2010年12月12日日曜日

モンテカルロ、カジノ体験




カジノの玄関には金モールの番兵が立ち、法廷のような受付で入場券をもらう。
私が丁寧にパスポートを出したら笑って、見せてもらう必要はないと言う。
外套や手荷物を預け、大きく立派な部屋を幾つも通って勝負をやっている部屋に入る。
金ピカの部屋に2〜3台の玉突き台のようなルーレットの台、
こんな部屋があちこちに5つも6つもあり、
この台の周囲に男女が整然と折り重なって
金貨の形をした木札を思い思いに張っている。
タキシードを着た役人が長い熊手で一勝負ごとに木札をかき集める。
勝負の早いこと、見る間に前の木札が増えたり減ったり、みな静かで囁きもしない。
よく見るとみんな小さな紙片に統計をとり、相当慎重にやっているようだ。
一勝負ごとに回る円盤を見つめている。緊張の瞬間である。


私のそばの婦人が肩越しに100フランばかりを張った。すぐに30何倍か勝った。
知らん顔をしてどこかに消える。どの台もみな満員だ。
ゲームはこのルーレットの他にトランプでやるのやサイコロでやるものなどがあり、
みな簡単なものである。周囲には現金を木札に替える所があり、
美しい休憩室のまわりには貴金属商や高級な婦人用品商が店を出し、
レストランや大きな劇場などもある。
このカジノを中心に市内はほとんどがホテルやカフェ、レストランである。
私はコレクションのために付近の郵便局に行って切手を求めたが、
金高によってちゃんと一袋にまとめてあり、たくさんの種類のものが出来ている。
恐らく郵便用ではないだろう。
この国は公許賭博場の収入で成り立っており、人民から税金はとらない。
しかし賭博のよからぬことは知っていると見えて、国民には一切禁じられている。


帰途は懸崖の曲がりくねった海岸通りを左手に海を見下ろし、
夕闇に燦然と輝く燈光を見ながらニースに帰った。


ニース〜モナコは気候に恵まれ、自然の景勝に富んだ世界の公園である。
人はここに住み、日本女性を妻に持ち、支那料理を食うことを
贅沢の限りとしているということである。
天恵の景色や気候と共に、実にこの世の天国ともいえようが、
また地獄にも紙一重である。
世をあげて非常の時にもここばかりは特別で、
人間に弱点のあるかぎり永遠に存在し、益々繁昌することだろう。

ニース 〜NICE〜

正月15日 

相当の悪天である。朝食後、小降りの隙に海岸に出た。
公園入口の美しいこと、常緑樹の間に真紅の花、
青い芝生の間には色とりどりの草花が目も覚めるように咲き誇る。
噴水がある池の美しさ、たくさんの水禽に群衆が餌をやっている。




この美しい公園を通って海岸のプロムナードに出た。
なるほど広く、見渡すかぎり彼方にまで延びて長いものだ。
幅は両側の人道が各々約20メートル、中央の車道は約30メートル、
さらに10メートルくらい後退して家屋が建ち並び、
5〜6階建てのフランス風の建物が色とりどりに建ち連なり、
前庭には熱帯樹や草花が、各階の窓からは花が垂れ下がる。
散歩道の真下は小砂利を隔てて白波が打ち寄せ、実に気持ちのいい舗道である。




このプロムナードを散歩していると、いったい東京の街全体を買えばいくらぐらい
するだろうなどと大きな気が起こるというが、実際そんな気になってくる。
ここは春3月のカーニバルには花合戦や仮装行列、
舞踏会など贅沢の限りを尽くす娯楽場である。
なんの屈託もなくここで呑気に暮らしたら、確かに長生きするだろう。


午後からはモナコのモンテカルロに行く。
自動車で山越えして行くのだ。山頂からの眺めは実に好い。
しかし残念なのは雨上がりの濃霧に遠望を妨げられ、楽しみが半減してしまったことだ。
立派な自動車道路を坦々と山頂に登り、いくつものトンネルあるいは
数十丈の懸崖を見上げ、緑樹の間を快走する。
山腹の街街を通ってモナコに出て、やがてイタリアに出る。
付近にサラ・ベルナールの別荘があった。絵に描かれたような家だ。
ここから引き返してモンテカルロの中心地にあるカジノに着いた。
宮殿のような立派な建物である。
前庭は南洋樹の並木、草花の花壇が美しく整理されている。

2010年11月3日水曜日

ニース着

ゼノアからニースまでの景色は実にいい。
ちょうど日本の東海道を通るように、海岸の岸壁に
奇岩怪岩の間で波打つ湾を通り、高い懸崖の中腹、
深淵を見下ろすようなところをトンネルまたトンネルで通過する。
岩山には濃い緑の樹木が生い茂り、美しい別荘が続く。
その絶景はとても筆舌に尽くせるものではない。



国境のベントミグラ駅でパスポートや税関の検査があり、
ニースに着いたのは午後9時半だった。列車は満員で、
車室では尊大ぶった英婦人や、よく喋るイタリア人夫婦の間で不快であった。
うっかり昼食を食べそこなったので腹も減り、ホテル・アレキサンドリアに投じ、
なにはともあれ食堂に飛び込んで夕食をとり、ようやく一心地ついた。
今晩はゆっくり休み、明日からこの世界的娯楽場で十分遊山気分に浸るつもりだ。

ジェノバ 〜GENOVA〜



正月14日 
朝、再度ドーム広場に行って斜塔を見直す。
付近にはたくさんの大理石の土産物店がある。
片言の日本語を話す主人につかまって2、3買うはめになった。


ホテルの自動車で駅に送られ、午前10時50分出発。
右手に斜塔を眺めながらまもなく大きな森に入った。
特徴のある丸い松が打ち続く途中に、最近できたらしいモダンな駅舎がある。
やがて左側は平野で右は山になる。よい景色だ。雪を頂いた高い山、丘の古城、
山上の市街に近く、白壁の家から顔を出す赤い着衣の婦人、
次第に熱帯植物が増えミカンなどがなっている。
この付近は大理石の産地で、停車場付近には工場がたくさんあり、
クレーンで列車に積み込んでいる。


午後2時半、ジェノバに着く。大きく立派な街である。
ここは開港場であり、むしろローマよりも活気がある。
建物も大きく、急坂が続き、段型に建てられた街は実に壮観である。
タクシーを雇って市内を一巡した。
駅前のコロンブスの像やその生家などを見物し、凱旋門や有名な墓地を見た。
彫刻の美しい墓が建物の回廊に幾つもある立派な美術館である。
パン売りの老婆が一生食うや食わずで貯めた金で自分の墓を造って
極楽浄土したという彫刻の前では大いに考えさせられた。
古い街の狭い街路には背の高い家が並び、ハイネが言ったように、
向かいの家の娘と窓と窓で接吻ができるようなところがたくさんある。
港にはたくさんの大きな汽船が着いている。商港でもあり軍港でもある。


