2010年5月25日火曜日

ポツダム市街、宮殿を見る




次に街で公園に入り、サンスシーの宮殿に行く。


ここはウイルヘルム4世の皇太子時代の離宮で、正面の段状の花壇が立派である。
頂上の建物は平屋式で古風なものだった。
その真下にオランダ風の風車がある。
飛ぶ鳥を落す勢いのフリードリッヒ大王は、この離宮のすぐ傍らで
夜となく昼となくゴトリゴトリとやる粉挽き屋の風車の音に安眠を妨げられ、
僚臣がこの粉挽き屋へ強制的に立ち退きを命じた。
だが粉屋の主人は怒って大王を裁判所に訴えた。
人民の権利と自由を認めた法律ができており、大王の敗訴となったのだが、
粉屋も不敬を悟って立ち退き、大王も別所に立派な風車を作ってやったという。
それで今なお風車は残っているのだ。

サンスシーとはドイツ語で「無苦憂宮」という意味である。
ここには公園内を走る2頭立ての馬車があり、大連通りのものとよく似ている。
森林の中のような大公園、旧離宮の庭園内を馬車がカツカツと走る。
やがて新離宮の横手に出た。
これはフリードリッヒ大王の7年戦争からの計画で、
ビュリングとマングル技師らの手によって設計されたもので、ルネッサンス様式である。
大きく3棟に別れ、その中央に広場がある。
内部も見たが、満州他の幾多の宮殿に比べてあまりきらびやかではなく割合に地味で、
しかし材料などは立派なもので質実的にできている。
例の貝殻の部屋も見た。
かなり悪趣味ではあるが割合によくまとめてあった。
カイザーがここに送られる時、
家族たちに最後の別れをしたという部屋も見て同情に堪えなかった。

ポツダム行き

今日はポツダム行きである。
ホテルに近いインスブルカー駅からウイルドバルクに向う。
この駅はポツダム駅の一つ先だが、ここで下車して宮殿その他を見て、
ポツダム駅に出て帰るという順序である。
ところが我々の乗った列車はポツダム止まりだった。
仕方がないのでここで下車して駅で昼食を済ませ、徒歩で見物に出る。

ベルリンの郊外は実に美しい。
まっすぐに伸びた松、白樺の森、広い芝生、その間に点在する小住宅。
建物はパリやロンドンの郊外の住宅よりも遥かに立派である。
材料がよくデザインもよい。
しかも庭園との調和も考えられ、手入れもよく行き届いている。
おもしろく地形を利用したのがあった。
メンデルスゾーン式の新様式のものも相当にあった。
今日は日曜日で、しかも1年に1度の墓参りをする日だそうで、
花を手に郊外の墓地へお参りに出掛ける男女でいっぱいだ。
義足の足で妻に手を引かれて行く老兵、子供に花を持たせた家族連れ、
白髪にシルクハットの紳士など様々である。

橋を渡って宮殿広場に出る。
古い大理石の彫像などを見ながら高い塔のある寺院に出る。
ここにはフリードリッヒ1世の霊柩が祀られてあり、
1805年、フリードリッヒ・ウイルヘルム第3世と
ロシア皇帝アレキサンダー第1世とがこの寺院内で同盟契約を結び、
また第三帝国建設直後、第1回のドイツ議会招宴もここで興行された。
時の大統領、ヒンデンブルグ将軍がナチの統帥ヒットラー首相に開院を命じた
劇的なシーンの舞台にもなったのだ。
会堂は横長で3階のギャラリーがあり、正面中央の祭壇下に皇帝の墓がある。

ヨーロッパの花屋

11月22日 

今日は亡き母の命日である。
朝8時に起きて、前のスタットパークを散歩する。
日曜の朝は皆遅いので人はあまりいない。
池の端に出ると、よく馴れた水鳥が寄って来る。
落ち葉の立木、そよ風もなく、朝霞の静かな朝である。
花壇にはこの季節にはめずらしく、深紅の薔薇が今を盛りと咲いている。
12月近く、日本では想像もつかないことである。
近くの寺で打ち鳴らす鐘の音、ぼつぼつお参りの夫婦連れが通りだす。

一般に欧州の花屋は綺麗なものだ。
目が覚めるようだというが、どこの花屋も実に立派である。
外から見たショーウインドウの美しいこと、しかも上手に規則的に並べられている。
ヒヤシンス、チューリップ、アネモネ、シクラメン、
桜草、カーネーション、水仙その他、
私など名前も知らない美しい花々が飾り立てられ、造花ではないかと思うばかりだ。
ことに外国人はカーネーションを好むと見えて、
金色の八重咲きのものは実に立派である。
あまりに綺麗なので3、4人に種子を送ったが、果たしてこの通りにできるかどうか。
花屋ばかりではなく市内の辻辻の屋台でも花を売っている。
切り花が多く、また鉢植えも売る。
スミレの束などはよく青年が料理屋やカフェの女たちに売りに来る。

2010年5月23日日曜日

合理的な、ドイツ生活




色々と考えながらホテルの玄関を鍵で開けて広間に入り、
正面のエレベーターをもう1つの鍵で開け、二重の戸を閉め、
5階のボタンを押すとするすると動き出し、5階で止まる。
ここでちゃんと元通りに戸を閉めておかなければならない。
そして次の玄関の戸を3つ目の鍵で開けて中に入るのだ。
この玄関までは、ホテルといえども道路のようなもの。
それからさらに4つ目のドアの鍵を開けて、はじめて自分の部屋に入れるわけである。
夜は必ず電灯のスイッチをひねることを忘れてはならない。


