2011年9月2日金曜日

ナイヤガラ行き



3月11日 
朝食に食堂へ出たら、三越の宇都宮君がいた。
列車には案内人が乗っていてしきりに色々と勧める。
何だか高額なことを言うので取り合わずにいたが、
駅に着く頃には3人で6ドルにまけたので頼むことにした。


駅前から少し行くとすぐに滝つぼだ。
上手の川岸にあるプロスペクト公園をドライブする。
芝生の上にたくさんのキジがいる。河の急流を眺めながら
アメリカ領の上流にある石橋を渡って樹木の茂るゴード島に下りた。
ここはカナダ滝とアメリカ滝の中間に位置する。
遠くから見ていると今にも押し流されそうだ。
岸型の柵によって万雷のような滝の響きが耳を聾するばかり。
地響きがものすごい。上方からこの滝を見ると滝つぼには違いないが、
幅が広いので河瀬のようである。しかし高さは約160尺もある。
轟々たる水勢、箔々たる滝音を聞きながらもとの場所に引き返した。


アルベ橋の鉄橋は滝つぼの下流にあり、橋の上からの眺めは実に壮観だ。
橋を渡れば英国領カナダで、パスポートの調べがある。
滝つぼの対岸に出ると二大滝つぼを一望できるところに建物があり、
夏期はここから彩色投光機で電飾の滝つぼを見せるそうだ。
建物の中では土産物を売っている。
ここの一隅からエレベーターで約150尺の滝つぼへ下る。料金は1ドル。
長靴や防水着を着せられて下った。
横穴を通りカナダ滝の裏に出る。雪と氷に閉ざされた穴から眺めると、
天地も一瞬で崩れ落ちるような大音響で、
眼前に落ちる大飛沫の美観壮観はたとえる言葉もない。


地上へ引き返しさらに下流へ行く。大渦巻きのところである。
この上にケーブルカーが架けられているが、冬場でクローズドだった。
ナイヤガラの滝はエリー湖の水が流れてオンタリオ湖に注ぐ中間にある。


午後1時半、宇都宮君と別れてバスでウイランドまで行く。
午後2時半、デトロイト行きの列車に乗る。
しばらくはカナダの汽車旅行である。エリー湖の北側を走る。
満州によく似た平地で、所々に落葉樹の林があり、
広い耕地は一面の芝生で耕作されていない。

2011年8月8日月曜日

ニューヨーク発・ボストン行き

列車はすでに寝台が出来ていた。
10時頃宿のマダムと別れ車両の寝台に入る。
12時頃出発したのだが眠っていて気付かなかった。


3月10日 
午前7時。黒人のボーイに起こされた。
列車はすでにボストンに着いていた。
洗面もそこそこに駅の待合室に出て、大勢の人と一緒にcafeのカウンターで
紅茶とドーナツの朝食を済ませた。たったの10セントだった。
その後タクシーを雇って見物に出た。


ここは話に聞いていた通り、ロンドンによく似ている。
古くさく、煤けて、道路も実に不規則だ。
人口75万、チャールズ河を隔ててケンブリッジに対し、
旧市街は昔日の植民地時代の名残があり、
当時の木造建築など歴史的なものが保存されていた。
ワシントンストリートの繁華街を、ケンブリッジの大学街などを見てまわった。
ボストン大学や図書館、トリンテー寺院を観て、ボストン美術館に入った。
ここは日本の美術品がたくさんあり日本館が出来ているほどだ。
ここで昼食を済ませ、再びタクシーで辺りを見物した。
とあるデパートに飛び込むと、例のシッドタウン・ストライキをやっていた。
他に観るところもないので停車場に帰る。
出発時間までかなりあるので構内にあるシネマを観た。
午後6時半出発、ナイヤガラ行きである。
この列車の寝台はコンバートになり、上下式で洗面台なども付いていた。


さらば、NY

3月8日 
明日はいよいよ当地出発である。諸方へ挨拶まわりをする。
鈴木商店や満鉄に行った。領事館ではカナダ入国の証明をもらう。
朝から雨で濡れながら名残りの街を歩いた。

夕食は私たちの送別の意味でホテルが寿司を作ってくれ、食堂は賑わった。
食後、満鉄の連中と再度ビールで大いに談じた。

3月9日 
いよいよ今夜ニューヨーク出発である。
午前中は荷物の整理など出発の用意に費やした。
ホテルのマダムによると、私たちが予定していたビューローによる旅程は
とても贅沢なもので、まるで貴族の旅行のようであり、
それではかえって面白みがなくそんな必要はないというので、
自らビューローと交渉して一切を変更し、とても経済的な旅程になった。
マダムの親切は感謝に堪えない。
私たちの不認識がかえって諸方に大変迷惑をかけた。
言われるままでいささかの遠慮がこんなことになり心すべきことである。