今日はいかなる日であろうか、途中葬儀に5つもぶつかった。
立派な儀装馬車にたくさんの子供がきちんと4人並んでいるのもあれば、
小さい子供が棺にとりすがって泣きながら行くのもあり、
ボーイスカウトが先頭に勇ましく送っていくのもあって、
日本などと少しも変わりはない。


2010年10月28日木曜日

ピサ




正月13日 
今日はいよいよ午前11時の列車でローマを出発、ピサ行きである。
それまでに買い物を済ませ、宿の主人や同宿の文理大学のT氏らに
見送られて出発した。今日はとくに好天気で、
列車の窓に燦々とした陽光を受け暑いくらいだ。
ローマに入ったときは夜だったので、今日は車中、外の景色を注意して見た。


山上に城塞が点々とし、家々はみな高く、ススキのような樹木、
円形の松粗石の家は白壁赤屋根で何ともいえない良い色あいである。
急流が苔むす岩を洗い、静かな深淵、
濃い緑の深い森野にヒツジの群れに鞭する牧童、交錯する白牛、
空には一点の雲もなく麗らかな車窓にいつしか夢心地に入る。




午後4時、ピサの古く寂しい街に着く。ホテル・ネチュノに投じ、
早速地図をもらい有名な斜塔のある寺院までぶらぶらと歩く。
人通りの少ない夕方の狭い街路を抜けて10分ほどで着く。
白大理石造の寺院を街角に立って眺めた。
街の辻馬車で市内見物をしたが、30分も回ったら済んでしまった。
ここは1泊するほどの価値はないが、
ゼノニアース間を昼間見ようということで泊まることにした。
しかしこんな寂しい街にも電車とバスがあり、ホテルの前は相当にやかましい。

イタリア建築行政のことなど…




正月12日 
部屋の中は少々寒いが外は風もなく暖かい。
午後2時から陸軍事務所にA末中佐を訪問。夫人、令嬢からご馳走になる。
今年は海外で正月を迎えた私、ことにスイスの山中だったので
祝酒もワインで済ませ、もちろんお雑煮などは望めなかった。
ところがローマに来て、日本館の主人の好意でお雑煮にもありつき、
煮豆や数の子、日本酒もあり、正月気分に浸ることができた。
A中佐の奥様の手料理でお汁粉もいただき、新年のご馳走にもありついた。
これで完全に今年の年もとれるわけだ。感謝に堪えない。


中佐から欧州政局の推移に関する明快な説明があり、
日独伊協定に直面された身として機微に触れたお話が聞けた。
日本民族の発展について偉大かつ的確な抱負を聞き、
視野を広げることができたように思う。一旦決められた国の方針には朝野協力し、
その完全な遂行に専念しなければならない。悪戯に議論すべきではあるまい。
話は政治論から芸術論に渡り、尽きることがなかった。
夕食を勧められたが辞し、記念撮影をして帰った。
事務所は郊外に近い住宅区域にあり、立派なイタリアヴィラ風の瀟洒な家で、
庭には熱帯植物などの緑樹、美しい花も咲いていた。
私の旅行のことから端なく米国廻り●朝の希望を述べたところ、
早速自発的に書面を出し、依頼してくださるとのことであった。感謝に堪えない。


イタリアの建築行政は分散式で、各省それぞれ機関を持ち、
とくに軍隊には建築班があって技術将校がいるとのことであった。
その管理統制的事項については労働省がやっているそうで、
請負はその都度指名競争であり、その従業請負は各職分業で
相当大資本の業者もあるそうで、
これは政府に相当な寄付をしているので特別な扱いをされており、
業者もみな自重して無理な競争はしないそうである。

2010年10月25日月曜日

欧州の文化に思う



欧州の絵画というと、ほとんどが宗教画で、
キリストの奇跡や伝説を基にしたものばかりだ。
聖母の名画などは各種各様、実にたくさんある。
古代から争闘が繰り返されてきた欧州でありながら、
戦争画が割合と少ないのは意外に思えた。花鳥風月ものも非常に少ない。
あるものは甚だ写実的で、絵柄色相など実物そっくりに浮き上がって見える。


建築技術にしてもその発達の特徴は多くが宗教的で、
信仰的念願の努力によるもので、
2千年も前によくあんな大きなものを石造りで、
しかも複雑な様式で造ったものだとつくづく感心させられる。
高い塔や大きなドームなどは決して鉄骨でも鉄筋コンクリート造でもない。
ただ石を積んだものである。当時はセメントなどなく、多くは石灰のようだ。
石は破損しても目地の石灰はそのまま残っている。
大きなドームを造る時はその側壁を構成し、砂を詰めて形を作り、
石を迫持式に積んで造られた。
金と時間を考えなかった時代のこと、思いきったものも出来たのだろう。
物質文明の今日ではちょっと真似ができない。
市街を囲む城壁、あるいは門なども支那、満州のものに酷似し
その平面構成にも日本の築城と共通性がある。
期せずして東西技術の相似を痛感した。

ローマ市内の公園




正月11日 
今日は好天気で風もなく、実に暖かい。博物館見物に出掛ける。
宗教的彫刻と絵画である。有名なビーナスの座像も観た。
敷いてある布団なども知りつつ、みな触ってみた。
ここを出て美しい公園を散歩し、動物園の前を通り美術館前に出た。
建物は白大理石のクラシックで立派なものである。
背面に丘を控え、植え込みとの対称が実に好い。
ちょうど正午の太陽を正面に受けて実に綺麗であった。
樹木の中の静かな池、池畔のヴィラ、水鳥が遊ぶ平和な眺めである。


散歩道路の両側には赤いシクラメンが長方形に植えられて見事なものだ。
ローマの街路樹の下にはこのシクラメンやヒヤシンス、桜草などが美しく植えられ、
他の都市以上に花店が美しい。所々でスミレの花束を売っているのが目につく。


ぶらぶらと馬場に出る。軽装の美女がたくましい馬に乗り、
馬首を並べて睦まじそうに歩いている。
それをたくさんの人が羨ましそうに見物している。
今日は別に休日でもないのに暢気なものである。


ここばかりでなく、欧州では一様に公園が繁昌している。
一様に外国人は戸外を好み、特に公園を愛する。
ちょっとでも暇があれば外に出て散歩し、公園で自然に接し太陽を浴びる。
考えてみれば家には庭もなく、高い建物で1日中
日当たりの悪い所に暮らしていては無理もないだろう。


午後はフォロ・ロマーノの遺跡に行き、廃墟の中を右に左に
丘の神殿の跡がわずかに残る壁にもたれて市街を見下ろした。
2千年前の在りし栄華を思い感無量である。
コロッセオのわずかに残る観覧席に腰を下ろし、ネロの暴政を思い、
目前に迫る悲劇を思い描いた。
今日で憧れのローマも大体見学を終えた。
明日は陸軍武官、A中佐を訪問する約束である。

2010年10月22日金曜日

ローマ旧市街、スペイン広場周辺で




正月10日 日曜日。
少々寒く、11時頃から付近にあるナショナルミュージアムを観た。
階上階下にたくさんの彫刻がある。
この建物は昔、カラカラ浴場と同じく浴場だったそうで、
大きな残骸がそのまま保存され、その下に各種のものが陳列されている。
前庭の噴水のある広場では植え込みを背に、大勢の人が日向ぼっこをしている。