ベルリンのエレベーターは多くが自動式で、運転者はほとんどいない。
乗降の頻繁なところではバタノスターを使ってあるのを見受けた。
このように出入り口は一切合切が鍵づくしである。
用心なのはよいが、もしもこの鍵を忘れたら大変だ。
夜などほとんど自室へ帰ることはできまい。
ホテルにでも泊まるか、外から電話でもかけるより仕方がない。
けれども下宿の使用人は大抵10時頃から不在なので、ほとんど駄目といっていい。
また、人を訪問する時は必ず前もって打ち合わせておかなければならず、
突然の訪問は夜分などにはまったく駄目だ。
しかし鍵さえあれば深夜でも他人に没交渉である。
そのように機械的に合理化されていて、実にドイツ的生活と頷けるが、
これがまた、相当悪用されているようにも思う。

ドイツ事情あれこれ

11月21日

昼飯に、支那人がよく行くという支那料理屋に行ってみた。
ここは満州事変の時「日本人入るべからず」の掛け札を出して
ヒットラーに叱られた店だとか。
それほど支那人贔屓で、日本人はほとんど来ないそうだ。店構えは少々汚い。
ちょうど昼飯時でたくさんの支那人がいる。皆こちらを見る。何だか変な気持だ。
これではいけない。隣邦の人々である、とくに満州国としては同色同文の紳士同士、
暖かく手を握らねばならない。
通りで行き合っても支那人ということはすぐにわかるが、むこうで避けて通る。
嫌なものだ。東洋人同士、お互いにもう少し仲良くしたいものだ。


夕食は日本人会に行く。
たくさんの日本人が来ておりH少佐の顔も見える。
その後、話しに花が咲く。
別室には玉突き室や図書室もあり、新刊の雑誌や新聞なども数種備え付けてある。
マージャンも2組でやっている。ここにいれば外国という感じはしない。


10時頃ホテルの玄関まで帰ってきたが
あまりに喉が渇くので下のカフェへコーヒーを飲みに飛び込んだ。
初めて入ってみたのだが、表向きは小さいものの内部はなかなか広い。
今日は土曜日で男女連れの客が相当いる。
グラスを前にしてある年寄りが女と寄り添い仲良くやっている。
後で聞いたことだが、ここは土曜の夜は特に
日本の待ち合いのように男女が示し合わせて落ち合う所だそうだ。
これが皆普通の人だというから驚く。
収入不足で正式な結婚ができず、表面的には友人という名目で別居していても、
夫婦同様の交際をしている者が多く、
若者でもこの友達を持たない者はほとんどいないということである。
正式の結婚数は減少し、離婚者数が増えているそうで、
多くは姦通が理由だそうだ。同情してよいことかどうかわからない。

2010年5月22日土曜日

ベルリンでショッピング…




11月21日 
今日は有名な建築書店「ワースモト」に行く。
遠慮なしにあれこれ物色すると合計200マルクばかりになる。
しかしここでは選定だけしておいて、約5分引きで提供してくれる別の本屋で買う。
そこは例の「バウクンスト」の発行所であるが、飛びつくようなものはなかった。
帰途、通りすがりのショーウインドウにロシア製のものを売っている所があったので、
絵はがきでも買うつもりで入る。
様々な書籍もあったので建築の本はないか聞くと、
ウイウイと来て、早速出してきたのはロシアの近代建築である。
これはよいものを見つけた、ロシアには行かない私には大変な掘り出し物だ。
日本円にして26円、早速買う。

次にカーデウエーの百貨店へ行き、先日見ていた台所道具をあれこれ選定する。
想像通り色々と変わったものがある。
台所作業の効率化というが、随分と手間の省ける道具が数限りなくある。
しかしよく考えてみると、外人の多くは手先が不器用であるために
自然とこんなものが考えられたのかもしれない。
手先の器用な日本人には不必要かもしれない。
見本がてら少しばかり役立ちそうなものを買い求めておいた。

往年の名作も過去の遺物か

11月20日 
陸軍事務所にO少尉を訪問したがロンドン旅行中とのことで会えず、
同船のN少佐を尋ねたが、別所、技術詰所にいらっしゃるとのことで会えなかった。
コンメルツ・バンクに立ち寄り、2回目のレジスターを引き出す。

満州国事務所に立ち寄り、T君の案内で建築展覧会を見に行った。
これは個人主催によるもので、私たちが満州でやったものと大差なかった。
一般を対象としたものとみえ、
説明も出品場もその順席なども専門的ではないように思った。
しかしここでたくさんの材料カタログをもらい、住宅集を2〜3冊買う。

ここを出て、すでに電灯の灯った賑やかな街を、ショーウインドウを見ながら散歩する。
ウエルトハイムの百貨店の前へ出る。
これは往年、建築会を唸らせたハンス・ベルチッヒの手によるものだが
時代は環る。一瞬として停止しない。
その巧妙な手法、内部の複雑な装飾も今となっては何となくもの寂しいものだ。
際限ない時代の変遷と芸術的要求を、今さらながら考えさせられる。

再度、ベルリンへ

11月19日 
昨晩、雨の空を抜けてベルリンへ再び上陸。
ホテルへ戻るとマダムや老婆に出迎えられ、懐かしの我が家へ帰ったかのよう。
明けて翌朝、午前中はホテルで休養し、2時頃から満州国事務所を訪問する。

