2011年4月28日木曜日

摩天楼を望む〜The Empire State Building〜

2月23日 
今日は早朝から市内見物である。
同行は三越のU君、A氏、T氏と私たちで、案内のU君を加えて6人である。
U君は局長のK氏と同郷同窓だそうだ。


最初にエンパイア・ステートビルを見る。
料金1ドル10銭、10銭は税金だ。
急行エレベーターで80階に上り、そこで乗り換えて頂上へ出る。
今日は濃霧で3里ぐらいしか遠望できない。
地上から1,250尺の頂上の展望台である。
眼下に朝寒の霜柱のように屹立する大小のスカイスクレバー群は実に壮観である。






エンパイア・ステートビルは5番街と34丁目の角にあり、
外装は淡白色の砂岩石で、窓枠、内外の建具類は一切がステンレスである。
内部は壁、床とも多くに大理石が美しく用いられている。
最近まで60階、790尺のウールワースが最高層だったが、
1930年、千尺あまりの75階建てクライスラービルができ、
その翌年、1250尺・120階建てのエンパイア・ステートビルが出現して
世界最高建築となった。頂上には飛行船の繋留塔がある。
この建物はすべてが貸事務所で建物内に執務する者は2万5千人、
他からの出入者が1日6万人、エレベーターの数は57機、
毎日見物客だけで平均4千人ぐらいの出入りがあるそうだ。

2011年4月27日水曜日

NYの第一夜

定刻3時、クイーンメリー号はキューナードの埠頭に横付けになる。
こんな狭いところに来ると巨船は厄介なものだ。
4隻のランチで押したり引いたりしてようやく繋留することが出来た。
現在に於ける世界の巨船クイーンメリー号での5日間の旅もかくして終え、
無事にアメリカの土を踏むことが出来た。


広い建物の中に頭文字順に並べられた荷物を、税関吏がなかなか細かく調べる。
別に問題もなかった。2個の写真機も無事通った。


満鉄のO氏や国米ホテルの出迎えを受け、ミシンで73丁目の国米ホテルに向かった。
ニューヨークでは自動車のことをミシンというそうだ。すでに午後5時だった。
部屋を決めて下のホールに降りると食堂に夕食の用意が出来ていた。
同宿の日本人は約10名だ。
マダムは一々紹介する。食後は夜の市街見物に出掛けた。
サブ(地下鉄)で42丁目まで行き、タイムズスクエアの繁華に驚き、
ラジオシティやロックフェラーセンターの大ビル群を見て、
名物のバレスクを見てから10時頃、ニューヨークの第一夜をベッドに潜った。
気遣ったほど寒くもなく、欧州にくらべて快晴である。


 


国米ホテルは私と同郷のとある未亡人の経営である。
別に1人の婦人がいて、私の姉の嫁ぎ先の上道郡出身ということで自然と色々話をした。
なかなか立派なホテルで、相当に金持ちな住宅街の一角にある。
室内装飾、家具などはかなりのものが使われている。
食事は一切が和食で、在宿人一同で揃って食べる習慣のようだった。
材料の豊富なここでは本物の日本料理が出てきた。
特に色々な漬け物が美味かった。

2011年4月26日火曜日

アメリカ大陸へ


2月22日 
いよいよ今日はニューヨーク上陸の日である。
朝食後、荷物の整理をしてウェーターに渡す。頭文字の札を貼り付け、
別に税関へ提出の荷物のリストなどを作成して差し出す。
事務室ではラウンジチケットや入国税の受取証などをくれる。
船中の知人に別れの挨拶をする。上陸一切の用意は出来た。午後3時上陸とのことだ。

正午頃、すでにハドソン河へ入り左側に大陸の沿岸を望む。
次第に白壁の点々とした家屋が見えだす。昼食頃には左に砲台を間近にし、
前面には遥かに自由の女神像を通して、遠くマンハッタンのスカイスクレバーを霧の中に望む。
やがてロッジで米国官吏の調べに応じ、上陸券の下付を受け、
2時頃から世界の驚異的存在である霜柱のようにそびえ立つ大建築群を目前に、
巨船クイーンメリー号はハドソン河を静かに上る。