昼からは地図を片手にむやみに歩き回った。
例の骸骨寺(サンタ・マリア・インマコラータ・コンチェツィオーネ教会)
も見たが実にくだらないものだ。
アリベルト通りをポポルの広場まで出た。
ローマの入口と称する門を見た。古代ルネッサンスの凱旋門風なもので、
ゴシック風に大きくカーブしたような変なものだった。
そこから日当たりのいい川岸をぶらぶらして公園に出た。
今日は日曜日なので大変な人出である。
鬱蒼とした樹間を多くの人々が右往左往する様は壮観であった。


そこからエマニエル記念碑まで歩いた。
たくさんの階段を頂上の回廊まで登る。陽はようやく沈もうとしていて、
深紅の斜陽が連立する大きなコリンシャンオーダーに反影し、
起伏高低のある真っ白い市街は美しく、
付近の市役所や古い寺院、ツォーローマを真下に見た。


陽は没し夜の帳が下ろされた。急いで階段を降りたが、
スペイン階段の前面には鉄柵ができていた。登る時にはなかったのだが、
よく見ると地階からエレベーター式に装置されたものである。
全長30メートルはあるだろう。思いきったことをやったものだ。
この広場から赤い大きな馬車に乗り、大通りをカツカツと宿に帰った。

2010年10月21日木曜日

ローマ郊外、フラスカティ



山上の古びた街を一巡してフラスカティの街に出て、
山腹のレストランでこの地産の美味いワインや
実に美味いマカロニの昼食を済ませ、再度車上の人となり山上へ登った。
右を見下ろせばネーミ湖である。
大きなすり鉢の底のような円形の湖水は波も静かに濃く澄み、
山上の市街の高い塔を反映させている。
見上げる懸崖に建ち、数百尺の深淵を望む。
ヴィラ湖畔に屹立する奇岩が実に明媚な風景である。


湖水を一巡し、ワインの気持よさが手伝っていつしか夢心地となり、
ローマ市街に入ったのに気付かなかった。
さらに車を新設中の運動場に走らせた。
お手のものとはいえ、大理石づくしなのには返って嫌気がしてくる。
しかも大きな像を無数に建て連ねたのは、せっかくの大運動場を狭く見せている。
ただ、最近完成した白大理石のレストラン、室内運動場は
そのデザインと共になかなかよい感じである。
テーベ河向うの新設されているアパート群はたくさんなもので、
その多くは8階建て、新様式で各色に仕上げられている。盛んなものである。
聞けばすべて労働者の住宅で、間取りは平均2部屋のものだそうだ。
帰途、この地名産の革細工商に立ち寄り、2、3買い求めて送らせた。
帰宿したのは6時頃だった。

ローマ郊外、ヴィラ・エステ



次いで山上のヴィラ・エステに行く。
ああ、この山上のヴィラより見下ろす光景の美しさよ!
生い茂る深緑の樹間に、懸崖に建て連ねた白く古い家屋、
連続するアーチ型の高い塔、蔓草の巻き付いたバルコニー、
まるで海のような平野の彼方にローマの市街を見晴らす。
足もとの樹間には飛石や噴水が各所にあり、その大きなものは数十尺、
樹間を天に●し、懸崖に設けられた段型の舗道に沿って数十となく連続する噴水、
本当に水の宮殿である。紅燈を点じ、美女を擁し、
珍味を整えた当時の栄華を目の当たりにするようだ。


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ローマ郊外、チボリ



正月9日 
10時半頃から郊外チボリに行った。
ローマから約40キロ、約40分で着く。
今日は晴天だが少々寒く、景色のいい平野を快走して山麓に達する。
紀元前約2千年前のアドリアン帝の離宮跡である建物は、
わずかに壁面の一部や床、地階などを残すのみで、
そのわずかに残る床の大理石張り、または天井のモザイクが当時の荘厳さを物語る。
その苔むした遺跡には、格好の好い庭園の樹木、
城壁に巻き付いたカンランの古木、濃い緑の檜といった風情。
遥か遠く山上には、陽に輝く古城。
足もとで無心に咲き匂う野の花も、盛者必滅を語っているのか。

2010年10月18日月曜日

憧れの地・ローマへの感激

それから坦々とした国道を快走し、スカラサンタ教会を見る。
内部中央にはキリストの血の跡が残る28の神聖階段があり、参拝者は膝行している。
その前の聖ジョバンニ寺院を見る
全体が白色トラバーチンで出来ていて、
パラペット上に多くの彫像が立っている。
すべて紀元前のものだが建築的手法のよくまとまったもので、
今さらながら先人の偉大な努力に敬服堪えない。

この他にも目を奪われる昔日の栄華の跡がいたるところにある。
市全体が博物館といってよいだろう。
鬱蒼とした公園の中には白い大理石の彫像がいくつも建てられ、
噴水がありたくさんの人が休んでいる。そのあいだを通りホテルへ帰った。


あまり急激に色々と見せられて、呆然としてしまった。
しばらくして、これまで夢に描き、憧れ尽きなかった
古都ローマの外郭を見たことに身が震え、
先哲の偉業を目の当たりにしたことで興奮し眠れず、色々と考えさせられた。
ここを欧州に於ける見学の最後にしたことは成功だったと思う。

ローマ栄華の夢の跡、跡、跡

自動車はフォロ・ロマーノへ向う。
コンスタンチン帝の凱旋門やチート帝の凱旋門、
昔の王宮、神殿、寺院などの跡が歴然と残っている。
さらに車はカラカラ浴場に向う。
紀元200年頃のもので、わずかに壁の残骸を残すのみ。
ここは女や酒、賭博にローマ栄華の夢の跡である。


次いでカタコンベの洞穴墓地を見た。
ろうそくを持って案内の僧侶に連れられ、
真っ暗な地下道の石段をぐるぐる回って歩く。
左右上下に気味の悪い墓がたくさんある。
屍骸の見えるところもある。約15万人分が埋められてあるそうだ。
その上に寺院が出来ている。見物している女などは悲鳴をあげている。
中には出口がわからず死にかけたものもいるそうだ。長くは見ていられない。




帰途はクオアジスドミネで有名な寺に詣で、その街道を見る。
左右の古跡、古びた樹木などすべてが当時を物語るよう。
この道は遠く一直線にナポリへ通じ、『ローマは世界に通じる』といったものである。







ローマ、観光名所を行く

次いでイタリア統一記念碑に行った。
これは相当大きなもので、全て白色トラバーチンである。
その正面中央にエマニエル二世の彫像が建っている。
正面中央は現在無名戦死者の碑で、2名の番兵が立っており、
私たちの敬意に気をつけの姿勢で足を揃えた。



それからテーベ河に出て城を見たり裁判所を川向こうに眺め、
灯台のある丘へ登り、市全体を見下ろした。
今日は実に好い天気で、青くこんもりとした樹木、高い尖塔、
大きなドームが見え、遠く円形劇場やフォロ・ローマの発掘地が
あかあかと照り輝く日光のもとに燦然とそびえている。