政府関係から訪問への返事が来ないので、大使館にM大使を訪問したが不在。
名簿に登録してI氏からの名刺などを置いて帰る。

帰途、建築関連の書店へ立ち寄り、インド建築、シャム建築の書籍を見つけて買う。
両方ともすでに絶版のもので巡り会えてよかった。両方で100マルクほどだった。
近くのレストランで夕食を済ませ、スカラ座でレビューを見る。
パリよりもよく、ロンドンよりも落ちるが綺麗なものだ。
レビューも最近は少々軽業に近くなってきているようだ。
何ごとにつけても刺激の多いものでなければ客を呼ぶことができないのであろう。
大きな劇場だが満員の盛況である。
9時半にハネて外へ出ると次回の客でいっぱい。昼間の復興気分とは別らしい。

ホテルに帰るのもまだ早いと、ヴィクトリア・ルイゼに立ち寄った。
例のごとくカクテルに酔い、気がついたら丁君はいない。
辺りも静かだ。ぶらぶら歩いて帰るつもりで外へ出たが、
いくら歩いても見覚えのある所へ出ない。兜を脱いでタクシーに乗る。
なんでも反対方向に来てしまったらしい。宿で時計を見たら3時だった。
ベルリンの街路計画は放射線と環状線が根幹となり、
ところどころに広場があり、部分的に中心をなしている。
幹線道路は目的地へ最短距離で行くことができるが、
馴れない者はとんでもない方角間違いをすることが多いという。

2010年5月19日水曜日

スカンジナビア諸国の素晴らしさ




コペンハーゲンにはたくさんの公園があり、しかもよく設備してある。
自動車道路、遊歩道のある海岸公園の仕事の立派なこと、
主要な建物付近には色々な銅像もある。多くは裸体だ。
とくに海岸にある自然石の上の乙女の裸像は自然な美しさで実によい。

デンマークは小国でありながら、
世界の農業国として各種のお手本になっており、羨望の的である。
しかもそれは天恵の力ではない。
国土は貧弱な砂土が多く、池沼の多い湿地で、
牧場にはいいが農業には甚だ不適であった。
それを勤勉なこの国の人々が人工的に施肥し、耕地として改善に努め、
今日の姿にまで至らしめたのである。
特にミルクやバター、チーズなどは世界一の良品ということである。

海軍と漁業のノルウェー
農業のデンマーク
木と鉄のスゥエーデン   
実に平和で文化的な国々。
フィンランドを含む4カ国の国際関係はきわめて良く、
国民は安定し、戦争などなく、
他の国が軍備に悩まされる間にこれらの国民は、
生活改善の努力に集中することが出来る。楽園を作りつつあるのだ。

期待久しきスカンジナビアの旅も今日で終り、
明朝9時発の飛行機で再度ベルリンへ飛ぶ。
天候に恵まれ、晩秋の景色は旅情をなぐさめ、
常緑樹の林、白樺の密林、池沼は美しく、
静かに木造のバンガローに暮らす国民の和やかさ。
ストックホルムのタウンホールの詩の如く、夢のような存在である。
自然を制服した人間の力の偉大さを思う。

ああ懐かしく、永久に忘れ得ぬスカンジナビア諸国よ。
親しみ深いこれらの国民よ
永久に平和なれ。

2010年5月17日月曜日

再度デンマーク、コペンハーゲンへ




11月17日 
ヘルシンキボルクで車両は汽船に乗り、静かに動き出したので目が覚めた。
30分ばかりで陸の列車に接続し、すぐまた走り出す。
2時間ぐらいでコペンハーゲンの中央駅に到着した。
汽車中で夜明けの麗らかな朝日を拝した。

農業国デンマークの農村はさすがに手入れが行き届いている。
整然とした耕地が続き、栗林、青い芝生、赤屋根の住宅、
樹下に群れ遊ぶ鹿、静かな池に水鳥のつくる波紋、
晩秋の印象深きスカンジナビア旅行は生涯忘れ得ぬことだろう。



今度はホテル・グランドに泊まる。タクシーで市内見物に出た。
寺院や宮殿、大学やミュージアムも見た。
例のラウンドタワーに上って市内を見下ろしたりもした。
ミュージアムでは有名作品の前はどこでもそうであるように、老婆が丹念に模写している。
立派な彫刻の前では学生がデッサンをして先生に批評してもらっている。
赤い外套を着たセクレタリーと一緒に写真に写る。

5時からやっとわかった「レストラン・スカラ」で夕食をとる。
ここの料理はオードブルだけを食わせるのである。
試みにスペシャルをとってみた。
およそ30数種の山海の珍味が次から次に出され、とても食べきれない。
10人分くらいの料理である。これが日本円で5円くらいだ。
ちょっと田舎者をやってしまったわけだ。
ここでは7時から音楽もやり、ダンスなどもあるそうだが、
まだだいぶん時間があるので一旦外へ出た。
ホテルに帰っても仕方ないので、目の前の活動館に飛び込んだ。
アメリカものでサンフランシスコの震災を題材にしたものをやっていた。


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2010年5月15日土曜日

オスロを発ち、一路コペンハーゲンへ

さて、何もかも見てしまって午後2時。しかし辺りはすでに薄暗い。
午前10時頃ようやく夜が明けて、2時にはぼつぼつ暗くなるのだ。
これが夏だと反対に夜が短くなり午前12時でも真昼のようで、いわゆる白夜となるのだ。
仕方ないので夜7時半の列車でコペンハーゲンに帰ることにした。
早速寝台車を申し込むとすぐにリザーブできた。
気候は少々風があり、海岸近くなので寒いが大したことはない。


ここの街でも珍しそうに私たちを見る。ホテルで飯を食い勘定を済ませた。
宿泊しないので高いチップも1割しか取らない。
女事務員をつかまえて寒さの程度を聞くと最低で零下30度になるという。