午後は最後の名残りと1人で2階バスに乗りワシントンスクエアまで行って、
近くのワナメカーに寄り、子供用の雨傘などを買い求めた。
ホテルの支払いは全部で約110ドルだった。
16日間で1日平均7ドルほど。
8時半頃から銭高氏ほか在宿の方々に見送られてホテルを出た。
マダムはセントラル・ステーションまで送ってくれた。
4個の荷物のうち2個はサンフランシスコまで直送することにして、
保険料を1ドル50セント支払った。

ロキシーシアター

3月7日 
日曜。晴れているが少々寒い。
午前中は日誌をまとめ、荷物の整理をする。
昼食後、ナショナルミュージアムやアートギャラリーなどを観た。


夕方からSUBでタイムズスクエアのロキシーシアターに行く。
大きなもので殿堂のごとく大広間から階段、部屋などは金ピカで、
これが映画館とは思えない。
階上の観覧室で観たが50人くらいの列を作り入場する。
大きな観覧室のギャラリーは舞台を真下に見、谷底のような感じだ。
客席はまったく満員で、ちょうどレビューが始まっていた。
何万という観客、レビューの美しいこと、ただ呆れるばかりだった。
2時間ばかり観て午後6時頃から招待を受けていた三井銀行のY氏邸を訪問した。
丁君は気分がすぐれず私1人で行く。
ご夫妻のもてなしに思わず11時頃まで話し込んだ。
満州の話や旅行談などで時間が経つのも忘れるほどだった。



ホテルに帰ったら満鉄の若い連中が4、5人サロンでビールの林を作っている。
いつしか仲間に入って大いに気炎を上げ、
台所からビールを持って来てはたいらげて、
ついに種切れとなり気がついたら2時半だった。


2011年7月24日日曜日

NYに見る、人類の発展と幸福の意味





ニューヨークはマンハッタン、ブロンクス、ブルックリン、
クイーンズ、リッチモンドの5区からなる。
有名なのはマンハッタンで、ニューヨークの中心を成し世界一を誇る施設がある。
摩天楼や港湾設備、市街の電飾などすべて世界の先端的に完備されている。
マンハッタンの南部、ダウンタウンは表現と繁華の中心で
50丁目あたりのラジオシティ付近まで集中している。
この世界の驚異的物質文明の極致的存在であるマンハッタンは
ハドソン河にある長さ13里幅2里の南北に長い島で、
東にハドソン河、西にイーストリバーがあり、
この島は今から約300年前、オランダの植民地として認められ、
わずか24、5ドルの値の物品とで黒人によって交換されたものだ。
いまさらながら物質による文明の急速な進歩には驚くほかない。


市街は整然とした直角的な道路が東西南北に通じ、
両側に雲表にそびえる高層建築が建ち並ぶ。
高架電車、路面電車、バス、地下鉄などが縦横に通じ、
自動車と人の流れは洪水のように氾濫している。
河の両側の横断用に各々2つのトンネルと、ニュージャージーに向けた1つがある。
その他に大鉄橋がたくさんあり、ハドソン河の沿岸には世界一の大築港で
岸壁には無数の埠頭が櫛の歯をみるようにできており、この延長が約5万間とのこと、
輸出入の貨物が年額4千万トン、大洋航海の巨船が20分に1隻の割合で出入りし、
毎日300隻の碇泊をみるそうである。


ニューヨークは年間1,500万トンの食糧を消費する一方、
約5万の工場から年間約70億ドルの生産をして、
隆盛な内外貿易は浪費の王城であると同時に生産都市でもあるのだ。




このこのようにニューヨークは世界の先端をいく物質文明の極致的存在で、
ドルと科学の力による米人気質を遺憾なく発揮している。
しかしここで目の当たりにした生活は、人間本来の要求と生存の価値を
真実に表現し体得しているとは言い難いのではないだろうか。
やむを得ずとはいえ、市街は上へ上へと延び、人は一日太陽を見ず、
土を踏まない生活を余儀なくされ、神経質になり、機械的な人間となり、
極端な個人主義で家族制度は破壊され、物質的娯楽により癒されるしかなく、
極端な刺激がなければ満足できない。
したがって動物的になり野蛮性を帯びつつある。
科学文明の進展につれ、
そこに精神性の発達が並行していなければならないことを痛切に思う。

