9月27日
まだ少々気分が悪かったが、強いて起床し食堂に出た。
アラビアに近く、だいぶん暑い。
10時頃からデッキで楽焼の余興がある。2、3枚記念に描いた。
僕の図案がよいと皆に頼まれるままにいい気になって5、6枚も描いてやる。
そろそろソコトラ島が見える頃と思ったが、
事務長の話では南方約50里の沖を航行しているので見えないという。
海の色は濃い藍色になり、暑さは次第と増していき、砂を交えた熱風が吹いてくる。
アデンにはいよいよ今夜10時頃着くそうだ。
大きな地図で見る
2010年4月10日土曜日
アラビア海上にて、体調不良
9月24日
午後4時半 船上のサロンで歩中佐、A氏の満州旅行談があった。
同氏はイタリア駐在武官としてT少佐と共に赴任の途である。
同氏と交代されるN中佐は、かつて関東軍参謀として知己である。
談話は主に満州各地の大戦当時の情勢から現況および、
戦場としての見学順序とその事実とについて、堂々約1時間に渡る雄弁を奮われた。
軍職にありながらすこぶる客観的に話されたのには気持よく了解された。
各国スパイ戦の実情を、開放的な日本と比較して注意に苦心するというのは同情に堪えなかった。
私たちが各々その専門の立場において旅することを希望されていた。心すべきことと思う。
9月26日
朝食後、長男に宛ててインドの風物に関する通信を書くため図書室に行く。
半ばでしきりにくしゃみが出るので、
向かい側のテーブルにいらっしゃる御夫人に気の毒と思い船室に帰った。
船室でもしきりとくしゃみが出るのでベッドに横たわる。
5時半、フロをいつもより熱くして入浴後、ただちに就床。
汗の出ること、寝間着も敷布もみるみるうちに水びたしだ。
寝間着を取り替え、ついに持ち合わせの全部をびしょ濡れにしてしまった。
発熱はさほどではないものの、普通ではない。
明日アデンに着き紅海に入るというのに
こんなことではいけないと持参の薬を飲み、お守りを抱いて眠る。
午後4時半 船上のサロンで歩中佐、A氏の満州旅行談があった。
同氏はイタリア駐在武官としてT少佐と共に赴任の途である。
同氏と交代されるN中佐は、かつて関東軍参謀として知己である。
談話は主に満州各地の大戦当時の情勢から現況および、
戦場としての見学順序とその事実とについて、堂々約1時間に渡る雄弁を奮われた。
軍職にありながらすこぶる客観的に話されたのには気持よく了解された。
各国スパイ戦の実情を、開放的な日本と比較して注意に苦心するというのは同情に堪えなかった。
私たちが各々その専門の立場において旅することを希望されていた。心すべきことと思う。
9月26日
朝食後、長男に宛ててインドの風物に関する通信を書くため図書室に行く。
半ばでしきりにくしゃみが出るので、
向かい側のテーブルにいらっしゃる御夫人に気の毒と思い船室に帰った。
船室でもしきりとくしゃみが出るのでベッドに横たわる。
5時半、フロをいつもより熱くして入浴後、ただちに就床。
汗の出ること、寝間着も敷布もみるみるうちに水びたしだ。
寝間着を取り替え、ついに持ち合わせの全部をびしょ濡れにしてしまった。
発熱はさほどではないものの、普通ではない。
明日アデンに着き紅海に入るというのに
こんなことではいけないと持参の薬を飲み、お守りを抱いて眠る。
2010年4月9日金曜日
インド夜話 “サドゥ”とは
インドの「サドゥ」は有名である。
5寸釘をびっしり打ち付けた板の上で苦行するのだ。
中には1日中、あるいは幾日も逆立ちしている苦行者もいるという。
頭髪は伸びるにまかせ、身体には布1枚を付けただけで寒暑ともにこの姿である。
苦行による解脱に努めているのだが、ちょっと見では狂人か乞食にしか見えない。
このサドゥが所々で摩訶不思議なことをやるというから薄気味悪い。
こんな話がある。
カルカッタの中央にニューマーケットという公設の市場がある。
あるときここへサドゥが現れ、赤レンガ敷きの道路に座り込んだ。
とても混雑するところで、行き交う人には迷惑至極、
巡査が追い払おうとしたがなかなか動かない。
巡査は怒りだして無理矢理に引きずり出そうとしたが、
大地に根を下ろしたように碁石のごとくびくともしない。巡査はめちゃくちゃに殴る。
目をつぶっていたサドゥはやおら目を開いて巡査をじっと見た。
すると不思議にも巡査はふらふらとその場に倒れ、まもなく死んでしまった。
しかもそれから火を発し、サドゥともども焼け死んだそうだ。
その後、死骸を取りのけようとしたがどうしても取れなくて、
レンガで包み込んだのだそうである。
こんな話もある。
スルワリの1人が競馬に夢中になって負け、百万長者がまる裸になってしまった。
茫然自失で競馬場を出ると、そこにサドゥがいた。
彼はサドゥの前にひざまずき一部始終を語って哀れを乞うたが、
サドゥは一言も発しないで歩き始めた。
スルワリはその後を付いて行った。
サドゥは振り向きもせず足を運んでいた。すでに夜遅く、やがて真夜中となった。
それでもサドゥは歩き続けている。ふと立ち止まってガス灯を指差した。
そこにはガス灯の番号が白いペンキで描いてあった。
スルワリは「あっ」と声をあげるや一目散に我が家へ戻り、
出来得る限りの金策をして次の競馬に出掛けて行き、
ガス灯と同じ番号の馬に全財産を賭けた。