荷物を停車場に運ばせて駅まで歩く。
10歳ぐらいの子供が3、4人ついて来る。英語で話しかけてみたが通じない。
あまり話しかけるので向こうも気の毒と思ったのか、
中の1人がポケットからシガーを出して勧める。
僕はシガーは呑まないと言い、自分の持っていたタバコを出してやると皆スパスパとやる。


駅にはすでに列車が横たわっている。
私たちの乗るところは最先端だ。食堂車まで12両戻らねばならない。
これは途中ヘルシングボルグで海峡を渡る時、1、2等車のみそのままで
デンマークの列車に接続するのだ。定刻近くなってもなかなか荷物を持ってこない。
やっと2分前に悠々とやって来た。
老婆に連れられた6、7歳の子供が、窓の外からしきりに中を覗いている。
こちらから手招きすると、窓の近くにやって来て手を振る。
動き出した列車を追って婆さんを困らせていた。
子供は可愛いものだ。家の子供たちのことを思う。
例によって旅券や切符の調べがある。
途中の駅で乗り込んだ女ボーイがベッドの用意をする。
その間私たちは食堂車に行って夕食を済ませ、
ビールの勢いでベッドに潜り込みいい気持ちで寝た。




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オスロ着、市街を観光する




11月16日 
午前7時頃車掌がパスポートを返しに来た。
窓の外は落葉樹や白樺の密林で、雪が降っている。渓流が白濁している。
木造ペンキ塗りの家が続き、氷結した湖の氷を二尺ぐらいに切り出していた。
オスロ近くの駅で電気機関車に替える。
税関員が来る。やがて午前9時半、オスロ駅に着いた。


オスロはノルウェーの首府で、人口25万くらいの小都市である。
駅から西北へ走る大通りがメインストリートで、その正面の高台に王宮がある。
王宮の前では儀●兵が二人、左右に動作を揃えて歩く。
まるでおとぎの国の兵隊さんのようだ。


ホテル・アストリアのポーターに荷物を渡し、ふらふらと歩いて行く。
ホテルで簡単な朝食を済ませ、例のごとく地図をもらって街に出る。
広場からロイヤルパレス博物館を観て、パレスの裏庭に出る。
二人の子守りが5、6歳の子供をたくさん遊ばせている様子をカメラに納めた。


皆元気で、遠慮なしに集ってきておすましをする。
持っていたチョコレートをわけてやると大手を上げて喜んだ。
街の中から海岸に出る。
街は今、新市街計画を実行中で、大きな市庁舎や付属の建物が建築されている。
所々に新様式の建物があり、古い家とおもしろいコントラストだ。

通りすがりのデパートに飛び込んでみる。見物していたら男の店員が出て来た。
玩具店では玩具の飛行機やセルロイド人形を手にし、これは皆日本から来たのだという。
何か珍しいものはないかと尋ねると妙な形のナイフを出してきた。
ノルウェー人形の鉛筆入れなどを見せられて2、3個買い求めた。




寝台列車でオスロに向かう




今夜の出発に向けて宿に戻り、宿料を払うとサービス料に2割5分も取っている。
大体が1割か1割5分なものだがここは少々高い。
宿料も日本円で1日約11円ついている。これをポンドで支払う。
この国の金が少々残ったので、交換を頼んだができないという。
仕方ないので駅で温かいソーセージや果物を買い込んだ。
ポーターらにやったりしてちょうどコレクション分くらいが残った。


列車は定刻10時5分に出発するも、私たちの考えとは逆方向に走りだす。
少々不安だったが列車は確かにオスロ行きとある。
寝台車は2人部屋で上下段である。料金は1人あたり日本円で約10円。
役人が来て旅券と切符を調べる。
パスポートは引換券をくれて明朝渡すという。
疲れたのですぐにベッドに潜り寝てしまった。

2010年5月13日木曜日

ストックホルム市街観光

11月15日 
日曜日。朝から昨日に増す好天気で、
街は静かだが、ピクニック姿の男女が右往左往している。
今日は市内見物である。

英語ができるタクシーを頼んで出掛ける。
大学や兵営博物館、動物園、池畔の公園、夏の盛り場、
議会や寺院などを見て、さらに郊外の離宮に行った。
古い建物で庭園がよい。
中にチャイナハウス(ここかも)というのがあって、
勧められるままに50銭の入場料を払って入ってみたら、
なるほど支那の美術品が僅かに飾られて、壁などにもそれらしい装飾がしてあった。
支那のものばかりかと思ったら、日本の金蒔絵の飾り棚や
丸に十の字の紋章のある御駕があった。
おそらく薩摩の島津候かなにかのものだろう。あまり日本人の訪ねる者もあるまいに。

2時頃見終えて付近のレストランで昼食を食べる。
昨日からろくに食べていないので美味いこと、特にチーズは美味かった。
今夜10時の急行でノルウェーのオスロ行きである。
初めて欧州の寝台車に乗るのだ。
美しき水の都、スウェーデンのストックホルム。
人口約50万の、森と島と湖と海と橋の都である。

再度市庁舎を訪ねる。湖水際のテラスのベンチに腰掛けて飽きずに眺めた。
英国の議事堂が持つ、何のこだわりもなくすくすくと育った貴族的な存在と、
社会の荒波をくぐり抜け、洗練された良さということを考える。
それにしても偉大な存在である。