NYのエンターテインメント

3月6日
 
昨夜から雪でかなり寒い。
午前中からダウンタウンの三井銀行へ行き、最後のクレジットをドルで引き出す。
100ポンドばかり残っていたがこれが約500ドルだった。
この資金でサンフランシスコまで行かなければならない。
すでにビューローの支店に少々贅沢だったがこれに200ドル、
ここの支店に約100ドルいるとして、残額は約200ドルだ。
これで大陸横断中の小遣いからLA、サンフランシスコの滞在費に充てる。
船中の費用も相当入り用だろう。計算してみるとどうやら過不足なしにいくようだ。
三井銀行支店長のY氏と30分ばかり色々と話した。明日の夕方自宅へ招待を受けた。


その後、35丁目までバスで出てビューローへ行きK氏を訪問。
今日は土曜日で、2時半からメトロポリタンオペラでマチネーを観る。
入るとすでに開幕中で2〜3ドルの席はない。
やむなく5ドルの席に行くと2階のボックスだった。夜は25ドルだそうだ。
アレキサンダー・デューマ作の「椿姫」をやっている。
小説で読んだことがあったのでよくわかり、興味深く観ることができた。
特にここは音楽が良いようで、観覧席は7階までありほとんど満員だった。


一旦ホテルに帰り、食事のあと商工省の某氏とフレンチカジノに行く。
ここは食事をしながらレビューやシネマなど色々な余興をやるので、
入場料として3ドルとるがその金に飲食代も含まれる。
私たちは食事の後だったので数種の洋酒をとった。
館内はモダンで白と赤の2色にステンレス使いで案外と高尚にできており、
客も中流以上と見え、多くがタキシードなどを着込んでいる。
ここのレビューはなかなか美しい。
背景に光線を応用して極端に美しい色や線ができて見事なものだ。
これらを背景に半裸の女優が美しいダンスをやり、
その間には最新流行の婦人服のモードを見せるようなものもある。
ことにアラビアンナイトの一場面などは実に夢のような眺めだ。
10時頃帰宿。外はだいぶん寒い。

建築群にあらわる、アメリカ合衆国の姿



ワシントン市はホドマック河をまたいで自然の景勝を基とした雄大な計画で造られており、
ニューヨークの井型とパリの放射型を併用し、
建築物は皆、配置、環境、敷地などとの調和がよく研究され、
一貫した計量によって官公署の建築などもよく統制されて実に美しく雄大。
理想的な都市計画である。


ここへ来てアメリカ人のよき面を見たような気がする。
しかし統制された官公署建築に接して一般建築の粗雑なものがあるのは
どこの国にも共通した悩みと見える。
相当以上に留意されているここワシントンでさえ、これは仕方のないもののようだ。


また、ここで特に感心したのは多くの官庁群がデストリックヒーティングで、
したがって煤煙防止においても相当留意されているそうで、
白い建物が多いがその多くはあまり汚れた様子もない。
まだ暖房時期であるがどこを見ても目につくほどの煙は上がっていない。
空は澄みわたり、実に清澄な街である。


外国人にとっては国の威力も個人の偉大さも、形に表現しなければ承知できないもので、
ワシントン市も現代アメリカ合衆国の隆盛と首都の権威を
有形的に表現するがために、特に新設された大都市である。
歴史が短いので古跡を持たないアメリカは、記念物を造ることに相当に苦心しているが、
金の力で出来たものはいかに立派なものでも奥ゆかしさはない。
説明も欧州では耳にしない金高や大きさと高さのことばかりである。


とはいえ、ワシントン市を1日で見物するのはなかなか骨の折れることで疲れた。
停車場へ行き絵はがきなどを買い求め、午後4時ニューヨークへ戻った。

ワシントンの建築を廻る




近くには陸・海軍省、国務省、美術館、ハン太平洋館、
赤十字社などといった官公署の建物が建ち並び、街並は実に美しい。
海軍省は大公園に面して現在新築中である。
リンコルンが狙撃されたフォーヅ劇場や、息を引き取った家などの前を通った。


その辺りから再度公園に入る。
ホドマック河の岸辺にはたくさんの大株の桜の並木がある。
この桜は二十年前に東京から寄贈したものだが、完全に育って花もよく咲き、
満開の頃は非常な人気を呼んでいるそうで、周辺のホテルなども見物客で満員になり、
一ヶ月くらい前から予約しなければならないそうだ。