昼食の後、コロッセオや円形劇場を見た。
1世紀頃のもので、レンガと石でできている。
屋根のない一種の露天劇場で、当時の残忍性の国民が
人間同士の闘争や人と猛獣を闘わせたり、
暴帝ネロがキリスト教徒を迫害したことなどで有名である。
相当に大きなものだがサンペトロ寺院の中にすっぽり入るというから、
寺院がいかに大きいか想像できる。


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2010年10月12日火曜日

バチカン 〜Citta del Vaticano〜




正月八日 
朝10時からホテルの主人の案内で市内見物に出掛けた。
強い光線が街を照らし、暑いくらいだ。
自動車でまずパンテオンを見る。
街はゴミゴミとした低いところにある。
これはローマ最古のもので花崗岩造りで7〜80尺ほどもある。
一本ものの柱が建っている。内部には前帝とラファエロの墓があった。




次いでサン・ピエトロ寺院を詣でる。欧州各国の他の寺院と比べて実に大きい。
ローマン・カトリックの大本山で、前面の両側に円形の回廊があり、
石畳の広場では左右に大噴水がさかんに水を吹き上げている。
広い階段を上って内部に入ってみた。その偉大な荘厳さに驚く。
6万人あまりも収容できるそうで、要所には有名な彫像があり
特に代表的なものではミケランジェロの大作がある。
歴代の皇帝はここでローマ法王の手によって戴冠式を挙げる。



宮殿の前を通ってバチカンに行く。宮殿は実に粗末なもので、
ローマ七丘の頂上にあるが、建物は3階建ての古びたものである。
赤い房のついた帽子に黒服の衛兵が立っている。
日本の幕府が盛んな時の御所もこのようだったかと、そぞろにもの寂しさを感じた。
バチカン宮は高い城壁に取り囲まれている。独立国で人口僅か650人、
周囲を50分ほどで歩ける世界最小の独立国である。建物の多くは博物館で、
ミケランジェロの天井画やラファエロの最後の審判などの壁画が有名だ。
正面玄関は最近モダンに改造され、階上の陳列館へは大型のエレベーターで
昇り降りするようになっている。この小独立国の切手などを求めた。
陳列されている彫刻の男性像の美しさは女性的な柔らかさを帯び
まるで生きているようで、思わず手を触れてみた。
この時代の彫刻は現代の到底およぶところではないだろう。
バチカン宮殿の美術品はすべてイタリアの粋を集めており、
世界一の権威を持つものだろう。


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ローマ 〜Roma〜へ




正月七日 午後3時
いよいよローマ行きである。
この駅は最近完成した新様式でちょっと面白いものだった。
車中では1人のイタリア人と同席した。
席に落ち着くなり片言のドイツ語でしきりに話しかけてきて、
ローマまで約4時間あまり、退屈しなかった。
彼は弁護士で、1931年頃満州に行ったことがあると言っていたが、
満州のことはあまり知らないように思った。家族の写真を見せあったりした。


沿道の景色は実に良い。緑樹の合間に続く家屋、
なぜか平野はあまりなく、多くは丘や山である。
昔日の群雄割拠の跡とのこと、緑の中に白壁赤屋根を纏った建物が続く。
絵のような風景である。
汽車は約30分遅れて午後7時40分、ローマに着く。
ポーターに荷物を渡すと私たちの目的のホテルをちゃんと知っていた。
5分くらいで行けるから俺が連れて行ってやるとドンドン先に立って行く。
まもなく前庭のあるさっぱりとしたホテルに着く。ここは日本館である。
折よく部屋もあり、早速主人に挨拶を受け久しぶりの日本食に舌鼓を打つ。
食堂にはミュンヘン滞在中の金沢の医師某氏がおられた。

2010年10月11日月曜日

絵画のような、絵画の都フィレンツェ

アルノー河を隔て、ウフィツィ美術館とビチの美術館とが、
ポンテベッキオという古い橋の回廊で連続されている。
この橋は2階建てで、美術館が宮殿だった時の渡り廊下である。


帰途、モザイクの陳列場を見た。
色大理石を集めてよく磨かれ、絵画では得られない味を出している。
大きく精密なものは完成に2、30年もかけられたという。
しきりにこれを買えと勧められたが敬遠した。これがここの名産である。
フランス人の若いマダムにはミケランジェロの高台で写真を撮らされた。


ホテルに帰って食事の後、とても好い天気になったのでぶらぶらと散歩に出た。
アルノー河に沿って例の2階建ての橋に出る。
中ほどの空き地にブロンズの古い噴水塔があり、よく馴れた鳩がえさを漁り、
そばでは盲人がヴァイオリンを奏で、静かな景色である。
アルノー河沿いを、たくさんの人に混じって散歩する。
河の流れは静かで両岸に古色蒼然とした家屋が並び、
橋のたもとでは糸を垂れる太公望、平和な景色である。
通りかかった赤く大きな馬車を停め、再びミケランジェロの丘に登り市全体を眺めた。
白黄色の壁、赤い屋根、寺院の高いドームや尖塔、
近くの緑地にあるイタリア式のヴィラは庭も青々と夏を思わせる。
樹木の遠くに雪を頂く山々、その崖下を悠々と流れるアルノー河、
花の都フローレンス、絵画の都フィレンツェよ。

2010年10月10日日曜日

名所づくしの街を行く

正月6日 フローレンス。 
目覚めると外は雨だったが、朝食を済ませた頃から晴れだした。
迎えの自動車で見物に出る。ここの名所もほとんどが寺院と博物館である。
見るべき寺院だけで16もあるという。
そのほとんどを連れられて歩いたが、すべて覚えていられない。


有名な人物の墓が寺院の床下に納められ、敷石に色々と書かれている。
その上を遠慮なく歩くわけだ。なんともはや。
サンタクロス寺院のミケランジェロの墓も見た。
壁のニッチに氏の半身像を置き、墓下に大理石の棺があり、
その廻りを天女が取り囲んでいる。




ここではドゥオモという大伽藍が第一である。
大きな外部全体が色大理石で、高い正方形の塔がすぐそばに建っている。
内部はすこぶる簡単な構造だが、実に大きく荘厳なものだ。
この近くにある、高い塔の石造りのお城風の建物は市役所である。
中世期の遺物で今なお立派に保存されている。
前の広場には噴水の立派な銅像やたくさんの彫刻が並び、
オープンスタイルの美術館のよう。この市役所からアルノー河に向かった。
両側の建物はウフィツィという美術館で、昔の宮殿である。
内部にはミケランジェロの傑作がある。
今日は日曜日で休館なので明日あらためて観に来ることにした。

2010年10月8日金曜日

フローレンス(フィレンツェ)へ

午後2時半、今度は電車ともいえそうな河蒸気船で駅に行く。
両岸の古い家々、高い石橋を名残惜しく眺めた。
駅で駅弁を買ってみた。日本円で1円30銭くらいだ。
大きなパン1切れ、紙のように薄く切ったソ−セージ2切れ、ソーセージ2切れ、
チキン1切れ、ポテトの揚げ物1包み、三角形の美味いチーズ2切れ、
レモン1個、ビスケット1包み、赤ワインの小瓶が1本、
これに紙ナフキンとナイフ、コップなどが付き大きな手下げ袋に入っている。
これだけ食べればたくさんだ。
途中の景色は実に殺風景なものだ。
平野が続き、建物も粗末なもの。道行く人も粗野である。