競い立つ高層建築、静かに移り変わる景色、人と物質の力、科学文明の局地的存在、
折からの晴天に恵まれ実に身を振るわすような感激的光景である。






2011年4月25日月曜日

船上での、武勇伝










フランスの汽車から一緒だった米人老夫婦、フジタ画伯の友人だというフランス人、
キューバに行って飛行機の研究をするというスペイン人の若者、
米国を経て日本に行くという花見の英人らと拙い英語で話した。
ほかに1人のベルギー人がいて、これが巨大な体躯をしたやつで、
よほどの酒好きと見え、早朝から夜遅くまで酒ばかり飲んで船内を暴れ回って、
誰もが敬遠して相手にしない。
私たちのところへも無遠慮に割り込んで来るので閉口していたが、
はじめのうちは敬遠してなるべく相手にしないように気を付けていた。


ところが今日、昼食を終えスモーキングで前記の日本人の方々と話しているところへ
その彼が例のごとく割り込んで来た。
私とT博士とで壁際のソファに腰掛け、前にその他の方々がいて話していたのだが、
私たちの間へ割り込んで、どっかりと座り込んだのである。
しかも前のテーブルに置いていた私のタバコをいきなり取って床に叩き付けた。
いきなり割り込まれ少々むっとしていたところへそれであるから、堪忍袋の尾が切れて、
私は立ち上がると同時に拳を固め、その男の横顔にくらわした。
するとその男は何ごとか大声を上げながら向かってきたので、
これはまともに取り組んではとても勝ち目がないと、
彼が立ち上がるのと同時に腰を屈めて、男の片足を力いっぱい引きつけたら、
ソファやらテーブルの間にどーんと横倒しになった。
さぁ大騒ぎだ。するとそのうち赤服を来た2、3人のウェーターや事務員が来て相手を止めた。
気が付いて見れば広いスモーキングの中は総立ちである。
一時はどうなることかと思ったが、よく見ればみんな笑ったり、拍手の真似をしている。
どうも私に好意の目を向けているように見えたので、内心ホッとした。
中にはこちらへ飛んできて、私の手を握るものもあった。
例の男は船員に連れ去られたが気掛かりなので、事務長の所へ挨拶に行き事情を述べておいた。
船がニューヨークに着きホテルに着くまで、仕返しをされはしないかと心配だったが、
彼はそれきり遂に一度も顔を出すことがなかった。思わぬ武勇伝をやらかしてしまった。
おかげで翌日からあちこちで指差され、すっかり英雄になってしまった。
考えてみれば余計なことをしたものだ。
しかし永久に忘れられない印象だろう。

船上生活

3月20日 
今日の夕食は私たち日本人のために、司厨房長の好意で日本食が出された。
綺麗なメニューまでちゃんと用意された。
吸い物に天ぷら、煮物にすき焼きだった。
食器などもきちんと用意されてあり、飯櫃まであった。
周囲の外国人連れも珍しそうに見ていた。

船の食事は朝食が8時から。
果物またはジュース、オートミール、ハムエッグ、魚のフライ、
それにパンとコーヒーで、11時頃ラウンジで軽い音楽タイムがあり、
スープにケーキが出される。昼食は1時半からで相当のご馳走が出る。
もちろん個人がメニューから選んで注文するのだ。
3時半頃になると活動写真やら、スモーキングでの馬レースなどがあり、
お茶やアイスクリームが出される。
夕食は7時半からで皆タキシードで出る。私たちは失礼して平服で押し通した。

その間外国人たちはトランプなどで遊び、
デッキではゴルフやラケットを使わないテニスをさかんにやっている。
デッキの日あたりのよい所では寝椅子に寝転び、静かに読書する人なども多くいた。
夕食後は音楽会があり、礼服でダンスなどをやる。