車は河や池、泉のほとりを快走し、丘の上のリンカーン記念館に出た。
ちょうど大公園に議事堂と対立して建っている。
白大理石ドリツク風の殿堂で、内部にリンカーンの座像が帳面に据えられている。
さらに車は進み、ホドマック河に架けられた石橋を渡り、
正面高台の国立墓地を見てアーリングトンの丘を郊外へ進み、
カステイス・マンションという邸宅に行く。
ここはジョージ・ワシントンをはじめ、
カステイスまたはリーなどのかつての住居であり、当時の状態のまま保存されている。
ここはホドマック河口で実に景勝の地である。

2011年6月29日水曜日

ワシントン市内見物

 
3月5日 
一夜明けると幸いにも好天気となり、早速タクシーで見物に出掛けた。


まず議事堂を見る。19世紀の完成で、ホドマックの平原丘山にそびえ、
全市を一望できる景勝の位置にある。内部の各部屋を見た。
礎石はワシントンにより据えられたのである。
広間のニッチには米国偉人の銅像や大理石像があり、壁には歴史画が架けられ、
貴衆両院の議場も見たが意外と小さく簡単なものだ。
議員席も傍聴席も同一平面にあり、2階のギャラリーも議長席の上まで出来ている。
外観は好く、均整のとれたルネッサンス様式で、多くは白大理石が用いられ、
上方の大部分は塗装仕上げ、全体的に白色で美しい。


次いでコングレス・ライブラリーや大学などを見て、議事堂背面の大庭園に出た。
正面にはワシントン・モニュメントが天にそびえて建っている。
全体的に白色花崗岩で出来たオベリスクは実に壮観である。
地上550尺あり世界各国の石材を蒐集して建造したもので、中には日本のものもある。
内部は回り階段とエレベーターがある。




続いて大統領官邸・ホワイトハウスを観た。
真っ白な砂岩石で常緑樹の茂る中、蒼い芝生を前に美しい内部も観られた。
各部屋に様々な記念品が陳列されている。もちろん現在も使用されているのだが、
政務に差し支えないところは見物できるようになっている。

2011年6月24日金曜日

Washington 〜ワシントン〜

3月4日
午後2時半、サブでペンシルバニア駅に行った。
駅のさらに地下にサブの改札があり、広場でワシントン行きの往復切符を買う。9ドル。
汽車は満員、プルマンの普通列車で流線型電気機関車であった。
発車間際にまず一服とやっていたら外から窓をコツコツと駅員に注意された。
この車両は喫煙車ではなかったのだ。もっとも私ばかりではなく、
やはり旅行者だろう外国人の婦人も同様に注意されていた。

ハドソンのトンネルを出た辺りから列車は荒んだ工場街を走る。
粗末な木造住宅の小汚い街並が続く。
フィラデルフィアを過ぎるあたりから車窓の景色も良くなる。
午後6時半頃、夜のワシントン・ユニオンステーションに到着した。
とても大きな美しい駅である。駅前の広場に出ると正面には国会議事堂があり、
投光機によって真っ白く光った端麗なドームが闇夜の空にしんとそびえている。

指定されたコンチネンタルホテルは駅前近くで歩いて行った。相当なホテルである。
ロビーは客でいっぱい、部屋も決まり食堂で夕食を済ませ、
夜の市内見物をと外へ出たがあいにくの雨。濡れながら歩いたが次第に雨が激しくなり、
他に歩いている者もなく勧められるままにタクシーに乗り辺りを一巡した。
モニュメントの前から官衛街を横目に繁華街を通ってホテルへ戻る。
明日の天候のことなど気遣いながら就寝する。


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最後の旅仕度

3月3日 
今日は桃の節句である。
ホテルに来ている西部の日字新聞を見ると、さかんに雛人形の広告が出ていた。
ロサンジェルスやサンフランシスコには約56万の同胞がいるのだから、
日本と何もかも変わりはないらしい。午後はビューローに行った。
アメリカ大陸横断旅行のスケジュールができて、一切の準備も依頼できた。
勧められるままに一等列車の座席急行券、寝台料、
各宿泊先のホテルも予約してもらうことにした。これら一切で約2百ドル。
約17日間の旅で1日約9ドル、日本円で30円ほどである。
もちろん食事代などは別で一週間の汽車賃も別になる。ホテル代およびチップなどもいる。
これらを何もかも含めると恐らく1日60円ぐらいになるだろう。
最後の旅を一流ホテルに泊まり、紳士面をして歩くのも思い出になるだろう。
しかしクレジットの方も残り僅かで、あと100ポンドほどしかない。
この先の予算を建ててみると横浜までやっとというところ。
しかし費用面では大体過不足なしに予算通りに行えた点は成功である。
とはいえ少々心細い。土産物なども目をつぶって通らなければならない。