午後6時30分フローレンスに着く。
モダンな停車場でプラットホームの天井には長方形のインダイレクトの電飾があり、
見渡すかぎりとても落ち着いた明るさで美しい。
すでに外は暗いので見えないが、新様式のなかなか面白いものらしい。


「ホテル・ローマ」のポーターに連れられて自動車でホテル着。
頬髭を生やしたマネージャーが実に親切だ。
サロンに案内され指差すままに見れば、日本の浮世絵がたくさん飾られていた。
日本の観光局から贈られた博覧会案内のポスターやカレンダーを丁寧に掛けていた。
食後かねてから聞いていた、この地で唯一の日本人、K山君のもとを訪ねたが、
不幸にも最近亡くなられたそうで残念なことだ。まだ若いはずだが。
明日の観光などを頼み、疲れたので今日は早く眠ることにした。
芸術の都「イタリアの花」と称されるフィレンツェの第1夜である。

ヴェニスの名所を行く(2)

正月五日 
今朝もまだ頭が重たかったが名所を巡り、
10時頃からサンマルコ寺院を詣でた。


内部は小豆色の大理石柱が並び、壁も天井も金色で
眩いばかりの極彩色、モザイク張りである。
高い丸窓の薄い大理石1枚1枚が透き通って実に美しい。
回教の僧侶の読経が高らかに、参拝者は片膝をついて静かに合唱している。
登壇には金色の灯明が燦然と揺らめいていた。


デュカル宮殿の外部を一巡して内部に入った。
コートヤードの石畳の上に古いブロンズ製の井戸側が2個ある。
説明を受けたもののよくわからない。だがよい色に錆びて周囲とよくマッチしていた。
この建物は有名な古いゴシック様式で、
階下は回廊となり、階上は窓のない大きな壁になっており、
写真で見たときはなぜあんなことをしたのかわからなかったが、
内部を見るに及んでなるほどと思った。
それは各部屋がみな大きく、しかも壁全体が壁画である。
有名な天国の絵や戦争の大作である。


続く博物館には4〜500年前の兵器が陳列され、例の婦人貞操器などもあった。
この宮殿の裏の建物は牢獄で、かの有名な「嘆息の橋」を渡り、
光線の入らない石室が並び、絞首台の跡、秘密室などがある。
奥の扉を開ければ運河で、屍骸をここから搬出したのである。
実にこの橋は地獄極楽の境にあるわけだ。


帰途、名産のガラス器具の工場を見せられた。繊細なモザイクをやっている。
出来上がった美術品を陳列してさかんに勧められる。
定価の3割くらいは負ける。

2010年10月1日金曜日

ヴェニスの名所を行く(1)




ホテルで地図をもらい早速外へ飛び出した。
細く暗い街路を折れると、正面がサンマルコ寺院やデュカル宮殿の広場である。
ここはヴェニス第1の広場で、名所中の名所といってよい。


一面に大理石を敷き詰め、三方は3、4階建ての古いルネッサンス風の建物で、
東側突き当たりの建物がサンマルコ寺院である。
ビザンチン風の金銀極彩色のモザイクが要所に用いられ美しい。


寺院の前には方形の尖塔が空にそびえている。
まわりの建物はみな回廊付きで、カフェや土産物店ばかりである。
サンマルコ寺院の南どなり、海岸の角にゴシックの有名なデュカル宮殿がある。
この付近一帯の美麗な建物は、実に古代の栄華を物語っている。
寺院前の広場にはたくさんの鳩がいて、豆が売られ、よく馴れたものである。


海岸に出た。ゴンドラが沢山いて乗れとしきりに勧めてくる。
遊歩場では大勢の人が散歩している。
案内人や絵はがきを売る店、即席写真屋などがうるさく勧めてくる。
ペーブメントに椅子を並べたレストランも繁盛していて夏を思わせる眺めだ。


ホテルの部屋では年頃の女中が来て、寝床の用意や戸締まりをする。
「イタリアはどうか、ヴェネチアはいいか」と一人でしゃべる。
帰りがけに1人で寝るのかと不思議そうな顔をしていた。
外は相当に騒がしくなかなか寝付かれない。
モーターボートや小蒸気船が盛んに通る。
まさに運河は道路である。
しかしいつしか夢地に入る。

運河の道をゴンドラの車に乗って

駅前に出てゴンドラへ乗った。
ゴンドラは前後に鳥の頭のような磨いた金物が付けられたボートである。
2人の船頭が鼻歌を歌いながら漕ぐ。
幾度か絵で見て話を聞いたゴンドラに初めて乗ったのである。


幅の広いキャナルを進む。両側は古い4、5階建てが並んでいる。
建物の玄関はその多くが運河に面している。
古びた壁、彫刻、入口の扉や玄関の石段を運河の水がひたひたと洗い、
風情のあるゴンドラが色塗りの杭に繋がれ、
円形の石橋にもたれて話す老人、
両側から覆い被さるようにして建つ古い建物、
陽が反射して絵のようである。


狭く曲がりくねった運河を通り、広い所へ出た。
正面に丸いドームの寺院が、折からのあかあかとした夕日を背に眩いばかりだ。




やがて左手のホテル・モナコに着いた。
ヴェニスでは運河が道路で、ゴンドラは自動車である。
通された部屋は運河に面し、天井も壁も金色に装飾され、
電燈機具や調度品も煌々とし、
金色大型のダブルベッドは少々憂鬱である。

水の都 ヴェニス

正月四日 
今朝も濃霧が深く、ついにここでは写真は撮れず、
ホテルで2度目のチェックをし、500リラを現金にした。
ヴェニスの宿を紹介してもらうと「ホテル・モナコ」がよいだろうという。


10時出発、汽車は今日も満員で、女2人子供2人のところへ割り込んだ。
間もなく女が2人増えた。今朝から少々頭が重いので眠りかけると、
子供が大きな声を出してうるさい。
うつらうつらしながら午後3時、ヴェニスに着いた。


沿道は平野で果樹園が続き、2階建ての白や黄色の壁に赤い屋根、
農家が多く草葺きで、ちょっと日本に似ている。一帯の景色は貧弱で汚い。
ヴェニス近くで汽車は水の中を進む。
濃霧の中に浮かぶ街が見えだした。
ヴェニスの街は陸より2里半の海中にあるのだ。
長い橋を渡って駅のホームに着いた。上屋はモダンに改造中であった。
駅前には金筋の客引きがたくさんいて、
ホテル・モナコの客引きもいたので手荷物を渡した。


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2010年9月30日木曜日

数々の最高峰と出会う旅…



有名な古城の博物館(スフォルツェスコ城)も外部から見た。
今日は第1日曜日なので休館だったのだ。
世界各国の美術工芸品が集められているとのことだったが残念だ。
周囲は赤レンガの高い城壁で巡らされている。