2010年5月12日水曜日

ゼーテルマルムの立体交差点

ストックホルム市庁舎の美的建築に酔いしれたのち、
通行人に尋ねながら「レストラン・カタリーナ」へ行く。
崖際には10階ばかりのモダン建物が海に向って建ち、
ブリッヂを架けた端にエレベータがある。
これを上下して橋の上のレストランで飯を食うのだ。
内部は鉄骨と窓の格子など、まるで飛行船に乗っているようで市街を見晴らせる。
しかもこの下は世界でも有名な4〜5階造の道路で、
橋になり地下道になり、汽車も通れば自動車も電車も人も、
数段の湾曲した道を右往左往し、一度も交差することがないようにできている。
これがストックホルム自慢の上下式交差点で、
上から見ていると右からも左からも自動車や電車がぐるぐると回って
ドンドンさばけていく様は不思議な感じがする。
一級の土木工事は必ず見る必要がある。

3時半、辺りはすでに暗く電灯がつく。
ここから見る電飾の市街は、水面に反映して実に美しい。
ホテルの近くに戻り、最も繁華なキング・ストリートを散歩する。
最近できたモダンなコンサートホールの前へ出る。
長々とした柱、横にあるひょろ長い人像の群の噴水を見ながら
無遠慮に内部に入り、金ピカの案内人に内部を見せてもらう。
今日は小ホールで学校の催しがあるといい、たくさんの女学生がプログラムを買っている。
無遠慮な闖入者を珍しそうに眺める。そこを出て付近の活動写真に入る。
単純な紅色の布地で張りつめてある。
アメリカものを2時間ばかり観て出ると、次の客がペーブメントにいっぱいであった。

ホテルに帰り日記やハガキを書いていると、1時近くなっている。
今日は午後2時頃に飯を食ったのみなので少々腹が減っているけれど、
今頃仕方がないので我慢して寝る。

2010年5月11日火曜日

素晴らしき、ストックホルムの美的建築




11月14日 
私たちの行く先は不思議なほど晴天に恵まれる。実に幸せである。
地図を片手に徒歩で公使館を訪問した。


ここには最近まで新京総領事館におられたS書記生が来ておられる。
氏は私のパスポートを作製された方で、お互いこんな所で会うとは思わなかった。
氏は1週間前に着任されたばかりである。
早速ここの宮内庁に電話を入れると見学を許され、すぐに来いという。
タクシーを走らせ、約200年前の宮城を詳しく見ることができた。
現在皇帝が住んでおられる所以外は全て見た。
案内の女官とお互いにブロークンな英語で、わからなくなるとお互いに笑う。




宮内省の建築技師にも面会し、議場や礼拝堂を見せてもらい、貴重な図面なども見た。
2時頃に済み、見当をつけてふらふらと、湖畔に建つ有名な市庁舎に行く。
全体が濃い褐色で、粗面のフェースブロックを無造作に積み、
彫刻なども荒削りなもので、無頓着な中にも全体がよく調和した
ラフで実に芸術的なやり方である。
回廊の壁面なども凹凸のでたらめな積み方の上に、モルタルの木●仕上げである。
そこに表現的なレリーフが施され、屋根は大部分が銅板葺きで緑色に錆び、
要所に金色をあしらってある。その屋根に突然赤レンガ葺きで接続している。
実に繊細なモルディングにスリツな窓、レンガ装飾のおどけた渋み、
棟の位置とその大胆なアウトライン、
回廊の天井は古材の木地のままの格天井に単純な絵、
ラフな壁との調和のよいこと、実に渋いものである。

内部がまたよく洗練され、思いきったことがやってある。
金色の大ホールは全面金色のモザイクである。
その派手な渋み、装飾品と調度品とがよく合わせてある。
有能な建築家に何ら干渉せず一任したものだろう。
またその建築家が大胆にその個性を発揮し、しかも成功している。
実に偉大な存在である。羨ましい。明日もう一度見よう。
市庁舎のimage

2010年5月10日月曜日

ストックホルム着

駅に戻り、ストックホルム行きの列車に乗り込む。
定刻になると何の合図もなしに発車する。2等車は綺麗。ここでも喫煙車は別だ。
沿道は概ね平地で砂糖大根の畑が続き、丘山は森だ。
大小無数の沼沢や湖水が続く。
秋の終りで紅い葉陰は裸木の下に毛布を敷いたようだ。
苔むす岩、茅葺き・白壁の農家、白いカーテンの窓辺、
白樺の葉、杉の大樹、紅葉の古木、実に美しい。

停車場ですれ違う列車の窓からは、子供たちが珍しそうにこちらを覗き見る。
食堂車の窓越しにビールのコップを挙げると、皆笑いながら手を挙げる。
同車の人も皆ニコニコと、車掌もすこぶる可憐だ。
列車には席ごとに飲料水が置いてあり、女中が何度も取り替え、飲めと勧める。
列車の温度もよく調節してある。

夜10時半、予定に10分ほど遅れてストックホルム着。
暗くてよく見えないが、線路際まで水が迫る。水の都に来たのである。
5色のネオンが水に映り綺麗なものだ。
橋の連続が見える。乗客たちが向こう側へ共に付いて出た。
かねて聞いていたホテル・コンチネンタルに投宿する。駅前で少々やかましいが、
案内された部屋は見晴らしのよいこざっぱりとしたバス付きの部屋だった。
フロントで地図をもらい、明日の観光を頼む。
しかし今時分は時候が悪くやめているそうなので、タクシー観光にした。

ああ、多年憧憬のストックホルムに着いたのだ。
まだ見ぬ街、明日を楽しみにして入浴後眠りについた。

コペンハーゲンからストックホルムへ移動

11月13日 
デンマークへは帰途再度立ち寄るので見物はその時にと11時出発。
オレスノという埠頭からスウェーデンのマルメまで汽船で行く。
連絡船は小さいが船員の話では海は静かだという。
今日も朝から小雨である。左手は市街地公園、
右は工場や石炭積込み所の大掛かりなものが2ヶ所ある。
気船がたくさん着いている。軍艦などもいた。
1時間半でマルメ着。ここでも旅券や荷物一切の届け出をする。
駅まで行って1ポンドばかりこの国の金に換えてみたら、19クローネ25になった。