すると不思議にもその馬は勝ち、彼は1日にして財産を取り戻した。
狂喜して家に帰ると件のサドゥが門前にいて、スルワリは地に額を付けて礼を言う。
するとサドゥはおもむろに口を開き
「今後競馬をやるな」と告げて姿を消した。
サドゥに生命を救われ、病を治してもらう者もよくいるようだ。
また、気合術で色々なことをしたり、奇術などもやっている。
たとえばマンゴーの実を乾いた大地に置き水を注ぐと、
皆の見ている前で若木になったとか。
この手の話はなかなか止みそうもない。
ただし最早12時を過ぎた。ボーイにジュースを持参させ、
それを飲みながらまた、ここでは書けないような色々な話も聞いた。
実に愉快であった。
2010年4月8日木曜日
インドの動物たち
「牛になるならインドの牛に」とでも言いたいくらい、ここでは牛が幸福なものである。
何も彼も牛だ。ジバーの神の妻、パルパチの化身だとか。
運搬にも、耕作にも、臼廻しにも、乳を採るにもすべて牛である。
大都会の牛は悠々と歩行している。
自動車が来ようが何が来ようが一向に頓着せず、至極落ち着いたものだ。
遠慮なくバタリバタリと糞をする。それを下層階級の女たちが我先にと集めている。
彼らの大切な燃料なのだ。これも満州に極似なところの1つである。
道端の河で牛を大切に洗っているのもしばしば見かける。
インドで目につくものといえば、この牛の大道闊歩と空に飛ぶ鳩の群だろう。
日本の鳥とよく似ているが、頭と胴が少し灰色になっている。
これが実に暢気で家の軒先や樹上で鳴いているが、
ちょっと油断するとテーブルの上の食物を何でもついばんでいく。
頭にものを載せて行く女がいると、それを目の前でさらっていく。滑稽で実に暢気な光景である。
この鳥が、真夏の暑さのもと、大樹の根元で昼寝をしている牛の目やにをついばんでいる。
牛は心地良さそうに取ってもらっている。
それから大きな木に実がなったようにぶら下がっている無数の黒いものがある。
よく見ると何だか動いている。
1尺ばかりのコウモリが逆さになって眠っているのである。
どの木にもいるわけではないところを見ると、止まる木の種類は限られているらしい。
インド“生活”事情
インド人はよく洗濯をする。朝鮮や満州と同様、丸太で叩いて洗う。
外国人や日本人は、ズボンだけは1日2回くらい変えるという。
朝ゴルフに行き、帰りにテニスをやれば衣服もくたくたにもなる。
日本人では普通、洗濯費が1ヶ月で25、6円ほどかかるそうである。
そこへいくとインドは1年のうち約3ヶ月は合い服で、他の季節はすべて夏服である。
インド人の洗濯屋を「ドホビー」といい、下賤の階級で金を払うにも投げてやるそうだ。
階級制度は実に極端なものだ。
大抵の洗濯屋はロバを連れていて、大きな包みをその背に乗せて、
主人の後をちょこちょこと従って行く姿は可憐で、満州あたりで見るのによく似ている。
インドの散髪は大道稼業「ナービー」または「ハーゲヤマ」といい、
1日中そこらの家々を回って歩く。
大抵月定めで、前にも書いたように朝まだ寝ているうちに来て剃っていく。
最近、大都市では日本人の理髪屋もできたそうだが、まだまだ盛んに道端でやっている。
インド人の多くは頭髪の他に股下も剃れば、ほかにあるごときところのものも剃る習慣だそうだ。
女も同様である。これは理髪屋の余得であろう。
インド人の家庭には湯殿がない。
無論ホテルや洋風の住宅には必ずあるが、一般にはない。面白いことに汽車にはある。
第一、インド人は湯に入るということをしない。
河や沼、あるいは井戸端で水を浴びる。これは宗教から来ているものらしい。
トボテーやサリーを着たままで河の中へ入っていく。
見たところ河は濁っているが平気なようだ。
そして濡れたまま岸へ上がって乾かし、あるいは着替える。
女が濡れたままのサリーで川岸に立つときは、その脚線美があまりによく見える。
恐らくは幾多の物語が生まれていることだろう。甚だ魅惑的なものである。
またインド人の家庭には便所がなく、すべて便器である。
朝早く邸外などで壷を手に急いで行く姿を見受けるが、これは皆、用足しに行くのだ。
そして持参した壷の水で手と共に洗うのだ。
とにかくこの壷は彼らが1日も離し難い物の1つで、
これを頭に載せたり横抱えにしたりしている。
インド人の女の姿はインド情緒を代表する一幅の絵のようである。
しかし道でも家の中でもインド人は、口を真っ赤にし甚だ気味が悪い。
これは「パレ」という木の葉に石灰と○○阿仙薬ともいうものを包み、
これが唾液に混じると赤色の液が出るのだ。
非常に衛生的でよろしいと彼らは言うが、どうも見ていられない気味の悪いものである。
これを無遠慮に道でもどこでもペッペッと吐き出すのは実に不潔である。
2010年4月7日水曜日
インド“食”事情
インド人の常食はカレーライスだが、日本のそれとは相当異なっている。
まず飯の炊き方が違う。釜は真鍮製のつぼ型をしている。
インドでは世帯道具はおおむね真鍮製を喜ぶようだ。
飯を炊くには釜に米を入れ、水をたっぷり注ぐ。
ぐつぐつと吹き出してきてもしばらくそのままにしておく。
すっかり飯になった頃、余分な水は捨てる。だから飯はパサパサしている。
もっともインドの米はそれ自体がパサパサだ。それだけにインドの飯は消化が良い。