帰りはメッシー百貨店に立ち寄って昼食を済ませた。
それから53丁目の建築専門書店に行ってみたが特に欲しいものも見つからず、
新刊雑誌等を注文して帰った。
夜は再度味の素支店長の案内で日本人倶楽部へ行く。
欧州各地のそれに対し、実に立派なものである。
すでに建物・土地の所有権を有し、たびたび日本からも貴賓がみえているらしく、
その都度の御下賜品などが飾られてあった。


ホテルには新京の長女から手紙が届いていた。はじめて姉の死を報じてきた。
急性肺炎に胃潰瘍を併発したとのこと、妻をはじめ皆々が死に目には会えなかったそうだ。
想像どおりである。しかし妻は小生の出発以来姉と約5ヶ月間も同居したのだ。
今から考えれば決して偶然ではなかったように思える。
ちょうど私が横浜に着く頃は、百か日になる。早いものだ。
次第に私にも姉の死を現実としてはっきり捉えることが出来てきた。
実に人間の命ほどわからないものはない。
あれほど元気で私を送ってくれた姉が、僅か1年足らずで故人になろうとは。

2011年5月14日土曜日

アメリカの民家見学

2月28日 
今日は日曜日で朝からZ夫妻らと郊外の住宅地見物に出かけた。
塀を設けず庭園の手入れが行き届いた面白い住宅を見て歩いた。
新築中のものも今日は日曜日なので作業を休んでいるため、
無断で飛び込んで遠慮なしに見学した。
小さなバンガローだが石材と木造の接合に妙味を見せ、
木の代わりにメッシュやハイリッブを巧妙に使用していた。


来る時は地下鉄を使用したのだが、帰りは汽車を使いペンシルバニア駅で下車、
近くのニューヨーク・ホテルで食事をして、タイムズスクエアで活動写真を観て帰った。
Z氏は大阪の同業、Z組の御曹司で、夫婦連れで世界漫遊中、
夫人は少女のような若くて可愛らしい方である。
まわりは一人旅が多く、仲睦まじいこの若夫婦は周囲をさぞかし羨ましがらせたことだろう。

NY名所を一巡

2月26日 
朝からホテルの自動車で再び市内見物に出た。
まずはダウンタウンの繁華街をひとまわりし、
ブルックリンの長橋を経てロングアイランドに渡り、
マンハッタン・ブリッヂを渡ってハドソン河口に出て河底を通った。
ホーランド・トンネルを通り対岸ニュージャージーに出て、工場街から住宅街、
マンハッタンの北端、ワシントンブリッジまでドライブ。
再びマンハッタンへ入り、アップタウンを通過、
最近竣工したヘルゲートブリッジへ引き返してコロンビア大学前をリバーサイドに出て
グランドトンボを一巡した。ホテルに戻ったのは午後2時頃だった。


ニュージャージーに渡った頃から外は吹雪になり、
セントラルパークを過ぎてホテルに着くまで真っ白い雪景色の街並を眺めながら快走した。
これでニューヨーク全市を大体見た。
碁盤の目状に出来た街路なのでわかりやすい。
一人歩きも容易で、にわかニューヨークっ子のような気になれる。

同朋訪問、建築談義

2月25日 
M氏を事務所に訪問した。
エンパイア・ステートビルの25階にいるM氏は渡米40年、
日本人建築技師として当地で重要なポジションにあり、業界各種の委員を務め、
過去において幾多の建築条例の立案改訂に尽力され、設計完成されたものも多い。
有名なフィフス・アベニュービルなどもそうだ。
エンパイア・ステートビルにも関係されたM氏から、
ニューヨークの建築事情について色々と聞いた。
満州国の宮城の話なども出て、書棚から数冊の書籍を出してきて親切に進言された。
インド建築を基調とした新様式の発現を望まれていた。


あまりに熱心に話されるので、つい食事時間を過ぎてしまい午後2時頃辞す。
帰途はセントラルステーション近くの建築展覧会をのぞき、
次にロックフェラーセンターの科学博物館を見物した。
この近くにあった最新のアパートのモデルの展示会なども見たが、
なかなか斬新なもので得るところが大いにあった。