午後3時からここで見逃してはならないオペラ、スカラ座を観た。




今日は日曜なのでマチネーである。時間通りに行ったが慌てて座席に入れられた。
なるほど大きな大体円形で、周りを囲むギャラリーは6階仕様である。
ほぼ満員で、芝居の内容はわからないが大人しく最後まで観た。
背景と光線、俳優の服装などすべてが自然で無理がないようだ。
例のごとく一幕ごとに主だった俳優が幕外のステージに表れて挨拶をする。
拍手におされて4度も5度も出て来る。

午後6時に終わり繁華街を散歩する。
例の十字路のアーケード街を見た。
4階建てで通路上へ全体的に屋根がかけられている。
中は身動きもできないほどの人通りである。
ミラノはファシストの発祥地で、なんとなく勢いがあるようだ。
市内は45年来、市区改正が行われ拡張工事の最中で、
いたるところに工事中の家がある。建物も案外と新様式のものがある。
しかしどこも同じ横線式のものばかりだった。




ここまで来る間に「世界一」や「最大」というものに数多く出会った。
第1は元旦に登ったユングラフでこれが世界最高峰、
2日に越えた世界最長というスイス・イタリア間のアルプスのトンネル、
その次がミラノの世界最大最善美のステーション、
ついで世界最美のミラノ寺院、ドゥオモ。
あまり類例のない屋根のある街路、世界最古のスカラ座。
元旦からこちら、世界一の慶接に忙しい。
明日は午前10時発でヴェニスに行く予定である。
今日は案外と寒く、少々こたえた。


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2010年9月29日水曜日

ミラノの彫像墓地



自動車は公園の間を右に左に進む。
今日は特に寒く、樹木は銀の彫刻のように結晶して美しい。
着いたのは例の有名な彫刻墓地(ミラノ記念墓地)である。
建物はロココ風ロマネスクで、裏庭が全て墓地である。
ブロンズや大理石、花崗岩の立派な墓石の彫刻が並んでいる。
美術館も及ばない有様である。
生前の姿そのままのものもあれば、遺族の悲しみを表したもの、
子供の死を見つめている母親の姿、愛人の死骸に泣きついているのや、
花を手向ける乙女、どれもこれも真に迫った名彫刻ばかりで実に豪奢なものである。
永遠の住居として外人は特に墓地を飾るものだが、
こことゼノアのものとが世界最美のものである。
今日は日曜なので大勢の参拝者が色とりどりの花を手に盛んに来る。
建物の中にも沢山の彫刻があり、壁のニッチには写真入りの墓石が取付けられ、
小さな花束が供せられている。
入口の尼さんに心付けをして外へ出た。

イタリアの傑作、ダヴィンチの傑作




正月三日 日曜日。
昨夜ほどではないが今朝も相当な濃霧である。
午前9時からクックの観光に加わる。
クックの自動車がホテルまで迎えに来る。




やがてドゥオモ広場に出る。有名なミラノ寺院の広場である。
大きいものを予想していたが、実際は意外に小さく感じられた。
しかし内部に入るに及びやはり大きいと感じた。
中には400〜500人ほどの信徒がいて日曜の説教の真最中だったが、
ほんの一隅にすぎない。ブロンズのキリストの一代を表した
大きくて立派な正面扉の内部にある、大きなステンドグラス窓の美しさ。
濃霧でついに屋上には上がれず、尖塔に立つ2000もあるという彫像を下から見た。
建物全体が薄鼠色の大理石でゴシック様式である。
正面の一部にはルネッサンスの手法が混用されているが気がつかないほどである。


次いでラストサッパー(最後の晩餐)の絵がある寺院に来た。
キリストを中心に13人が食卓に付いている壁画で、
レオナルド・ダ・ヴィンチの作として有名なものである。
相当に古いものだ。大分消えかけていて保存に苦心しているようだ。

2010年9月23日木曜日

ミラノ 〜MILANO〜 へ



汽車は10分ばかり遅れて来た。
プラットホームで傘のような格好をしたベルが鳴り発車する。上品な音だ。
崖に向かって右は湖水である。静かな水面、雪を頂く雄大な遠山、
屹然と天にそびえるユレグスフを霧の彼方に見上げるのも絶景である。
蒼々と済み渡る湖水の渚に小舟を浮かべて漁をする様子、
緑の芝生の背後に建つ木造住宅、断崖の線路、アーチの続く石橋、
連続したトンネル、遥かに見下ろす谷の町、
スキーでジャンプする人の様子なども1、2カ所見られた。


途中、山間の小駅でミラノ行き列車に乗り替え、1時過ぎに食堂へ行く。
若い連中がスモーキングでワインを飲みながら歓声を上げている。
皆イタリア人だ。元気なものである。
席に戻ってみると若いイタリア人夫婦が乗っている。
休日を利用してスイスへスキーに行ったのだそうだ。
沿道の影色の説明やらミラノの話、
やがてはイタリアと日本とはすべてがよく似ている、満州とエチオピア、
さてはアメリカはフィリピンを日本に譲るべきだなどと言っていた。
我らの旅行の話をしたり、各所で得たコレクションブック、
家族の写真などを見せ合う。
おかげでミラノに着くまで退屈しなかった。



スイス〜イタリア間の例の長いトンネルもいつのまにか過ぎ、景色は一変。
太陽はあかあかと照り輝き、山上に古い石造りの家屋、白い壁の町、
汽車は湖の右岸を走る。静かな湖面は緑樹の影を宿し、遠く山上の町を反映する。
沿道は急に樹木の種類を増し、大きなシュロの木が各所に、竹やぶなどもある。


午後6時、ミラノ到着。大きな駅だ。想像以上に大きい。
世界最大のものであるという。鉄骨造のプラットホームの上屋、
待合所から玄関までみな大きなものである。
総大理石で大きな大理石柱の連立する玄関があり、乗り物はすべてこの中に入る。
イタリア・ルネッサンス様式の実に立派なものである。

インターラーケンをあとにイタリアへ




正月2日 
8時に目覚める。
昨夜はさすがに疲れたと見え、我ながらよく眠った。
ぐっすりと10時間ぐらい寝たので気持ちがいい。
朝飯前に50通ばかりの年賀状を書き、朝食の後、外へ出た。

今日は曇天であるが、昨日は実に恵まれた登山日和であった。
宿のマダムも「いいチャンスだった、おまえたちの心掛けがいいからだ」
などとお世辞を言っていた。今朝も4、5人の客が昇ったらしいが、

おそらく昨日のようには遠望も効かないだろう。


ここインターラーケンには夜着いたので、町を見るのは今が初めてだ。
山峡の田舎町だが左右を崖谷に挟まれ、
しかも2つの湖の間にある小さな遊園地のようで、
町じゅうがホテルと土産物の店といってよい。
例の屋根の大きい鳩時計のような建物が軒を連ね、
遠望の雪を頂く山を背景に、よくマッチしている。
小雪が降ってきて少し寒い。
途中の土産物店で木彫りの風俗人形などを買って宿に帰る。
娘さんたちを写真に撮ったりして、勘定を済ませて別れる。
別れ際、このホテルの写真入りのチョコレートを一包みくれた。
昨日の返礼だろう。外国では珍しいことだ。
「お前たちの旅行の無事を祈る、早く家族のところへ帰れ」と
マダムが真面目くさって言っていた。