2011年4月24日日曜日

クイーンメリー号に乗船、北米を目指す

2月17日 
正午、サンラザール駅を発ちセルブルグに向う。
駅頭には東日のK氏およびN君らが見送りに来られた。
この列車はホワイトキューナード会社の
クイーンメリー号乗船客のために用意された特別列車である。
各等2両に荷物車を付けた1列車だ。各等満員。
私たちのボックスは白髪の上品な老夫婦に、米・仏各1名の商人、そして私たち。
約5時間を要し、午後5時半セルブルグに到着した。
途中の車窓は今までになく好い景色だった。


埠頭で荷物の検査やパスポートの調べがあり、ここで荷物一切を預けて船中で受け取る。
大連埠頭の待合室をちょっと大きくしたぐらいで、かなり大きな埠頭ではあるものの、
クイーンメリー号は横付けできず沖待ちなので4隻のランチで本船に向う。
大きなランチなのであるフランス婦人など、これがクイーンメリー号かと聞いて大笑いだった。


やがて中天にかかる寒月を仰ぎながら、電光の燦々たる市街をあとに、波を蹴り、沖に出る。
クイーンメリー号は浮城のごとく、大ビルディングに自動車を付けた程度に感じる。
9層楼の側窓に電飾が輝き、それが水面に反影してなんとも美しい。


船室も決まり荷物を受け取ったが、3個のうち
肝心の手回り品を入れた手提げがどうしても見つからない。
ボーイに連れられて広い船中の長い廊下を昇ったり降りたりして探し歩いたが
遂に見つからなかった。明朝にしてくれという。仕方がないので食堂で夕食をとる。
約300人収容の大きなものである。
本船の1等は私たちには少々窮屈だというのでツーリストクラスに決めたのだが、
船底8層の全部がそれで、大きく美しいロッジやスモーキング、ライブラリー、
果てはプロムナードデッキなどがあり、相当に立派なものである。
しかも新様式に仕上げられている。日本人は全部で7人。
ドイツ留学中だった台北医大のT博士、新潟大のA博士、ロシア留学中だった
東京外語大のS夫妻に日本電気のH技師と私たちである。
食後は欧州の話がはずんだ。

パリを名残惜しむ

2月16日 
いよいよ明日はパリを出発、
セルブルグに出てクイーンメリー号で渡米の途につくことになった。
滞在中ご厄介になった諸方へ挨拶に出掛けた。今日は相当の雨で少々寒い。
午前中はそんなことで終え、午後は雨の中を濡れながら
エッフェル塔からナポレオン墓所へ詣で、コンコルド広場に出て、
シャンゼリゼからエトワールの凱旋門などに名残りを惜しむ。
大抵の場所は見尽くしたつもりでも、いよいよ離仏となると
何か見落としているようで心残りである。
凱旋門の下に立ち、雨に霞む十二条の放射線道路、
遠く雨下のマロニエ並木を通じてルーブル美術館を望み感慨無量である。
再び見ることもないこれらの景色を心に留めた。

2011年4月23日土曜日

パリ市の交通、街、世俗

パリ市には大部分で地下鉄(メトロ)が敷かれている。
数両を連結した列車がおよそ1分おきに運行し、車両には喫煙禁煙の区別、
1、2等の等級があり、もちろん乗り換えは自由、
会社経営で建設はすべて市が施工し、これを無償で会社に譲渡、
乗客1人あたり1銭ばかり徴収している。
ここでは地下鉄のことを会社の名を取ってメトロと呼んでいる。

他に地上には乗り合い自動車(バス)があり、2階はなく後ろから乗降する。
この経営も民間会社で料金は区制で、これにも1、2等がある。
路面電車もあるにはあるがこれに替わりつつあるようだ。

