州産の建築家の方々から送別をいただいたことである。
主として伏水会工専の方であるが、満州において育ち、教育され、
しかも現在満州の各方面で活動しておられる有為の青年諸氏である。
これらの方々こそ真に郷土愛に燃え、永遠の墳墓の土地として熱烈な努力を続けておられる、
いわゆる真の満州人ではないだろうか。
やがてこれらの人の満州の時代が来ることであろうが、それにしても嬉しかった。
宮廷造営係の方々との遠慮のない集まりもあった。
建築家として、重大かつ意義のある事業に従事されつつある諸氏には
特に自重されるよう話したと思う。
そのほか、個人の方々からも幾多のお招きにあずかった。
まったく感激と感謝との看過、
諸氏のご好意を双拳にすると自信が持てる。



はじめに




昭和11年8月18日、新京を出発。ひとまず大連に落ち着き、9月2日大連を出発。


大連丸で上海に出て郵船照国丸に乗り込み、10月8日フランス・マルセイユに着くまで
36日間の船中生活。なんでもないといえばそれまでだが、相当に長い。
語学の稽古と各国の事情研究に没頭したが、それでも相当に暇がある。


青島を振り出しに、
上海、香港、シンガポール、ペナン、コロンボ、アデン、スエズ、エジプト・カイロ、イタリア・ナポリ、
それからいよいよフランス・マルセイユと、十指にあまる寄港地。
それに海の美しいボルネオ海、
脅かされたインド洋、
はては鯨やイルカの群などの珍奇な烈日の紅海、
気候と景色の好い地中海、
あるいは熱帯植物の繁茂する幻想の国インドの、
旅書物に見、話に聞いたこれらをいま目の当たりにして感銘の連続である。

これは自分1人のものにしてはいけないと思い早速各方面へ通信をはじめたのだが、
とてもその都度その都度に書ききれるものではない。
そこで考えたのは、かねて建築協会の泉さんや6馬会同人諸氏から依頼はあったものの、
自信がないので1度お断りしていたことなのだが、
日記をなるべく丁寧に書いておき、
それを会誌に載せていただくことで皆様への通信に替えたらと思い付いた。
もとより拙文につき、皆様にお目にかけるものではないものの、私の直感的寸信だ。

しかしこれとて考えてみると、船中だからこそ暇もあるものの、
上陸後はたして続けられるかどうかはあやしいもの。
しかしやってみると人ごとではなく、自分自身にも得るところがあるので続けてみた。
ところが旅行中は発送がとにかく遅れがちで、日本到着まで結局その半分もお送りすることができず、
赴任後通信でもあるまいと、会誌掲載はひとまず中止。
旅行の気分が失われないうちに別冊として始めたいと思いながら、筆を持つことに自信がないのに加え、
赴任後早々で公務上も落ち着かず、私事には病児の看病、続いて死去…。
一時はまったく放棄したのだが亡児の日記等を見ると、私の誌上の通信を待ちこがれていたようで、
あらためて勇気づけられとにかくまとめてみた。
しかしこんなものを書いてもすでに愛児はおらず、
私自身の他に誰が読んでくれるかと思いながらも書いてみた。
ただ自分の旅の思い出のためと、
旅行中いたるところでお世話になった各位に対する感謝の念を表明するだけでも私の心を満たすものがあり、
しかも先輩知友に対して日頃の御無沙汰をこの機会に精算してお詫びし、
合わせて亡児および表記の諸霊に捧げる次第。
尚、付録として亡児追憶の文を加えさせていただいた。


康徳4年12月9日

亡児忌明の日、新京自宅に於いて  著者