だから日本の米を食ったらすぐに胃腸を害するらしい。
その飯を大きな真鍮の盆に盛って汁ばかりのカレーをかける。
野菜や魚肉、子羊などは別々に出す。
それを右手で肴ごと口へ持っていく。
1口分だけつまんだその親指で口中へはじき込む。
別に水つぼがある。
これを1日中彼らは傍から離さない。
食事のときはまず、右手をきれいに洗い終えるとまたその手を洗う。
時にはパン粉を練って直径5寸くらいの煎餅を作り、
それをヤギの乳からとったバターで揚げて、その中に肴を包んで食べる。
ちょうど満州のカオヤーズのようなものである。
インド事情(2)
インド人の大部分が男はドポテー、女はサリーをまとう。
衣服は世界中で国によって異なるものだが、
インド人の衣服くらい簡単な物はない。
早い話が1枚の布をぐるぐると体に巻き付けるだけで、どんな場所へもそれで出る。
しかしインド教徒の上流階級では、チッターと称する肩掛けを用い、
最近はドポテーの上に洋服の上着やメリヤスのシャツを着る者が増え、
頭には例の紅白の布を巻き付けている。
ほかに赤いトルコ帽や、金糸、色とりどりの縫いとりのあるものを用いている。
それはターバンといい、回教徒の金持ちであるそうだ。
婦人のサリーのうちでいちばん美しいのはパーシー婦人だろう。優雅なものである。
貴婦人のは金刺繍、銀刺繍糸、女は金銀の環を付け、
はなはだしいのはダイヤや真珠を飾ったのもある。
夜会などでこんなのを見ると、南国千夜一夜物語を思い出す。
靴も最近の上流階級では立派なものを用いているが、多くはキャンバス製である。
中には木靴を履いている者もいる。
日本の庭下駄や便所のそれ様に草紐が1本付いているだけだ。
しかしなんといっても多くが裸足で歩いている。
焼けきった道路をよくも歩けるものだと思う。
インド情景
2010年4月6日火曜日
インド事情
9月23日
夜、コロンボで乗船されロンドンに●勤される正金の某氏からインド事情を聞く。
インドの人口はヒンズー族が約7千万、マホメダレが約2億人、
学校は官私ともに大学まであるが皆いい加減なもので、英国の政策らしい。
黒人の生活は惨めなもので、土を固めヤシの葉で屋根を葺いただけのものにすぎず、
私たちがセイロンで見たようなものは本土にはなく、
衣服にしても丸裸でただフンドシをしているだけ。無論裸足である。
病院などもろくなものはなく、流行病などの時はほとんど見殺しだそうだ。
しかしインド人は、別にこれで英国を恨んだりはしていないそうだ。
英国の政策の徹底ぶり、その巧妙さがしのばれるものではないか。
インド人は自分に都合のよい状況であれば満足しているらしく、
しかしその多くは西方の者で、東部すなわちカルカッタ地方の者は少々難者がいて、
反英感情が相当強く、時々官憲に手向かう者もいるそうだ。
気候は平均(華氏)80度から90度くらいで特に西方は暑くはなく、
旅行者も暑さの心配はいらないらしい。
在留外国人の生活は実に贅沢である。
大抵の家庭で使用人を十人くらい使っている。
眠っている間に髭を剃られ、ネクタイを結んでくれ、靴まで履かせてくれるとか(!)
食事から掃除、洗濯のすべてが黒人の仕事である。
事務所では鉛筆が折れてもすぐに黒人が飛んで来る。
物が下に落ちてもすぐに拾ってくれる。
自分ですることはないそうで、妻君の仕事もないのだが、
遊ぶことが相当に控えているので決して退屈はしないとか、まるで王様の生活である。
外出するのももちろん、旅行するにも必ず従者を連れて行かねばならない。
だが、若い夫婦者がこうした生活に慣れると、日本に帰ってからが困るのだそうだ。
インド洋上にて
9月22日
デッキ10周の朝の運動を終え、船室で読書や日記、スケッチなどして過ごす。
夜には活動写真があった。
船の左側には煌々と月が出る。
波に反映してその美しさはかぎりなく、あぁインド洋の月…。
船の右側にはサンゴーシニックの燈豪を見た。
持参したスペアももう飲んでしまった。
1箱は大陸用にと大切にしまっていたのだが、とうとう我慢できずに飲んでしまう。
船ではネビーキャット50本入りが1円80銭である。
U氏からいただいたキリアジに手を掛ける。喫煙者は不経済にできているものだ。
今日はうねりがあるので昼食に出なかった。
すると、ウェーターやコック長が飛んで来る。
マルセイユまでまだあと18日もある。
早いような長いような毎日。
『船客がいよいよホームシックを起こす頃だ』と船長が言う。
丁君と顔を見合わせて苦笑する。
語学のことや金のこと土産のことと、帰る時のことばかりを毎日話す。
実はこれからが大変だというのに。
アデンまで8日間の、実に航海第1日のことである。
南洋の地で、日本人の資質をみる
船室に帰って瞑想に浸る。
日本の過去の文化が、大陸もしくは南洋を母体としたことは争えない事実である。
然るに果たしてこの「母体」は、今いかなる姿であるか。
またその母体から生まれた我が日本は、今いかなる状態にあるかを知らねばならない。
日本は、文学、美術、はたまた宗教をこの母体から摂取した。
それらを今日かように優れたものにしたのは、日本人の持つ特性でなくてなんだろうか。
唐の着物はそのまま我が平安朝の着物である。