ストックホルム行きは2時半に出るのであと1時間あまりあり、
荷物を一時預けにして街へ出てみる。
洗い出し積みの家が多く、実によい色のレンガがある。
特に赤花崗岩のいい形をした家があった。
通行人たちは我々が珍しいのか、囁きあったり振り返ってみたり、
立ち止まってみたりするので気味が悪い。しかし悪意はなさそうだ。
広場で写真を撮っていると、学校帰りの女学生が4〜5人、立ち止まってこちらを見る。
カメラを向けて一緒に写す。アドレスを聞き送ってやることにした。
皆顔立ちの整った可愛い子供たちである。

2010年5月8日土曜日

デンマーク

市街は赤煉瓦の家が多く、あまり装飾されていない。皆5〜6階建てである。
ここはデンマークの首府でバルチック海の●門であり、
北欧諸国の物資の集積地でもある。
その名は「商人の港」を意味し、人口約70万、
このうち本国人はわずか5分の1程しかいないそうである。
有名な市役所もすぐそばで、雨の中その前のパレスホテルへ徒歩で向った。
高い塔のある大きな建物で市役所などと同様に有名なものだ。

午後3時、雨のせいもあって薄暗く、電灯がついている。
夕食はかねてから聞いていた「スカラ」というレストランを
試そうと思って探したが見当たらない。ホテルに帰り昼食を兼ねた夕食を済ませた。
日本円で5円50銭くらいとやや高いが日本人の口に合い、割合に美味かった。
食後、雨も小降りになったので外へ出る。
街のあちらこちらにたくさんの銅像がある。
例の少年○●手の銅像もあった。
賑やかな街の中、2時間ばかりショーウインドウ見物をして帰った。
部屋にバスがないのでパジャマのまま廊下の様子を見て飛び込む。

スカンジナビア旅行へ出発

11月12日 
雨降り。今日は飛行機からの眺めも悪いことだろう。
11時半頃タクシーをテンペルホーフの飛行場へと走らせる。
12時40分出発。
郊外の景色を眺めながら、約20分で到着。モダンな空港である。
建物の上から数えてみたら、広い飛行場には約50機もの飛行機があった。
手荷物や旅券の検査では所持金のマルクを調べられ、
10マルクより少々余計にあったので、そこの現金取り扱い所に預ける。
写真機や荷物も一緒に預けなければならない。
機は14人乗りの大型で、定刻にプロペラの爆音勇ましく簡単に上昇した。

眼下のベルリンの街はまるで木造模型のようである。実に整然としている。
○ベルリンの●の歴史的な建物やドームが○えている。
やがて密雲に入り何も見えなくなった。機は少しの揺れもない。
軽い爆音にいつしか夢心地になる。
1時間あまりが過ぎ、ふと目を覚ませば雲間に海上が見え隠れする。

やがてデンマークの突端、コペンハーゲン入口砲○の真上を通った。
まもなく飛行場へ着いたが地上は嵐で、横殴りの雨が叩きつけている。
この強風の中をよく飛んだものだと思う。
ここでも旅券や荷物の検査があり、待機していた飛行会社のバスで市街地に向う。
約30分でコペンハーゲン中心地に着いた。飛行時間は約1時間であった。

ベルリンの夜余興



夜になり、我々の旅行中にここを出発するH氏と、お別れに支那料理を食いに行く。
「泰東」といって、ちょっと支那気分のする相当の店である。
客は7人のドイツ人と多くは日本人。
支那人はあまりここには来ないそうで、他に支那料理店があるのだそうだ。
定食を食べながらふと見ると、向こうのテーブルにドイツ人のべっぴんが1人いて、
時々こちらにモーションをかけてくる。
出掛けにちょっと合図をすると簡単について来る。そばで見るとなかなか綺麗な女だ。

男3人にその女を連れて、有名な「フエミナ」というカフェに入る。
コンパートメントになっていて、中央は階上までの吹抜け、
たくさんのテーブルに数百もの男女が飲食している。
コンパートの上はギャラリーで、階上から酒を飲みながら下を見下ろせる。
正面には舞台があり音楽をやっている。大広間の中央は40〜50畳の広さがある。
時間ごとにそれがエレベーター式にせり上がり、大勢の半裸の女が出てきてダンスをやる。
場が平面になると大勢の客が出て、連れの女と踊るのである。
30分おきくらいに高く、大きなガラス天井が左右に開き、ベンチレーションをやる。大仕掛けなものだ。
テーブルには電話が備え付けられている。
何の必要かと思っていたら、やおら私たちのテーブルの電話が鳴った。
聞くとどこかに来ているその手の女がかけている。
どこからともなくたくさんのゴム風船が飛んで来る。
それを客がおもしろがって大騒ぎしながらパンパン割る。
ワインを飲み、シャンパンを抜く音があちこちで聞こえる。
電飾の下に繰り広げられた歓楽の光景、
これが復興の気分に燃え、真の活動をしているドイツなのであろうか。

それから2〜3軒、日本人が必ず行くというカフェに行く。
例の「カフェ・ヴィクトリア」へも行った。
H氏はお馴染みと見え、マダムが出てきてサービスをする。
シャンパンにワイン、ビールやカクテル、賑やかなバンドに合わせて盛んに踊る客、
私もいつしか大いに酩酊しマダムをつかまえて下手なダンスをやった。
1時過ぎ、客も女たちもいない。私とH氏だけだ。
バンドたちも私たちの周囲に集ってきて、日本の歌を歌う。
ハイル・ヒットラーを叫ぶ。なにもかもがカクテルのせいだ。
久しぶりに気持よく騒いだ。3時頃、H氏とタクシーで帰宿。
朝、目が覚めたら着の身着のままで寝ていた。