市内には約40万台の自家用車やタクシーが走り、
さすがのブルバードも夕方のオペラ付近は詰まって動けないぐらいだ。
料金はメーター制で、必ずいくらかのチップをやる習慣である。
夜12時以降は倍額だし、道路はゴー・ストップがあり決して早いものではない。
やはり最も便利で、安くて、早いのはメトロだ。
しかしちょっと馴れないとなかなか乗れない。

オペラ前から東方面にかけてがもっとも繁華なところである。
美しいブルバード、広い人道にはカフェの色とりどりの椅子が5、6列並べられ、
昼過ぎからたくさんの男女がゆっくりとコーヒーを飲んだり食事をしたり、
いかにも楽しそうにしている。これは他にはないパリの特徴である。
この椅子に腰掛けて舗道の通行者に秋波を送る女がいる。
ちょっと笑顔でもしようものならすぐについて来る。

フォリベリゼーのレビュー、
ムーランルージュのダンスホールなどは実に賑やかなものがある。
このあたりを1人でうろうろしていれば案内人がいろいろ勧めてくる。
いわゆる歓楽街に案内してやるというのだ。
パリの裏側では外人に金を使わせるにはいかなることをしても
黙認するフランス政府の醜悪な繁華街がある。
まぁ1度ぐらいは確かな人の案内で見ておくものだろう。
そこには理屈抜きに近代都市経営の真理があるように思う。
偉大な歴史的記念物の豊富さはパリ市繁栄の基礎を成していることは明らかだが、
裏面の思いきった歓楽施設と、遺憾なき近代都市施設が魅力であることは言うまでもない。
約20万のストリートガールと酒を通じて外遊客の落していく金は、
年間で日本円の10億に近いとのことである。政府がこれを真剣に考えるのも無理はない。

歓楽的にみえるパリ人は甚だ浅薄なようだが、
その遊蕩的な一面は外国人観光客の欲求によるもので、
フランスの国民性を物語るものではない。
彼らはむしろその正反対に経済的観念は強く冷静で、その守銭奴的一面の現れだろう。
とくにこの国には全国民の6割を数える堅実な農民のいることを忘れてはならない。
王政に惰することなく、社会主義にあらず、しかし相当に富める国であるのは、
彼ら農民がいるということがフランスの強みである。

パリの都市計画



パリの都市計画はナポレオン3世時代にできた。
放射線状の典型的なもので、公園、広場、街路など全てが美的にできている。
世界一を誇るコンコルド広場は自動車時代の今日でも尚、狭さを感じさせない。
八方へ広がる広い道路、シャンゼリゼからエトワールの凱旋門、
テュイルリー庭園からルーブル美術館へ至る遠大な設計、広壮な計画は
都心に広々とした余裕を示しており、セーヌ河の流れ、そこに架けられた橋梁の美、
粋を極めた市街の建築記念物の美しさ、繁栄を極めたブルバード、
実に世界無比の都市美である。
まことにパリは断然頭角を抜いた世界のキャピタルの感がある。

パリの労働事情



現在のパリにはほとんど見るべき建築工事はなく、
僅かに博覧会工事と前記の飛行場ぐらいのものであった。
パリでは民間の建築家は悲鳴をあげ、
労働者は副業または失業手当でささやかに暮らしているとか、気の毒なものである。
失業手当は1日10フラン、妻子ある者は各4フラン
家賃付き40フランを直接家主に支払ってくれるとか。
これでやり方によれば1日にワイン1杯もやれ、シネマぐらいは観られるそうだ。
しかも1週40時間、最近では38時間労働制が叫ばれていて、
これが成功に近付いているとのことだ。
7割の社会党員を有する現内閣によって、労働者は実に優遇されつつある。
しかし私たちが見たところ、労働者の現場における活動能率の悪さは呆れるばかりである。
木靴を履いてのろのろと、3尺程の土管を2人がかりで運んでいる様を見て嫌になった。
労働時間はなるべく短縮し、賃金値上げを叫び、
その反面で個人的生活は酒と女で裸の生活である。
結局は野蛮に帰る、文明の極致とはこんなものなのだろうか。