2011年5月5日木曜日

セントラルパーク



2月24日 
今日は日曜で午前中は休養し、午後1人でセントラルパークを散歩した。
この公園はニューヨークの中心にあり、長さ2里半、幅半里、
現在の地価は日本円で約15億円以上だとか。
岩山や広い緑地、松林その他の森を擁し、桜の木なども随分ある。
池や泉にはたくさんの水鳥や動物が遊び、樹間の緑地にはリスが棲息していた。
公園は大きいが南洋や欧州のものとくらべると殺風景なようだった。


帰途は近くの天体館に入った。
円形ホールの天井に活動写真による星座を映し、日没から夜明けまでの天体の動きを、
まるでセントラルパークで見ているかのように感じられる。これを音楽付きで説明する。
暗闇の中で音楽を聴きながら、いい気持になってつい眠ってしまった。


この建物続きにあるナチュラル・ヒストリー・ミュージアムを観た。
大きなもので、正規の時間までに3分の1も見ることが出来なかった。
陳列品の多くは拡大された模型が実物に揃えてある。
その説明なども実に要領を得ていて参観者には便利なものだ。
各種の動物についてはパノラマ式に自然の事物を背景に、
棲息の様子が子供にもわかるように造られている。

2011年5月3日火曜日

5th Ave, Broadway...



次いでマンハッタンの南端、ハドソン河口のバットリーパークに出て、
クラシックで立派な税関の建物を見て、海岸にある水族館をのぞき、
バスで支那人街に出て、盛んなチャプシーで昼食。
その後、市役所や裁判所を見物し、次にウールワース・ビルディングを見た。
最近までこれが最高層のものだったが、クライスラービルが出来て、
エンパイアが竣工して最高位を譲ったのだが、
均整のとれたゴシック様式の美しいもので、私が好きなビルのひとつだ。




その後ワシントン・スクエアに出て、ここで二階式のバスに乗り、
アップタウンまで約1時間をかけて行った。
上品な雰囲気のフィフスアベニューを通り、
繁華なブロードウェーの大通りを2階正面の座席から右や左、
上を下にと驚異の目を輝かせながら行った。
やがてリバーサイドに出て、無名戦士の記念碑やグランド将軍の墓などを詣で、
左眼下にハドソン河を見下ろす。右側の美しい道路や沿岸の小公園越しに、
7〜8階から15階ぐらいまでの高級アパート群を嘆賞しながらメディカルセンターに出た。
これは各種病院の集合で、クリーム色タイル張りの15〜6階建ての建物の集まりである。
その近くには最近竣成したワシントン・ブリッジがハドソン河上に横たわっている。
この河上の近くに尖塔を頂くリバーサイド・チャーチがある。
次にコロンビア大学を見た。学生の乗り付けた乗用車がたくさん駐車していて驚いた。


目下建築中の聖ジョン・キャセドラルも見た。
竣工のあかつきには世界最大のものになるそうだ。
この丘から見える黒人街を見て、セントラルパークのウエストに沿ってホテルへ帰った。

Radio City 、Wall Street

次に最近完成したロックフェラーセンターのラジオシティを見る。
これは最高ではないが新様式の大きなもので、延べ床面積約6万坪、
工事費に2億5千万ドルというから日本円にすれば9億円近くになる。
主として貸事務所で、下層階は商店、銀行、郵便局、科学博物館などになっている。


道路に出ると大きなミュージックホールがあり、
レビューやシネマなどが終日終夜満員である。
これは他の日にあらためて見ることにしてサブでダウンタウンに向う。




ニューヨーク最主要都市マンハッタンの南端、
摩天楼の林立するいわゆるドルの中心地、ウォール街の銀行会社街である。
まるで深い谷底にいて、屹立する懸崖を見上げるようで、
今にも倒れかかってくるような錯覚を感じる。
しかも谷川のような道路には自動車と人の流れ、
上から見ればベルトに載せてただ動いているようであり、
ひとたびこの流れに巻き込まれたら最後、
身動きもできないほどで実に恐ろしい光景である。
しかし近頃、マンハッタンの繁華は漸次山の手に北進し、
エンパイア付近からロックフェラーセンタービルあたりに移り、
次第に発展を極めつつあるらしい。