2010年5月7日金曜日

ベルリンにて、北欧行きの準備

11月11日 
午前中、満州国事務所へ。
K氏その他に明日からのスカンジナビア旅行前の挨拶やら、
ベルリンに戻った後の打合せなど、各種の依頼をした。


次いで階下の正金銀行へ行き、クレジットから15ポンドを引き出して、
フライマルクで約170マルクを受け取り、合わせて証明をもらった。
レジスターマルクにすると約8割の違いだ。
本来半額ほどで済むところ、正金の人も
「正式には買えないが、絶対無理ともいえない。買った人もいるのだ」と、
気の毒そうに言っていた。仕方がない。その金に証明を付け、切符を頼んだ。

その後「よさの」に行くと、切符はちゃんと出てきている。少々おかしい。
「この証明を持って行かなくては切符は売らないように言っていたはずだが」と聞くと、
「これは店の信用です」と、あっさり片付けられた。どうもおかしい。

2時頃、カーデウエーの大百貨店に行くと、
小旅行用の最新流行型で飛行カバンというのを35マルクばかりで求めた。
イニシャルを入れて宿に届けてもらうことにした。
物資の少ないというドイツだが、なんとあるある、商店の種類と品数の多いこと。
家庭用品にも色々とおもしろいものがある。

2010年5月6日木曜日

ベルリン市街、ブランデンブルク門など

11月10日 
今日は丁君が気分が悪いといって引きこもる。
私は1人、カメラ片手にぶらぶらと散歩に出た。
バスでウンターデンリンゲンに行き、
また引き返してブランデンブルク門や議事堂を見た。

我らの旅程では季節の関係でベルリンは後回しにして先を急ぎ、
あまり寒くならないうちにスカンジナビア旅行をして来ねばならない。
色々考えて12日、飛行機でコペンハーゲンに飛び、
ストックホルムを見てオスロに出て、
再度コペンハーゲンを経てベルリンへ帰着することにした。
約1週間の行程である。運賃は約180マルク。
しかもこれはフライマルクでレジスターマルクでは買えないという。
明日正金銀行でポンドでフライマルクを買い、その証明を持って買いに行かねばならない。

夜は「都」で夕食をとる。
やがてM氏やI氏も来店し、ひとしきり雑談。
M氏は明日トルコへ旅立つので、色々話しながら市内を散歩する。
ウンターでお互いに健康を祈りながら別れた。

ベルリン市街



11月9日 
H氏の案内でウンターデンリンゲンの正金銀行にマルクを受け取りに行ったが、
私たちのは三井銀行のクレジットなので、コンメルツ銀行に行けという。
すぐ目の前のその銀行に行き、5日分の費用500マルクを引き出す。



それから満州国事務所を探したが、なかなかわからない。
何のことはない、訪ね先は正金銀行と一つ屋根の下の6階にあった。
商務官のK氏に面会。
昼食を「リッターワグナー」という地下の酒蔵のようなレストランでとる。
ここは古くて有名で、カイゼルなども来たことがあるという。
壁や天井、テーブル、椅子まで記念の落書きでいっぱいだ。

ここを出る際に、石畳の舗道でものの見事にすべって転んだ。
たくさんの人通りの中、なんとも体裁の悪いことだった!
舗道は建物から二尺ほど、または五、六尺くらいまで二寸大の石のモザイク砂伏せで、
それから約十五、六尺幅が人造石の舗道、車道の間にまた二寸大のモザイク状に
小石が五、六尺くらい砂伏せになっている。これが普通だ。
舗石はツルツルに摩滅し、車道に向って勾配が付けられているため、
靴のかかとに打ち込まれた金属ですべったらしい。
道路は広く、ことに舗道はゆったり取ってある。もっともパリほどではないが。

建物はドイツ風にさっぱり、キチンとしたもので、
6〜7階建てで見事に揃っていて掃除がよく行き届き、
ゴミ1つ見えないほどに掃き清められている。
辻には町名番地入りの札が架けられ、番号順に矢印が付けられ、
郵便箱には集配の時間までがカード式に取付けられている。
広告は統制され、所々に公告塔が建っている。
また、必要な場所には自動計量器まで備え付けられ、非常警笛器なども要所にある。

午後は三井、三菱へ挨拶に行き、日本商店「よさの」に立ち寄る。
写真機を勧められ、考えてみることにした。
帰途「都」という日本料理店に入ったら、たくさんの日本人がいる。
よく見ると工専のM氏がいるではないか。
校長からいただいた氏の旅程では会えないと思っていたが、ここで会うとは実に嬉しい。
満鉄鉄道部のI氏もいる。M氏との話は尽きない。
ホテルに同行し12時近くまで何かと話し込み、校長宛に連名でハガキを出した。
異郷の地で知人と会うのは嬉しいものだ。

2010年5月5日水曜日

ベルリン、1日目




11月8日 
昨夜は疲れてよく眠った。
何しろ14時間ばかり汽車に揺られ、初めてのところで気疲れもした。
午前10時頃、室外の人の声に目覚める。
隣はちょうど食堂だった。身支度をして食堂に出る。
6、7人の日本人が朝食のパンをかじりながら雑談している。
誰ともなく挨拶して席に着くと、向かい側の人がしきりと私の顔を見る。
私もどこかで見たことがあるような気がするが思い出せない。
すると向こうから声をかけられた。
『失礼ですが貴方はAさんではありませんか?』ときた。
そしてはっきりと「これは恐れ入る、私はこういう者です」と名刺を出された。
鉄路総局のH氏であった。Y君の義兄で、同君の結婚式でお目にかかっていたようだ。
Y君から私宛の名刺を渡される。