いかに美化し、純化し、永久化したかを見るべきだ。
仏教を生んだインドに仏教は滅びている。
儒教を以て立った支那に今日儒教はない。
私に教典を教え、仏像を教え、工芸を教えた朝鮮もとうの昔にそれらを失している。
それなのに我が日本はその仏教を、一切の工芸を、今日に生かしつつある。
それは最早単なる松明送りではない。
目にも新たな生命の噴水となって送り出しているのだ。
私は今、東洋をあとに西洋に入るインド洋のまっただ中である。その感想は切実だ。
我が民族に真に誇るべきものがあるとするならそれは
独創ではなく常に若い吸収力だ。
そしてものを永久化する力、
摂取と選択と維持と強化である。
その特性こそが我らに与えられた資質といえるだろう。
2010年4月5日月曜日
セイロン島を後にする
1時半、帰途に着く。
4時間のドライブで疲れたらしく何度かうとうとする。
途中2、3度スコールに見舞われた。
コロンボに戻ったのは午後5時。
かねて聞いていた宝石商に立ち寄った。
手頃なものがあったら買ってもいいと思ったが、これは伏見宮様が求められたものとか、
これは何々の宮様の買われたものであるなどと驚かされ、買うのをやめた。
6時出帆なので急いで帰船。定刻近いがA氏一行が帰着しない。
みんなでデッキに上がりあれこれと待つ。
5分過ぎてやっと帰ってくる。やれやれと言い合い船は即時出帆。
ボンベイ行きの御木本のS君、正金の二氏らと別れた。
小船と本船とでテープで別れを惜しむ。
黒人の物売りが色々な土産品を並べ、奇声をあげて呼びかける。
外国人などは面白半分に船上でそれを買う。
下の船から本船めがけて長い綱を投げ掛け、その端に袋を結び付け、
それに品物を入れてスルスルと吊るし上げる。
お客はその袋に金を入れてやる。
船はぼつぼつ動いていても平気でこれを繰り返す。
ちょっとしたスコールが通りすぎる。
夕日が照り輝き、雨上がりの西の空に大きな虹を見ながら港外に出る。
有名な防波堤の巨波も今日は穏やかだ。
灯台の火が遠く深く、胸に食い込む。
4時間のドライブで疲れたらしく何度かうとうとする。
途中2、3度スコールに見舞われた。
コロンボに戻ったのは午後5時。
かねて聞いていた宝石商に立ち寄った。
手頃なものがあったら買ってもいいと思ったが、これは伏見宮様が求められたものとか、
これは何々の宮様の買われたものであるなどと驚かされ、買うのをやめた。
6時出帆なので急いで帰船。定刻近いがA氏一行が帰着しない。
みんなでデッキに上がりあれこれと待つ。
5分過ぎてやっと帰ってくる。やれやれと言い合い船は即時出帆。
ボンベイ行きの御木本のS君、正金の二氏らと別れた。
小船と本船とでテープで別れを惜しむ。
黒人の物売りが色々な土産品を並べ、奇声をあげて呼びかける。
外国人などは面白半分に船上でそれを買う。
下の船から本船めがけて長い綱を投げ掛け、その端に袋を結び付け、
それに品物を入れてスルスルと吊るし上げる。
お客はその袋に金を入れてやる。
船はぼつぼつ動いていても平気でこれを繰り返す。
ちょっとしたスコールが通りすぎる。
夕日が照り輝き、雨上がりの西の空に大きな虹を見ながら港外に出る。
有名な防波堤の巨波も今日は穏やかだ。
灯台の火が遠く深く、胸に食い込む。
セイロン島には釈迦の歯が
カンディに着いたのは12時、
植物園を一巡して釈迦の遺跡の寺
(仏歯寺 Temple of the Sacred Tooth Relic of Loard Buddha)へ行く。
そこにある釈迦の歯は実物で、1年に1度しか見せないという。
この建物のみが純然たるインド建築として光っている。
その奥に何の必要があるのか、4〜5階建ての鉄筋コンクリート造の大家屋を建築中である。
釈迦の寝像を安置した所もあったが俗悪そのものである。
ただ外部の周壁は古色蒼然とし、その手法も簡単ではあるが面白く見えた。
寺の中に自然水の手洗いがある。
中央に仏像を配し、そこから水を出している。
暗い部屋の中、天窓から射す強烈な光線で、黒人の番人がまとう着衣との対照が実に面白い。
●のように見えレンズを向ける。
どこにもあるように、ここでも乞食と物売りにつきまとわれてうるさい。
菩提樹も見た。その実で作った珠敷を求めた。老人への土産によいだろう。
寺院の右手には大きな湖水がある。
その周囲の樹間に、外国人の綺麗な別荘が無数に建っている。
たくさんの黒人が湖水の岸辺近く、樹の下に寝転んでいる。
昼食は湖畔のコーレイ・ホテル(おそらくQueens Hotel)で取った。
洋風のちょっとしたホテルである。ここからの湖水の眺めはまた格別である。
ウェーターはみな黒人、白い着衣で頭上に赤い布を巻き裸足である。
2、3品の定食を食べたが、味が少し変なのでやめた。
絵はがきや写真帳を買ったが、金の勘定がややこしいのにはまったく閉口した。
随分ごまかされたような気がする。嫌なものだ。
このホテルの床が、一見するとただのモザイクのようであるが、
よく見るとすべてが陶器の破片を張り詰めたものでちょっと面白い。
植物園を一巡して釈迦の遺跡の寺
(仏歯寺 Temple of the Sacred Tooth Relic of Loard Buddha)へ行く。
そこにある釈迦の歯は実物で、1年に1度しか見せないという。