2011年4月22日金曜日

建設中のオルリー空港を訪ねる




2月15日
今日はブラツサルモパン会社の案内で、目下建築中の交通省の飛行場見学に行く。
約40分で現場に到着。在来の建物を漸次取り壊し、平面積約7000坪、
鉄筋コンクリート造3階建て、外部はすべて大理石張りのモダンな新様式である。
すでに八部通り竣工し、一部分は使用されている。


約3時間に渡って見物したが、目についたのはエアコンプレッサによる
コンクリート打である。階下の一部にモーターを据え、ミキサーを通じて
六●ぐらいの鉄管で各階の現場へコンクリートを送り打ち込んでいる。
相当の速度で打ち込むので棒突などは一切不要、
鉄筋にもよく密着し細部にも打ち込めて非常に能率的なようだ。
瑕枠も1メートルほどの鉄板を並べていたが、
外したあとのコンクリート肌も平均的でムラがなく、
後からモルタルで塗りつぶすような無様なことはしていない。
その作業能率を比較して、機械設備、電力操作の手数などを計算し、
在来施工法と比較研究する必要があるだろう。


その他、屋上の防塞装置あるいは防水工事は、気候に恵まれた土地だけに
すこぶる簡単なものである。防空防毒に対しては何ら設備せず、
戦時はまったく報捨する考えだと係員は言っていた。
丸天井が5〜6カ所あるが、円形のプリズムで装飾と採光を兼ねているが、
外部に僅かに防水装置があるだけで、
内部はそのスラブ下に直にピラスターが塗ってあるだけだ。
これで冬季も凍害なく解氷期にも問題ないとは羨ましいことだ。
めずらしく見たのは、普通の天井下地が長さ50センチ・幅30センチ・厚さ6センチぐらいの
中空タイルを3個ほど繋ぎ合わせ、三分丸鉄筋で固めたものを
各コンクリートビームの径間に釣るし付け、その面を漆喰仕上げとしていることだ。
採暖と防音装置だと言っていた。
また瑕枠なども相当の径間のあるもので、同一形体のものは鉄骨を使用し、
または立派なトラスを組み、移動的に組み立てられていた。


本工事完成後は欧米における最大の空港となるそうで、
800万フランを要し、本年5月の博覧会開催までに竣工予定である。
フランス政府の建築業務の処置はさすがに自由の国だけあって各省分立であるが、
大体必要なものは公務省で会議する程度で、
設計施工ともに主要なものはコンクールにかけ決定するとのこと。
請負の方法も欧州一帯同様に分業的で、
公入札制によってその決定は相当に手数と日時を要するものである。

パリ滞在・・・




2月1日 
珍しく晴天である。
10時頃ホテルを出て伴野商店に託送の荷物を持参した。
色々と買い物をして一切の仕度を済ませた。約2000フランである。
3月19日着の神戸行き箱根丸で大連へ積み替えるはずだ。


次に郵船の支店へ立ち寄ってクイーンメリー号の乗船券と、
太平洋航路・浅間丸の切符も一切が用意出来ていたので受け取った。
差額賃金や米国入国税8ドル、およびフランス出国税30フランなど一切を支払う。
これで横浜まで帰ることが出来る。
帰途、日仏銀行へ立ち寄り最後の50ポンドを引き出した。
残額150ポンド少々、これだけで米国旅行をしなくてはならない。
相当に倹約をしなければ不足するだろう。
2時頃から建築関係の書店へ行き、あれこれと3冊ばかり買い求めた。
目新しいものはなかった。夕食は都ですき焼き。
三越の宇都宮君もいた。大西洋も太平洋も同船らしい。