食後、丁君を加えて地図を見ながらベルリンの街の交通関係や、
私たちの行かねばならない方面の位置を指摘していただいた。
1時頃から案内もしてくれた。
ホテル前で19番のバスに乗り25分でウンターデンリンゲンを通り、
●王城の前まで行き、引き返してフレデリックシュトラーゼの繁華街を通り、
ウンターの日本料理店「あけぼの」で夕食を取る。

9時頃、ぶらぶらと歩いてホテルに帰る。
食堂ではマダムをはじめ、家族が集って写真帳などを出して話している。
私もよい物を見せようと丁君と2人で家族の写真を見せると大騒ぎだ。
何か言うのだがさっぱりわからない。どれがお前の子供かといっているようだ。
皆オレの子供だと言ったら、そんなことはないだろうと信じない。
H氏のドイツ語で順序を教えたら、半信半疑のうちに得心がいったらしい。
両手を広げて驚いていた。いちいち子供の顔を見て批評していた。


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ベルリン到着




列車は定刻午後11時25分、ベルリン・ツォー駅着。
3分間停車なので、20分前からたくさんの荷物を座席に下ろし、
窓からすぐ赤帽に渡す用意をする。
列車がホームに止まり、大急ぎで荷物を下ろしていると、
ホームで『アイゴー、アイゴー』と呼ぶ婦人の声に気付けば、
向こうも笑顔で近付いて、『ミスター・アイゴー』と手を差し出す。
これはかねて頼んでおいたホテルのマダムである。
S氏と別れ、このマダムに連れられてタクシーでホテル・エレクセンに行く。
このマダムは面白い女で、英語、ドイツ語、日本語を取り混ぜて
色々と面白いことを言って笑わせる。
高梨をカネナシなんて失敬なことを言う。
せっかく来てくれたが、目下満室なので今晩はサロンに寝てくれという。
20分ばかりでホテルへ到着。
セルフサービスのエレベーターで5階の部屋に昇る。
すでに12時近いので何ごとも明日にと、
サロンに急造りしたベッドでドイツ到着の第一夜を眠りについた。

2010年5月3日月曜日

パリ発、ドイツ・ベルリンへ




11月7日 
午前7時起床。簡単な朝食を部屋でとり、
預けておいた荷物やホテルの勘定を済ませ、北駅へタクシーを走らせる。
パリ〜ベルリン間の急行は、大鉄傘下のホームに横付けになっている。
「荷物が多い」と改札で文句を言われたが、
かねて教えられていたように2人で10フラン握らせたら無事にパス。
車両はドイツ製でなかなか上等である。
無論2等だが、コンパートメントで3人掛けの向かい合い6人乗りである。

やがて9時出発。窓外の景色はしばらくの間、お馴染みの様子である。
フランスの税関員が来て手提げを開けさせられ、
ロンドンで買ったハンドバッグを念入りに見ていたが、何事もなくパスする。

12時半、丁君は昼食に行かないので1人で行く。
席に1人の日本人がいた。自然に色々と話したが、鉄道省のS工学博士といい、
ベルリンに約半年近くも滞在とのことで、ベルリン事情を色々と聞くことができた。
氏は話好きと見え、食後に私たちの席に来て色々と注意を授けてくれた。
ベルギーの税関は非常にやかましいと聞いていたが、氏のドイツ語で簡単に済み、
心配していたドイツ国境での所持金やレジスターマルクの検査にも立ち会ってくれたので、
これもわけなく済み、非常に助かった。

夜11時、列車がベルリンに着くまでの間、話し込んだ。

S男爵と満州国建築計画を語らう




11月6日 
今日1日は休養。
しかし午後5時、かねて約束していたS男爵をホテル・ウインザーに訪問する。
氏は昨年兇手に倒れた三井の重役、S氏のご令息であり、
有名な美術研究家で多数の著書もある。
来春5月、パリ市で開かれる万国博覧会の日本建築他の用務のため滞在中なのだ。

氏は自室に我々を快く迎えられ、
来満の際、新京を通過されたが、せっかく新市街が出来ながら、
乱雑な商店の看板が市街美を害していることを惜しんでおられた。
まったく同感である。
しかし建設局もすでに看板に対しては特に留意し、
制限を設け広告塔なども建造してあるはずだ。
さらに氏によると、英国は本国の行き詰まった建築を各植民地において思う存分実行し、
都市計画においても新様式の実現に努力しつつあるという。
満州も日本の後など学ばず世界の先端をいくべきだと熟説され、
モスコーの建築の近代的表現を賞されていた。
私が満州国宮殿計画の困難を話すと同情され、
むしろ庭園に主体を置いてはとのことだった。

6時半に辞し、ぶらぶらとホテル近くまで帰り、あるレストランを覗いた。
中は立派な食堂で、紳士淑女で一杯だ。
ちょっと気が引けたが、ええいままよと彼らに割り込む。
しかし誰一人妙な顔をする者はいない。皆知らん顔をしている。
片言の仏語で定食を頼む。時々ウエイターが来ては
「どうだ、うまいか」などと言い、もう少しどうだと勧める。親切なものだ。
外は大変な雨。ホテルに帰ると京大のS博士の名刺が置いてある。
留守をして失敬したが丁君は会ったそうだ。

明日はいよいよドイツ、ベルリンである。荷物の検査やレジスターのことが気にかかる。
窓の外はさめざめとした雨が降っている。