この建物のみが純然たるインド建築として光っている。
その奥に何の必要があるのか、4〜5階建ての鉄筋コンクリート造の大家屋を建築中である。
釈迦の寝像を安置した所もあったが俗悪そのものである。
ただ外部の周壁は古色蒼然とし、その手法も簡単ではあるが面白く見えた。
寺の中に自然水の手洗いがある。
中央に仏像を配し、そこから水を出している。
暗い部屋の中、天窓から射す強烈な光線で、黒人の番人がまとう着衣との対照が実に面白い。
●のように見えレンズを向ける。
どこにもあるように、ここでも乞食と物売りにつきまとわれてうるさい。
菩提樹も見た。その実で作った珠敷を求めた。老人への土産によいだろう。
寺院の右手には大きな湖水がある。
その周囲の樹間に、外国人の綺麗な別荘が無数に建っている。
たくさんの黒人が湖水の岸辺近く、樹の下に寝転んでいる。
昼食は湖畔のコーレイ・ホテル(おそらくQueens Hotel)で取った。
洋風のちょっとしたホテルである。ここからの湖水の眺めはまた格別である。
ウェーターはみな黒人、白い着衣で頭上に赤い布を巻き裸足である。
2、3品の定食を食べたが、味が少し変なのでやめた。
絵はがきや写真帳を買ったが、金の勘定がややこしいのにはまったく閉口した。
随分ごまかされたような気がする。嫌なものだ。
このホテルの床が、一見するとただのモザイクのようであるが、
よく見るとすべてが陶器の破片を張り詰めたものでちょっと面白い。
コロンボ(セイロン島)の家々、人々
カンディへの沿道は人家が多く、軽快な赤屋根のバンガロー、
黄色の壁、ヤシの葉の屋根、これらはみな黒人の中流層のものである。
農家は茅ぶきで朝鮮そっくりだ。
中には入母屋(いりもや)造りの日本葺きのものもある。
田舎の町家も正面は大抵木造で日本に極似し、
ランカンや格子造りで京都や中国の町家にそっくりである。
シンガポール、ペナンに次いでこの地で粗造りの原始的な家屋を見て、
日本の寝殿造りの根源を発見したように思う。
我らの祖先はここにあるのではないか。
徳川300年の鎖国がなかったなら、遠い昔、
ここまでが日本だったのではないだろうかと切実に考えさせられる。これらの建物や、
頭上に物を載せ、原色の着衣で樹間を悠々と行く黒人の姿は見る者の目を楽しませてくれる。
10歳くらいの子供の愛らしいこと、よく整った顔、丸々と黒く澄んだ平和なまなざし。
しかし中年以上の者は険しい顔つきである。
黒い顔に落ちくぼんでギラギラとした眼、白い頭髪、安達ヶ原鬼婆はかくやと思わせる。
男女共に原色の着衣、しかしみな裸足である。
彼らは四六時中くちに木の実を噛み、口中を真っ赤にしているのは気持ちが悪い。
途中、小学校や女学校もあった。
生徒は大部分が黒人服だが、中には洋装の者もいる。
みな英文の書物を抱えている。
概して黒人の生活も想像したほど惨めなものではないようだ。
たしかに満州地方よりは文化の程度も優れ、生活も上級である。
さまざまな理由はあるだろうが、天然物が豊富なので生活が容易なことも大きな理由だろう。
沿道の所々には水浴場がある。男女共に着衣のまま頭から水を浴びている。
しばしば川の流れで水浴しているのも見かける。
市街でも郊外でも山の中でも、1頭の馬も見ない。ほとんどが牛である。たまに水牛もいた。
熱帯植物の間に悠々とした大象を2、3度見た。途中リプトン茶の工場も見た。
個人所有の動物園で巨象に色々な芸をやらせるところがあり、
中でも黒人の打つ鼓の音に合わせてダンスをやるのは滑稽である。
例のコブラという毒蛇もいた。この蛇は頭が大きいのだと思っていたが、
鎌首を上げる時その喉を広げるのだった。
他にも白猿、大トカゲ、ハリネズミをみた。
黄色の壁、ヤシの葉の屋根、これらはみな黒人の中流層のものである。
農家は茅ぶきで朝鮮そっくりだ。
中には入母屋(いりもや)造りの日本葺きのものもある。
田舎の町家も正面は大抵木造で日本に極似し、
ランカンや格子造りで京都や中国の町家にそっくりである。
シンガポール、ペナンに次いでこの地で粗造りの原始的な家屋を見て、
日本の寝殿造りの根源を発見したように思う。
我らの祖先はここにあるのではないか。
徳川300年の鎖国がなかったなら、遠い昔、
ここまでが日本だったのではないだろうかと切実に考えさせられる。これらの建物や、
頭上に物を載せ、原色の着衣で樹間を悠々と行く黒人の姿は見る者の目を楽しませてくれる。
10歳くらいの子供の愛らしいこと、よく整った顔、丸々と黒く澄んだ平和なまなざし。
しかし中年以上の者は険しい顔つきである。
黒い顔に落ちくぼんでギラギラとした眼、白い頭髪、安達ヶ原鬼婆はかくやと思わせる。
男女共に原色の着衣、しかしみな裸足である。
彼らは四六時中くちに木の実を噛み、口中を真っ赤にしているのは気持ちが悪い。
途中、小学校や女学校もあった。
生徒は大部分が黒人服だが、中には洋装の者もいる。
みな英文の書物を抱えている。
概して黒人の生活も想像したほど惨めなものではないようだ。
たしかに満州地方よりは文化の程度も優れ、生活も上級である。
さまざまな理由はあるだろうが、天然物が豊富なので生活が容易なことも大きな理由だろう。