2010年9月20日月曜日

ユングフラウ〜Jungfraujoch 〜登頂 




終着駅はホテルになっていて、郵便局や食堂もある。
ベランダからの見晴らしがよい。
ここは下の駅から1万2千尺断崖の中間にあるのだ。
右にユングラウの頂上の麗姿を眺め、前面は見渡す限りの大スロープ、
右手の絶景の下には千古の氷河が横たわる。このベランダで写真を撮り、
絵はがきを書き、食事をとって元旦のスタンプを受けた。

直射日光を受け暑いぐらいで、みんな外套をとる。
休憩後エレベーターで昇る。その先は徒歩で右に進む。
メガネとステッキで断崖の小路を辿る。
一歩誤れば千丈の谷底に墜ちるのだ、とても下を見ては歩けない。
そこを過ぎれば平坦な丘に出る。下界を見下ろすと自分は雲上の人、
今日はよく晴れて、遠い麓までよく見える。

右手ユングラウの頂上まではあと約2千尺もある。
天にそびえるその壮観は陽に反射して限りなく美しい。
海抜1万2千尺、これより先は我らも昇れない。
案内人の話によれば一人の日本人がスキーで頂上まで昇ったとのことだ。
断崖の頂上に立ち、大声で「満州帝国、日本帝国万歳」と叫ぶと皆驚いていたが、
真面目な口調でベリーグッドを叫び厳粛な気分になる。


危ない道も案内人に助けられながら石室へと帰り、2時30分、再度電車で下る。
多くのスキーヤーが勇敢にもスロープを滑っていた。
インターラーケンに着いたのは午後6時半、辺りはすでに暗く、
空を仰げば薄暮の後方にかすかにユングラウの頂上がそびえている。
大雪崩を心配し、寒いだろうと思っていたのに暑いほどだった。
しかし1万2千尺もあるので、頂上は空気が希薄で頭痛に苦しみムカムカとした。
頂上の石室には澤上の鳥に似たくちばしの黒い鳥が旅人の投げるパンを巧みに宙取りした。
宿で美味い夕食をとり、主婦の差し出すサインブックに感想を書く。
「家族的な宿で、東洋の遊子をゆっくりとさせ、特に料理が美味しい」と書き、
「娘が美人」と加えた。その上にユングラウの勇姿とスキーヤーをスケッチした。
主婦にそれを説明してやるとしきりにサンキューを連発していた。


正月元旦・ユングラフ登山へ

1月1日
康徳4年元旦、7時に起こされて目覚める。
7時50分、登山列車が出るので荷物を整え食事もそこそこに駅に急ぐ。
元旦だというのに相当の人出だ。
大抵はスキーヤーで、列車はほとんど満員である。
我らのことを宿のポーターが若い夫婦に頼んでくれる。
この若夫婦とチョコレートをかじりながら話しているうちに、
2人はドイツ、シュツットガルトの建築家であることがわかる。
話は一段と油に乗ってきたと言いたいが、なにせ英語・独語まじりの片言なのだ。
彼は今、シュツットガルトでアパートの現場監督をやっているとのこと、
6月にはベルリンへ戻るという。今ドイツでは仕事がなく、
建築家はあまっているが東洋はどうかと聞かれる。
満州国の話をしたが本気にはしなかったようだ。
面白いことに夫人も建築家で、一緒に事務所で働いているとのことだった。
スキー場で下車し、3度乗り換えて終着駅に着く。
今日は季節はずれの晴天で、列車内は暑いほどスチームが通っている。
座席の前方に東洋人らしい夫婦がいるので行ってみると、
九大のI医学博士で、ドイツ滞在中正月の休暇を利用して旅行中とのこと。


車内では満杯のスキーヤーが、男も女も歌い叫ぶ賑やかさだ。
列車は次第に山に差しかかっていく。雪が深い。
前面を覆うような山々、荘厳の美、巨大な氷柱の連続、天にそびえる岩。
6〜7千尺ほどの場所で大概のスキーヤーは下車し車内は急に静かになる。
駅の前面は深い谷、麓に続く大渓谷白涯々雪の峨々たる連山、
峰の間の大なだれ、壮観そのものである。ここからすぐトンネルである。
長さ約9キロの舗装なしのアブト式、急勾配のアブト式を進み、終着駅まで約40分、
そのうち2カ所ほど横孔を掘り、乗客を下車させ見物出来る。その景色は偉大だ。

2010年9月18日土曜日

インターラーケン Interlaken の大晦日


やがて暗闇のインターラーケンに着いた。
外に出て空を仰げば満点の星、明日の晴天を思わせる。

「ユングラフはいいぞ」とかねてK君が紹介してくれた「ホテル・ユラ」に投宿。
駅に近くこじんまりとして、従業員はすべて家族の者、主人夫婦に綺麗な15、6の娘。
サロンでウイーンのラジオを聞いていたマダムが部屋へ案内してくれ、
バスの世話をしてくれる。空腹を覚えて食堂に出る。
ここではめずらしくウエーターが女で、5フランのワインをあおるとなかなか美味い。
付近で穫れる川魚のフライも美味く、久しぶりに食事らしい食事をした。
食後、マダムがサインブックを持って来る。見ると知人が多い。
板垣参謀長の名もある。満鉄の方々も多い。K君の詩吟も見える。N君の墨絵もよい。
何か書かなくてはならないが、ワインの元気で明日に伸ばしてもらう。
サロンでマダムや娘らと語り合う。沢山の写真を見せられ、我らも家族の写真を見せると、
なんとめでたい家族だろうと立って握手を求められた。
日本のクリスマスカードや絹のハンカチを宿の娘にプレゼントした。
語る言葉は英・独語交じりの片言だが、楽しい夕べはなかなか終わりそうもない。

4時頃から大晦日で静かな街の中へ出る。さすがに少々寒い。5〜6度だろう。
だが外套なしの人も多い。少し行くと郵便局前の広場で音楽が始まっている。
たくさんの人々が暗く寒い街路で静かに聴きいっている。
こうして今晩は夜通し起きているのだそうだ。
田舎町とて、出たり入ったり特徴のある建物が多い。

宿に帰れば2、3の家族があつまって盛んにトランプに興じている。
マダムが熱い茶を入れてくれ、明朝の出発は早いからと床を勧める。
部屋に戻るが大晦日だと思うとなかなか床につけず、またワインをとる。
ちょうど今頃は日本の元旦で、子供たちが大騒ぎだろうと想像する。