2月2日 
大使館にI氏を訪問したが留守だった。ここで林内閣成立を聞く。
次いで博覧会場の日本館に氏を訪ねたが不在であった。


2月3日
博覧会場を見ながらセーヌ河沿いにノートルダム寺院まで散歩する。
寺院の屋上に昇る。晴天なので市内全体がよく見える。
例の怪異なガーゴイルの彫刻が目の前にある。
何百段かの暗い回り階段を上下した。
そこからイタリア街に出てマデレン座でシネマを観た。


ホテルでベルリン以来一緒だった台北医院のA氏に会う。
17日のクイーンメリー号は同船とのこと、サロンで遅くまで話した。

5度目のパリ




正月29日 
今日1日は休養だ。昨晩は妙なもので、しばしの宿といえども
まるで我が家へ帰ったような気持になり、よく眠れた。
しかし風呂の排水が破損して使えなくなったのには閉口した。
朝食後は諸方への通信や日誌など様々な整理をする。今日は少々曇天で寒い。




正月31日 
日曜でよい天気である。カメラ片手にバスでマドレーヌ寺院へ詣でる。
日曜日の礼拝者でいっぱいだ。亡き姉の冥福を祈るため黙祷して礼拝した。
そこからぶらぶらとコンコルド広場へ出て、
シャンゼリゼから左折しアレキサンドリア三世橋畔へ出る。
パレスギャラリーのマネジメント展覧会を観る。
家庭用品一切や建築の展覧会もある。博覧会の模型や図面も出ていた。
そこの売店で建築の雑誌を2〜3冊買う。

そこから再びシャンゼリゼへ出てエトワールの凱旋門に出て、
ダーフィンの並木道をボロジン公園へ出た。
広いマロニエの並木道にはたくさんの散歩者。
両側の青々とした芝生を隔てて乗馬道があり、
洒落た男女のギャロップ姿も好いものである。
両側の緑樹の葉隠れには美的建築も見える。公園はほとんど森といってよい。
大きな池には白いスワンが浮き、ボートに乗った男女が池の中を右往左往している。
岸辺には糸を垂れる者、垂直の松の木、
白樺の林の中で乳母車を押す女、
睦まじそうに手を組む男女、
ローラースケートを履き道路上で盛んにたわむれる子供の群れ、
実に溌剌と生を楽しんでいるようである。

2011年4月21日木曜日

ハーグ平和宮

正月28日 
ハーグの朝も特に寒い。教えられてホテルの前から8号電車に乗り、ピースパレスへ行く。
20分ぐらいでパレス前の広場に降ろされた。
途中の街路に相当モダンな建物を見受けた。
ピースパレスは午前中、門から中へは入れない。門衛の番人に色々交渉したがダメだ。
門のところから写真を撮ることだけ許してもらう。
内部は午後2時から見せるというのだが、私たちは1時50分に出発の予定なので思いきった。
パレスは写真などで見た通り、よく均衡のとれた立派なものである。
色の感じも良い。そのディテールなども良くこなされている。庭園も実に立派だった。


とても寒いので、大急ぎで近くの新様式のものなどをカメラにおさめ
マウリヒュース・ミュージアムへ行き、レンブラントの解剖講義の絵なども観た。
王城の7つの門のある現国会議事堂、古くは平和会議のあった所などを見て急いで宿へ帰り、
午後1時50分パリ行きの急行列車に乗る。
急行料金に45フランばかり取られ、午後7時40分、パリ北駅に着いた。


タクシーでホテル・マスネへ帰ったが、前の部屋に病人が出て消毒したそうで、
とても臭うので5階にかえてもらう。
腹が減ったので久しぶりに「都」へ行って日本食をたらふく食べた。
階下では三井支店長の送別会が行われている。
パリは風もなく暖かである。これで欧州における最後の旅行を終えた。
当分ここパリに滞在してゆっくりと気分を味わうことにする。