沿道の所々には水浴場がある。男女共に着衣のまま頭から水を浴びている。
しばしば川の流れで水浴しているのも見かける。
市街でも郊外でも山の中でも、1頭の馬も見ない。ほとんどが牛である。たまに水牛もいた。
熱帯植物の間に悠々とした大象を2、3度見た。途中リプトン茶の工場も見た。
個人所有の動物園で巨象に色々な芸をやらせるところがあり、
中でも黒人の打つ鼓の音に合わせてダンスをやるのは滑稽である。
例のコブラという毒蛇もいた。この蛇は頭が大きいのだと思っていたが、
鎌首を上げる時その喉を広げるのだった。
他にも白猿、大トカゲ、ハリネズミをみた。
2010年4月4日日曜日
コロンボ(セイロン島)上陸
9月21日 午前6時に目覚める。部屋の外はまだ暗い。
起き上がって窓から眺めると、船はすでにコロンボ港の外へ着いている。
市街に無数の燈火を望み、赤、青の明滅する灯台の光を目前に、
遠くサーチライトの光りが縦横に飛ぶ。
7時、朝食のため急いで起床。
今日はカンディ(キャンディ)見物である。
一行は1等船客内の外国人約20名でランチにより上陸する。
4台の自動車で出発。晴天で南国の朝らしい明朗さだ。
しかも暑くはなく、お釈迦様に敬意を表して制服で行く。
コロンボはペナンを距る130里、面積2万5千平米の「セイロン島」と称する島である。
(現スリランカの首都)
人口約25万とか。カンディは釈迦の遺跡で、
インド旅行を中止した私にとってこの行程は、往復約8時間、約150マイルをドライブし
釈迦の遺跡はもとよりインド建築を見て、特有の風物に接する計画である。
黒人の操縦する自動車は平均35里の速力で立派な舗装路を快走する。
埠頭事務所を出てヨーク・ストリートに出る。
市街は真面目なルネサンス風で、両側に4、5階建ての商店や料理店、旅館などが並び、
人道は建物内にある。立派なもので床はタイル貼り、壁は大理石もしくはタイル、
ショーウインドウは天井が高くて美しく、実に気持ちがいい。贅沢な人道である。
街路の交通規制は主として自動車で路面電車もある。
この路面電車が側壁のない開け放しで、見るからに涼しそうだ。
人力車もちょいちょい見かけた。無論、上海式のものだ。
この文化の街路を「ブロックカー」と称する古風な牛車がさかんに通る。
ヤシの葉でできた円形の幌をかけた大八車である。
木部に朱塗りの原色模様を入れた洒落たのもあり、2頭の白牛が引く。
頭に赤い布を巻き、さまざまな色のスカート状のものをまとった
白髭で黒い肌のインド人が操縦する様はこの地ならでは。
周囲の洋風大建築と対照して実に面白い。
コントラストが何ともいえない自然の調和をなして、少しも不自然さがない。
カンディへの沿道はシンガポールやペナンのごとく淡々とした舗装道路。
起伏、高低がありほとんど直線がない。
両側は熱帯植物の連続。ここでも所々で稲田を見た。
すでに刈り込み真っ最中のところがある一方で、他所では田植えを始めており、
日本では到底想像できないことだ。田植えの様子も日本と少しも変わりはない。
名前も知らない巨大な樹木、美しく見事に色づいた鬱蒼とした樹木、
花樹の間を美しい小鳥が飛び交い、
はては木々のあいだを猿のむれが奇声をあげて転々とする。
大きな地図で見る
起き上がって窓から眺めると、船はすでにコロンボ港の外へ着いている。
市街に無数の燈火を望み、赤、青の明滅する灯台の光を目前に、
遠くサーチライトの光りが縦横に飛ぶ。
7時、朝食のため急いで起床。
今日はカンディ(キャンディ)見物である。
一行は1等船客内の外国人約20名でランチにより上陸する。
4台の自動車で出発。晴天で南国の朝らしい明朗さだ。
しかも暑くはなく、お釈迦様に敬意を表して制服で行く。
コロンボはペナンを距る130里、面積2万5千平米の「セイロン島」と称する島である。
(現スリランカの首都)
人口約25万とか。カンディは釈迦の遺跡で、
インド旅行を中止した私にとってこの行程は、往復約8時間、約150マイルをドライブし
釈迦の遺跡はもとよりインド建築を見て、特有の風物に接する計画である。
黒人の操縦する自動車は平均35里の速力で立派な舗装路を快走する。
埠頭事務所を出てヨーク・ストリートに出る。
市街は真面目なルネサンス風で、両側に4、5階建ての商店や料理店、旅館などが並び、
人道は建物内にある。立派なもので床はタイル貼り、壁は大理石もしくはタイル、
ショーウインドウは天井が高くて美しく、実に気持ちがいい。贅沢な人道である。
街路の交通規制は主として自動車で路面電車もある。
この路面電車が側壁のない開け放しで、見るからに涼しそうだ。
人力車もちょいちょい見かけた。無論、上海式のものだ。
この文化の街路を「ブロックカー」と称する古風な牛車がさかんに通る。
ヤシの葉でできた円形の幌をかけた大八車である。
木部に朱塗りの原色模様を入れた洒落たのもあり、2頭の白牛が引く。
頭に赤い布を巻き、さまざまな色のスカート状のものをまとった
白髭で黒い肌のインド人が操縦する様はこの地ならでは。
周囲の洋風大建築と対照して実に面白い。
コントラストが何ともいえない自然の調和をなして、少しも不自然さがない。
カンディへの沿道はシンガポールやペナンのごとく淡々とした舗装道路。
起伏、高低がありほとんど直線がない。