康徳3年12月31日は、無事に遠くスイス、ユングラフの麓で終わる。
明日は元旦、世界最高のユングラフの頂上で迎えるのだ。
希望と努力の新春だ。

ベルン~Bern〜駅にてあわや、ロストバッゲージ




やがて汽車は動き出す。
丁君は動く窓から「バッゲージ!!!」と叫ぶ。
荷物なしでは旅もできず、我も丁君も続いて下車、列車は行ってしまった。
ふと気づいてみれば、丁君は外套も帽子も車の中に置き忘れた。
これは一大事と、ようやく駅員をつかまえて話してみたが通じない。
しばらくすると英語を話せるスキー客が
「今の列車は引き返してくるから安心しろ」と言う。
それは一安心だが、荷物を持ったポーターはまだ来ない。

ホームはスキー客で満杯、満足に歩けもしない中を血まなこになって探す。
ようやく見つけたがわからないはずだ。人が変わっていたのだ。
ポーターの方でもわからなくて困っていたらしい。
次の列車が来たが、丁君の物を乗せた列車はまだ見えない。

発車の時間が近付く。車掌に話したらこちらに来いと言う。
丁君付いて行き、しばらくすると持ち物を手にして戻ったのでやれやれと一安心。
その列車はウイーン行きだった。
ウイーンに連れて行かれなかったのは幸いである。

列車の中は満員で、2等も3等もない。狭い廊下も人で一杯で身動きできない。
あの騒ぎのせいで我々は最後に乗り込んだので、小さな荷物の置き場もない。
インターラーケンまでわずか1時間の辛抱と立ち続ける。
右も左もスキー客の男女、リュックサックとスキーだらけ。
この混雑の中、ふと気づくと側で若い男女が抱擁し続け、
寸時の休みもなく濃艶な接吻をやり通しだ。
途中の駅で降りていったが、約30分の間は気も遠くなるようだった。
腹立たしくもなってくる。しかし身動きのできない悲しさ、見ないわけにはいかない。
目をつぶればなおはっきりと写る。さすがにスキー客らも舌打ちしていた。

ローザンヌ〜Lausanne〜より大晦日のインターラーケンへ




午後3時半、ローザンヌに着く。
湖に面した斜面の町、段々に建てられた5、6階建ての軽快な建物が美しい。
車中では四辺の景色の移り変わるさまに、ゆったり腰かけてはおられず、
写真を撮るのも忘れて眺めていたが、ふと気付いて2、3枚撮った。
遥かなる山上の町は、今まさに夕日の中に入っていくかのようだった。

午後5時、ベルン着。
早速荷物を一時預けにしようと思ったが客が多く、
1時間あまりしか見物時間のない私たちには待ちきれなくて、
ポーターに事情を話してどうにか預かってもらう。

身軽になって無鉄砲に町に出る。
とはいえ大体のところは汽車の中で地図を調べておいた。
百尺もある国会議事堂の大建築物、深谷に架かる高い橋、
夕闇の彼方に雪のアルプス連山を望む寺院の尖塔に、
暮れの電飾が金色に、夕闇の天にさす。
マーケットの賑やかさ、押すな押すなの人の波。
特色あるローカルなものを売る店では売り子は独語・仏語を半々に喋る。
時間がないため近くで絵はがきを買い求めて出す。

駅に戻れば再び大変な人、相当大きな駅だがいっぱいである。
皆、翌日からの2〜3日の休みを利用して思い思いのところへ向うらしく、
まるで戦場のようなありさまである。
男女の群れの多くはスキーに行くらしく、
男装の女など、プラットホームもまた同様の状況である。
早速ポーターを探したが見つからない。
そうこうしている間に乗るべき列車が着いた。
ポーターはまだ見つからない。

2010年9月13日月曜日

レマン湖地方の麗しき眺め




12月31日 

日本では大晦日というのに、旅の気楽さゆえ、
一見呑気でもあるが反面では淋しいものだ。
午後2時半、インターラーケン行きの汽車に乗る。
しかし途中で、スイスの首府ベルンに立ち寄るつもりだ。

汽車はレマン湖に沿って走り、常緑樹の並木越しに水鳥の遊ぶ静かな湖、
スイス特有の大きな屋根、階下を石積み、階上を下見板にしたもの、
例のハーフティンバーの別荘や住宅などを木々の間に眺めながら進む。
その眺めはまるで公園の中を行くかのような絶景である。
気候のよい時に通るのを想像するだけでも形容に苦しむ。
今日は折悪く濃霧が深く、遠望もまったくできない。
左に湖を隔てて見えるはずのユングラフの姿もない。
この列車には食堂車がなく、3時頃途中の駅でサンドイッチや果物を求めて済ます。

午後3時過ぎ、ナーンを過ぎる頃から皮肉にも霧が晴れて陽光を見る。
我らの気候はずれの旅を笑うかのようだ。
だが晴れた景色のなんと美しいこと。
常緑樹、落葉樹、白樺の並木、紅葉のスロープ、美しい配列の建物、
寺院の尖塔、丘や森の続く広々とした景色、
遠く雪を頂く連山が陽に反射して眩しく、
芝生に続く斜面のブドウ畑が実に美しい。

ジュネーブの建築、街並...




タクシーで市内見物に出た。
労働国際連盟会館に行ったが、番人が中に入れてくれない。
東洋から来た建築家だと頼み込むが、がんとして聞き入れない。
国際連盟脱退の余波かと苦笑する。他に同様の外人の見物人もあった。
仕方なくその上手にあるミュージアムから外部を見る。
相当大きなものだがデザインも感心しなければ、ディテールもこなれていない。
新旧の手法が入り交じり不徹底だ。
それが連盟の内容と合致しているかのようで苦笑を漏らす。
しかし遠望は広く、湖水に映るクリーム色のサンドストンの遠景は絵のように美しい。

古い連盟会館を見た。松岡全権大使が全国民の意見を代表して、
居並ぶ幾百もの各国代表の中で苦闘したガラス張りの会場も見る。
ここで多数の腹黒い白人たちを相手にしたのだ。

丘の上の古い寺院、宗教革命記念碑、広場、劇場などを見て、
湖に沿って建ち並ぶ盛り場を見る。
公園は湖水を入れて美しく、梢にクリネズミが遊び、長閑なものだ。


ジュネーブ Geneva

12月31日 


ジュネーブは国際連盟、国際労働局、万国郵便連合、
赤十字総合その他国際機関が集結し、スイス人は世界の首府だと言っている。
さすが国際都市だけにすべてが国際的で、外国人を特に丁寧に優待する。
この街には27カ国の子供が通うという国際小学校もある。
スイスに母国語はなく、伊・独・仏語が通用されている。
ジュネーブは仏語が多く用いられている。
人口わずか13万というが、世界的な問題が勃発した時は
世界中から人が集まり少なからざる金を落していく。

ホテルの前はまるで海のようなジュネーブ湖、遠くはかすんで見えない。
湖に面して公園があり、ここはかねて日本が国際連盟脱退直前に
松岡全権が東天を拝し云々…の場所。私たちもここで東天を拝す。
折悪く濃霧が深くて遠望できず、モンブランの勇姿も見えない。残念だ。
今日は何事かあるらしく、皆、記念章のリボンを付けて広場に集る。
何ごとかと尋ねては見たものの一向に言葉が通じない。