マンハッタンには20階以上の建物が300以上あるそうで、
地盤は岩層で地震の恐れはなく、ヤンキー気質で金にまかせて競争的に、
何もかも世界一を目指して建てている。
この調子で建物が空へ空へと高くなっていったら将来はどんなことになるだろう?
ただ実に物質文明の極致というか、
欧州から来てみるとまるで大工場の機械の側にいるような気持ちになる。

2011年4月28日木曜日

摩天楼を望む〜The Empire State Building〜

2月23日 
今日は早朝から市内見物である。
同行は三越のU君、A氏、T氏と私たちで、案内のU君を加えて6人である。
U君は局長のK氏と同郷同窓だそうだ。


最初にエンパイア・ステートビルを見る。
料金1ドル10銭、10銭は税金だ。
急行エレベーターで80階に上り、そこで乗り換えて頂上へ出る。
今日は濃霧で3里ぐらいしか遠望できない。
地上から1,250尺の頂上の展望台である。
眼下に朝寒の霜柱のように屹立する大小のスカイスクレバー群は実に壮観である。






エンパイア・ステートビルは5番街と34丁目の角にあり、
外装は淡白色の砂岩石で、窓枠、内外の建具類は一切がステンレスである。
内部は壁、床とも多くに大理石が美しく用いられている。
最近まで60階、790尺のウールワースが最高層だったが、
1930年、千尺あまりの75階建てクライスラービルができ、
その翌年、1250尺・120階建てのエンパイア・ステートビルが出現して
世界最高建築となった。頂上には飛行船の繋留塔がある。
この建物はすべてが貸事務所で建物内に執務する者は2万5千人、
他からの出入者が1日6万人、エレベーターの数は57機、
毎日見物客だけで平均4千人ぐらいの出入りがあるそうだ。

2011年4月27日水曜日

NYの第一夜

定刻3時、クイーンメリー号はキューナードの埠頭に横付けになる。
こんな狭いところに来ると巨船は厄介なものだ。
4隻のランチで押したり引いたりしてようやく繋留することが出来た。
現在に於ける世界の巨船クイーンメリー号での5日間の旅もかくして終え、
無事にアメリカの土を踏むことが出来た。


広い建物の中に頭文字順に並べられた荷物を、税関吏がなかなか細かく調べる。
別に問題もなかった。2個の写真機も無事通った。


満鉄のO氏や国米ホテルの出迎えを受け、ミシンで73丁目の国米ホテルに向かった。
ニューヨークでは自動車のことをミシンというそうだ。すでに午後5時だった。
部屋を決めて下のホールに降りると食堂に夕食の用意が出来ていた。
同宿の日本人は約10名だ。
マダムは一々紹介する。食後は夜の市街見物に出掛けた。
サブ(地下鉄)で42丁目まで行き、タイムズスクエアの繁華に驚き、
ラジオシティやロックフェラーセンターの大ビル群を見て、
名物のバレスクを見てから10時頃、ニューヨークの第一夜をベッドに潜った。
気遣ったほど寒くもなく、欧州にくらべて快晴である。


 


国米ホテルは私と同郷のとある未亡人の経営である。
別に1人の婦人がいて、私の姉の嫁ぎ先の上道郡出身ということで自然と色々話をした。
なかなか立派なホテルで、相当に金持ちな住宅街の一角にある。
室内装飾、家具などはかなりのものが使われている。
食事は一切が和食で、在宿人一同で揃って食べる習慣のようだった。
材料の豊富なここでは本物の日本料理が出てきた。
特に色々な漬け物が美味かった。

2011年4月26日火曜日

アメリカ大陸へ


2月22日 
いよいよ今日はニューヨーク上陸の日である。
朝食後、荷物の整理をしてウェーターに渡す。頭文字の札を貼り付け、
別に税関へ提出の荷物のリストなどを作成して差し出す。
事務室ではラウンジチケットや入国税の受取証などをくれる。
船中の知人に別れの挨拶をする。上陸一切の用意は出来た。午後3時上陸とのことだ。

正午頃、すでにハドソン河へ入り左側に大陸の沿岸を望む。
次第に白壁の点々とした家屋が見えだす。昼食頃には左に砲台を間近にし、
前面には遥かに自由の女神像を通して、遠くマンハッタンのスカイスクレバーを霧の中に望む。
やがてロッジで米国官吏の調べに応じ、上陸券の下付を受け、
2時頃から世界の驚異的存在である霜柱のようにそびえ立つ大建築群を目前に、
巨船クイーンメリー号はハドソン河を静かに上る。