両側は熱帯植物の連続。ここでも所々で稲田を見た。
すでに刈り込み真っ最中のところがある一方で、他所では田植えを始めており、
日本では到底想像できないことだ。田植えの様子も日本と少しも変わりはない。
名前も知らない巨大な樹木、美しく見事に色づいた鬱蒼とした樹木、
花樹の間を美しい小鳥が飛び交い、
はては木々のあいだを猿のむれが奇声をあげて転々とする。
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2010年4月3日土曜日
ペナン発コロンボ行き、船上生活
午後6時 インド、カルカッタ行きの船が出る。
午後7時、薄暮に染まる雲のあいだを出帆。
交換屋や土産物売り、案内人その他、マレー人やインド人の群が
極彩色の小舟にきちんと乗って帰ってゆく。
真っ黒な体にまとった原色の着衣、海の色に映え1枚の絵のようだ。
烈日のもとに色彩濃厚、熱帯植物を背景にしてなんともよい調和。男性的で実に痛快だ。
夜、コロンボ(セイロン島)に赴任されているH領事と談笑する。
外交官としてのさまざまな苦心談を聞いた。
平和の折衝と直接行動との比較など、実に同情する。
氏とは満州在住の共通の知人が多くいたので色々と話す。
9月18日 午前7時に目覚める。
昨夜半、時計を遅らす。左にスマトラを遠望し、右にマレー諸島を眺め航海する。
ベンガル湾の波はやや荒いものの暑くはない。
午後4時、食堂でHコロンボ領事によるエジプトに関する講演があった。
夜はデッキで活動写真があったが観ずに、床の上で旅行記を読みふけった。
9月19日 波が高く、船はかなり揺れる。
朝の運動を終え、髪が伸びたので理髪屋に行くとチックを付けて綺麗に分けてくれる。
ハイカラになった。この日は終日船室で読書する。
夕食はAデッキですきやき会がある。外国人の男は郵船のハッピを着て、
婦人は船客の日本婦人から借りた長帯という装いで、
食後には東京音頭やダンスなどもあった。
私はこの賑やかさをよそにデッキチェアでH領事、京大のS博士などと建築論を交わす。
およそ日本に節度と個性のないことを嘆く。
9月20日 この日も終日船室で読書をする。
あまりの退屈さに1枚のスケッチをした。
明日コロンボ到着のはずなので諸方へ絵はがきを書いた。
午後7時、薄暮に染まる雲のあいだを出帆。
交換屋や土産物売り、案内人その他、マレー人やインド人の群が
極彩色の小舟にきちんと乗って帰ってゆく。
真っ黒な体にまとった原色の着衣、海の色に映え1枚の絵のようだ。
烈日のもとに色彩濃厚、熱帯植物を背景にしてなんともよい調和。男性的で実に痛快だ。
夜、コロンボ(セイロン島)に赴任されているH領事と談笑する。
外交官としてのさまざまな苦心談を聞いた。
平和の折衝と直接行動との比較など、実に同情する。
氏とは満州在住の共通の知人が多くいたので色々と話す。
9月18日 午前7時に目覚める。
昨夜半、時計を遅らす。左にスマトラを遠望し、右にマレー諸島を眺め航海する。
ベンガル湾の波はやや荒いものの暑くはない。
午後4時、食堂でHコロンボ領事によるエジプトに関する講演があった。
夜はデッキで活動写真があったが観ずに、床の上で旅行記を読みふけった。
9月19日 波が高く、船はかなり揺れる。
朝の運動を終え、髪が伸びたので理髪屋に行くとチックを付けて綺麗に分けてくれる。
ハイカラになった。この日は終日船室で読書する。
夕食はAデッキですきやき会がある。外国人の男は郵船のハッピを着て、
婦人は船客の日本婦人から借りた長帯という装いで、
食後には東京音頭やダンスなどもあった。
私はこの賑やかさをよそにデッキチェアでH領事、京大のS博士などと建築論を交わす。
およそ日本に節度と個性のないことを嘆く。
9月20日 この日も終日船室で読書をする。
あまりの退屈さに1枚のスケッチをした。
明日コロンボ到着のはずなので諸方へ絵はがきを書いた。
ペナン
9月17日 午後2時。船はペナン港に入る。
右にペナンを眺めれば、延々数メートルにおよぶ白砂、ヤシ林の海岸。
ペナンはマラッカ海峡の北端、北緯5度21分、
シンガポールより390メートル、面積170平方メートル。
蛇寺、極楽寺を見物する。市街は大したことはない。ただ見事なヤシの樹や、
熱帯植物を配した英国人の住宅は気持がよく、住んでみたいように思う。
ここでも道路は至るところで舗装されている。
沿道のヤシ林、マンゴーの林をドライブする。
これらの林の間には稲田がある。二度目の苗を終えたばかりのようだ。
黒人の農家、耕作の有様は日本の景色そのものだ。
蛇寺には青いヘビが天井にも花立てにもとぐろを巻いている。
次に極楽寺を詣でる。建物は何ら○ちない。
ただその形を利用して建物を配しているのは面白い。
乃木東郷元帥の額がある。その周囲にはどういう意味なのか、
支那要人の肖像が圧倒的な数で架けられている。嫌な気がする。
石の上に「困難を忘れる勿れ」という最近の彫刻がある。満州事変の悲憤だそうだ。
ここにも支那人の富豪の立派な住宅がたくさんある。彼らの墓地もあった。
海外に墳墓の地を求める彼らの発展性には感心する。
植物園を観る。シンガポールを見た後で、あまり比較にはならないが
瀑布や岩にせかるるせせらぎは実によい。熱帯植物の色は幾分濃厚な気がする。