大きな地図で見る

アムステルダムの建築見学




正月27日 
今朝はとても寒い。季節外れで観光バスもないので、自動車を雇って見物に出た。
市の中心のダム広場に出る。壮麗な宮殿、その後には教会などがあり、
市役所の前を通り郵便局や大きなリュクス博物館などを見た。
フォンデル公園には詩人フォンデルの銅像がある。赤レンガのオペラの前は賑やかである。


アムステルダムはベニスとストックホルムを1つにしたような水の都で、
運河が縦横に走り、色々な形の橋がたくさんある。
それから新市街の方へ出てみたが、建物はすべてモダンで立派だ。
多くはレンガの見出し積みだが、よくデザインされ、
それぞれのディテールはみなよいものだ。
今までに見た欧州のどれよりも優れているように思う。
欧州において近代建築はオランダがそのトップだろう。
しかもその用材や建物の程度が日本や満州に似たもので、じかに応用でき、
ここに少し落ち着いたら参考になるものがたくさん集められると思う。


幸い市内の書店を漁ると新様式の書籍が見つかり買い求めた。日本円で30円ほどであった。
またここは世界のダイヤモンドの原石が集り加工される場所で、
その工場が大小約10カ所もある。その1つを見せてもらった。
たくさんの職工が分業的にやっている。仕上げには20人ぐらいの手を経るようだ。
あの多角形な形を作るには色々な機械を通し、みな拡大鏡で作業している。
ここにはダイヤモンドの取引所もあり、価格その他の統制をやっている。
物価が非常に高く、珍しいものもあったがちょっと手が出せない。


午後4時の汽車でヘーグに向う。
駅前のホテル・テルミナに投じる。ここは国際都市でホテルもなかなか立派だ。

アムステルダム

正月26日 
今朝は雪だ。少々風邪気味で頭が重い。
たいして見るものもなく、姉のことなどが考えられるので
外へ出る気もせず部屋で手紙を書いて過ごした。

午後1時30分の列車でオランダのアムステルダムに向う。
座席にいると、昨日ブリュッセルで一緒に見物したオランダ人の2人連れがいて、
わざわざ私たちの部屋に挨拶をしに来てくれた。
2人とも商人で、1人はアムステルダムから少々離れた街で雑貨商をしているという。
店の写真などを出して見せてくれる。もう1人は宝石商だ。
カタコトの英語で色々と話した。約3時間の車中、退屈しなかった。

雑貨商さんは2人の娘がいて1人は20歳。雅子と同じで、
もう1人は15歳、妙子と同じだ。2人ともなかなか美しい。
別の写真を出してこれは妹の家族だという。
11人の子供がいるがつい最近そのご主人が死んで、
自分が生活を援助しているのだという。人ごとではないように思った。
私たちも家族の写真を出して見せた。日本の着物がとても美しいと珍しがっていた。

4時半頃、アムステルダムに着いた。途中は雪景色が好い感じだ。
ウインドミルも季節外れであまりのどかな感じではない。
平地には間隔を置いて運河が出来ている。
ホテル・ヴィクトリアに投じる。駅の近くで相当なホテルだ。
夕食後、明日の見物のことなどを頼む。寒くて雪の市内には出てみる気にもなれず、
オランダ風俗の絵はがきなどを子供たちに出した。


大きな地図で見る

アントワープ




3時頃、尚1時間ばかりあるのでバンドボザールに入る。
ここではロダンの彫刻、ムニエの労働者マーラの死、アダムとイブの名画などを観た。


午後3時、ホテルの近くにある北駅を出発しアントワープに向う。
約35分間で着く。ホテル・ロンドネスに投じる。
昼食のビールが効き、ソファにもたれたままいつしか眠ってしまった。
目覚めたのが午後6時、外はすでに暗く、夕食まで尚時間があるので
外へ出てみたが非常に賑やかである。1時間ばかり散歩した。
食後、外はかなり寒く別に見るものもないのでシネマへ飛び込んだ。