2011年6月29日水曜日

ワシントン市内見物

 
3月5日 
一夜明けると幸いにも好天気となり、早速タクシーで見物に出掛けた。


まず議事堂を見る。19世紀の完成で、ホドマックの平原丘山にそびえ、
全市を一望できる景勝の位置にある。内部の各部屋を見た。
礎石はワシントンにより据えられたのである。
広間のニッチには米国偉人の銅像や大理石像があり、壁には歴史画が架けられ、
貴衆両院の議場も見たが意外と小さく簡単なものだ。
議員席も傍聴席も同一平面にあり、2階のギャラリーも議長席の上まで出来ている。
外観は好く、均整のとれたルネッサンス様式で、多くは白大理石が用いられ、
上方の大部分は塗装仕上げ、全体的に白色で美しい。


次いでコングレス・ライブラリーや大学などを見て、議事堂背面の大庭園に出た。
正面にはワシントン・モニュメントが天にそびえて建っている。
全体的に白色花崗岩で出来たオベリスクは実に壮観である。
地上550尺あり世界各国の石材を蒐集して建造したもので、中には日本のものもある。
内部は回り階段とエレベーターがある。




続いて大統領官邸・ホワイトハウスを観た。
真っ白な砂岩石で常緑樹の茂る中、蒼い芝生を前に美しい内部も観られた。
各部屋に様々な記念品が陳列されている。もちろん現在も使用されているのだが、
政務に差し支えないところは見物できるようになっている。

2011年6月24日金曜日

Washington 〜ワシントン〜

3月4日
午後2時半、サブでペンシルバニア駅に行った。
駅のさらに地下にサブの改札があり、広場でワシントン行きの往復切符を買う。9ドル。
汽車は満員、プルマンの普通列車で流線型電気機関車であった。
発車間際にまず一服とやっていたら外から窓をコツコツと駅員に注意された。
この車両は喫煙車ではなかったのだ。もっとも私ばかりではなく、
やはり旅行者だろう外国人の婦人も同様に注意されていた。

ハドソンのトンネルを出た辺りから列車は荒んだ工場街を走る。
粗末な木造住宅の小汚い街並が続く。
フィラデルフィアを過ぎるあたりから車窓の景色も良くなる。
午後6時半頃、夜のワシントン・ユニオンステーションに到着した。
とても大きな美しい駅である。駅前の広場に出ると正面には国会議事堂があり、
投光機によって真っ白く光った端麗なドームが闇夜の空にしんとそびえている。

指定されたコンチネンタルホテルは駅前近くで歩いて行った。相当なホテルである。
ロビーは客でいっぱい、部屋も決まり食堂で夕食を済ませ、
夜の市内見物をと外へ出たがあいにくの雨。濡れながら歩いたが次第に雨が激しくなり、
他に歩いている者もなく勧められるままにタクシーに乗り辺りを一巡した。
モニュメントの前から官衛街を横目に繁華街を通ってホテルへ戻る。
明日の天候のことなど気遣いながら就寝する。


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最後の旅仕度

3月3日 
今日は桃の節句である。
ホテルに来ている西部の日字新聞を見ると、さかんに雛人形の広告が出ていた。
ロサンジェルスやサンフランシスコには約56万の同胞がいるのだから、
日本と何もかも変わりはないらしい。午後はビューローに行った。
アメリカ大陸横断旅行のスケジュールができて、一切の準備も依頼できた。
勧められるままに一等列車の座席急行券、寝台料、
各宿泊先のホテルも予約してもらうことにした。これら一切で約2百ドル。
約17日間の旅で1日約9ドル、日本円で30円ほどである。
もちろん食事代などは別で一週間の汽車賃も別になる。ホテル代およびチップなどもいる。
これらを何もかも含めると恐らく1日60円ぐらいになるだろう。
最後の旅を一流ホテルに泊まり、紳士面をして歩くのも思い出になるだろう。
しかしクレジットの方も残り僅かで、あと100ポンドほどしかない。
この先の予算を建ててみると横浜までやっとというところ。
しかし費用面では大体過不足なしに予算通りに行えた点は成功である。
とはいえ少々心細い。土産物なども目をつぶって通らなければならない。


帰りはメッシー百貨店に立ち寄って昼食を済ませた。
それから53丁目の建築専門書店に行ってみたが特に欲しいものも見つからず、
新刊雑誌等を注文して帰った。
夜は再度味の素支店長の案内で日本人倶楽部へ行く。
欧州各地のそれに対し、実に立派なものである。
すでに建物・土地の所有権を有し、たびたび日本からも貴賓がみえているらしく、
その都度の御下賜品などが飾られてあった。


ホテルには新京の長女から手紙が届いていた。はじめて姉の死を報じてきた。
急性肺炎に胃潰瘍を併発したとのこと、妻をはじめ皆々が死に目には会えなかったそうだ。
想像どおりである。しかし妻は小生の出発以来姉と約5ヶ月間も同居したのだ。
今から考えれば決して偶然ではなかったように思える。
ちょうど私が横浜に着く頃は、百か日になる。早いものだ。
次第に私にも姉の死を現実としてはっきり捉えることが出来てきた。
実に人間の命ほどわからないものはない。
あれほど元気で私を送ってくれた姉が、僅か1年足らずで故人になろうとは。