道端の一株でも満州あたりでは珍木さが喜ばれるだろうが。
Aさんたちに来遊されたらいかがですかと丁君と話す。
シンガポールを観る
ラッフルズ博物館を観た。
マレー人種に関する幾多の珍籍、動植物、古武具、織物、その他、世界的な珍品を集めている。
博物館前のオーチャード・ロードを行くこと約10メートルに植物園がある。
珍木な奇草が色とりどりの花をつけ、ふくふくたる香りを放って人を魅了する。
とくに蘭花はその道の玄人をして垂涎の三千丈、
一攫千金にも代えがたい龍舌蘭や大玉蘭などがある。
そしてなにしろ果実の市場である。
マンゴー、バナナ、パイナップル、ココナツ、パパイヤ、ドリアンなど、
まるでエデンの園に迷い入ったアダムのようだ。
ただし期待していた日本食の味は油気がなく、バラバラで食えたものではない。
一帯の影色、とくに郊外などは九州によく似ている。
茅葺きの家、入母屋、造り笹の垣、歯柴の茂りもそのままだ。
ただヤシの樹は生き生きと天に摩し気持がよい。
ジョホール王国の門で衛兵の検査を受け、王宮広壮な回教寺院を見る。
一帯は閑静な別荘地に過ぎず、建物も粗造なものに化粧を施したに過ぎない。
すべてが英国化され、どちらを主人とするのか私たちは判別に苦しむ。
市内繁華街にはインド人の寺院があった。
古代より現代に至る大小無数の人像を
塔屋および主要建物の前面に取り付け、しかも極彩色。
極端な結果、返って渋みがあり面白い。
9月16日 正午。
船は折からの豪雨をついて出帆、これよりいよいよマラッカ海峡に入る。
大小の島々が点在し、両岸の緑樹が水煙のあいだに隠れ見える様子は
まるで瀬戸内海のようだ。
右にスマトラ島の山々を望む。
マレー人種に関する幾多の珍籍、動植物、古武具、織物、その他、世界的な珍品を集めている。
博物館前のオーチャード・ロードを行くこと約10メートルに植物園がある。
珍木な奇草が色とりどりの花をつけ、ふくふくたる香りを放って人を魅了する。
とくに蘭花はその道の玄人をして垂涎の三千丈、
一攫千金にも代えがたい龍舌蘭や大玉蘭などがある。
そしてなにしろ果実の市場である。
マンゴー、バナナ、パイナップル、ココナツ、パパイヤ、ドリアンなど、
まるでエデンの園に迷い入ったアダムのようだ。
ただし期待していた日本食の味は油気がなく、バラバラで食えたものではない。
一帯の影色、とくに郊外などは九州によく似ている。
茅葺きの家、入母屋、造り笹の垣、歯柴の茂りもそのままだ。
ただヤシの樹は生き生きと天に摩し気持がよい。
ジョホール王国の門で衛兵の検査を受け、王宮広壮な回教寺院を見る。
一帯は閑静な別荘地に過ぎず、建物も粗造なものに化粧を施したに過ぎない。
すべてが英国化され、どちらを主人とするのか私たちは判別に苦しむ。
市内繁華街にはインド人の寺院があった。
古代より現代に至る大小無数の人像を
塔屋および主要建物の前面に取り付け、しかも極彩色。
極端な結果、返って渋みがあり面白い。
9月16日 正午。
船は折からの豪雨をついて出帆、これよりいよいよマラッカ海峡に入る。
大小の島々が点在し、両岸の緑樹が水煙のあいだに隠れ見える様子は
まるで瀬戸内海のようだ。
右にスマトラ島の山々を望む。
シンガポール
9月15日 午前中、右側遥か先に島影が見えはじめる。
午後4時、ようやくシンガポールに入港。
郵船、三菱および味の素の諸氏により出迎えられ、
味の素駐在員のC氏に案内を乞うこととする。
自動車で市内を一巡した後、ジョホール王国を訪ね、植物園を見て、
ドライブウェイの山上の茶店で紅茶をすすり、夕方コトンのセントラル・ホテルに投じる。
シンガポールは香港より1440里、北緯1度17分。
ほとんど赤道直下である。だが陸上は想像ほど暑くはなく、
ここにも例の独木舟を漕ぎ、船客に銭投げを求め潜水してたちまち拾うマレー人の群、
煙草を逆に口中にくわえて潜る者もいる。
ジョホールは人口約30万、香川県くらいの面積があるそうだ。
舗装道路を時速約50メートルの速力で走るマレー人の運転手はなかなか操縦が上手い。
シンガポールはマレー半島最南端の、広さ226平方メートルくらいの小島。
英国は海峡植民地政府を置き、最近大規模な要塞築造で問題を起こしたほど、
英国にとっては重要な場所である。
なにしろ東洋、西洋、南洋の分かれ目のため政治上、経済上、意味深長な地位を占めており、
人種も極めて複雑で、支那人、マレー人、インド人、ビルマ人、アラビア人その他雑然としたもので、
中でも支那人が最多数を占め、全人口の約7割に相当する。
在留の日本人は約4千人と聞く。
多くはゴム栽培に従事している。赤道直下の都市ではあるが、
特有の豪雨のため暑さは割合に緩和される。
香港、上海と同様に英国の東洋経略の根源地、文明都市の体裁を有しており道路は整頓し、
郊外に向かい、開拓者ラッフルの銅像がある海岸通りあたりは
英国風の大建築が軒を並べ美観なものだ。
山の手の住宅地域はヤシ、菩提樹その他鬱蒼とした熱帯植物が繁り、
森林の中には床を高く軒を出した色とりどりのバンガローがあり、見るからに涼しそうだ。
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