競い立つ高層建築、静かに移り変わる景色、人と物質の力、科学文明の局地的存在、
折からの晴天に恵まれ実に身を振るわすような感激的光景である。






2011年4月25日月曜日

船上での、武勇伝










フランスの汽車から一緒だった米人老夫婦、フジタ画伯の友人だというフランス人、
キューバに行って飛行機の研究をするというスペイン人の若者、
米国を経て日本に行くという花見の英人らと拙い英語で話した。
ほかに1人のベルギー人がいて、これが巨大な体躯をしたやつで、
よほどの酒好きと見え、早朝から夜遅くまで酒ばかり飲んで船内を暴れ回って、
誰もが敬遠して相手にしない。
私たちのところへも無遠慮に割り込んで来るので閉口していたが、
はじめのうちは敬遠してなるべく相手にしないように気を付けていた。


ところが今日、昼食を終えスモーキングで前記の日本人の方々と話しているところへ
その彼が例のごとく割り込んで来た。
私とT博士とで壁際のソファに腰掛け、前にその他の方々がいて話していたのだが、
私たちの間へ割り込んで、どっかりと座り込んだのである。
しかも前のテーブルに置いていた私のタバコをいきなり取って床に叩き付けた。
いきなり割り込まれ少々むっとしていたところへそれであるから、堪忍袋の尾が切れて、
私は立ち上がると同時に拳を固め、その男の横顔にくらわした。
するとその男は何ごとか大声を上げながら向かってきたので、
これはまともに取り組んではとても勝ち目がないと、
彼が立ち上がるのと同時に腰を屈めて、男の片足を力いっぱい引きつけたら、
ソファやらテーブルの間にどーんと横倒しになった。
さぁ大騒ぎだ。するとそのうち赤服を来た2、3人のウェーターや事務員が来て相手を止めた。
気が付いて見れば広いスモーキングの中は総立ちである。
一時はどうなることかと思ったが、よく見ればみんな笑ったり、拍手の真似をしている。
どうも私に好意の目を向けているように見えたので、内心ホッとした。
中にはこちらへ飛んできて、私の手を握るものもあった。
例の男は船員に連れ去られたが気掛かりなので、事務長の所へ挨拶に行き事情を述べておいた。
船がニューヨークに着きホテルに着くまで、仕返しをされはしないかと心配だったが、
彼はそれきり遂に一度も顔を出すことがなかった。思わぬ武勇伝をやらかしてしまった。
おかげで翌日からあちこちで指差され、すっかり英雄になってしまった。
考えてみれば余計なことをしたものだ。
しかし永久に忘れられない印象だろう。

船上生活

3月20日 
今日の夕食は私たち日本人のために、司厨房長の好意で日本食が出された。
綺麗なメニューまでちゃんと用意された。
吸い物に天ぷら、煮物にすき焼きだった。
食器などもきちんと用意されてあり、飯櫃まであった。
周囲の外国人連れも珍しそうに見ていた。

船の食事は朝食が8時から。
果物またはジュース、オートミール、ハムエッグ、魚のフライ、
それにパンとコーヒーで、11時頃ラウンジで軽い音楽タイムがあり、
スープにケーキが出される。昼食は1時半からで相当のご馳走が出る。
もちろん個人がメニューから選んで注文するのだ。
3時半頃になると活動写真やら、スモーキングでの馬レースなどがあり、
お茶やアイスクリームが出される。
夕食は7時半からで皆タキシードで出る。私たちは失礼して平服で押し通した。

その間外国人たちはトランプなどで遊び、
デッキではゴルフやラケットを使わないテニスをさかんにやっている。
デッキの日あたりのよい所では寝椅子に寝転び、静かに読書する人なども多くいた。
夕食後は音楽会があり、礼服でダンスなどをやる。

2011年4月24日日曜日

クイーンメリー号に乗船、北米を目指す

2月17日 
正午、サンラザール駅を発ちセルブルグに向う。
駅頭には東日のK氏およびN君らが見送りに来られた。
この列車はホワイトキューナード会社の
クイーンメリー号乗船客のために用意された特別列車である。
各等2両に荷物車を付けた1列車だ。各等満員。
私たちのボックスは白髪の上品な老夫婦に、米・仏各1名の商人、そして私たち。
約5時間を要し、午後5時半セルブルグに到着した。
途中の車窓は今までになく好い景色だった。


埠頭で荷物の検査やパスポートの調べがあり、ここで荷物一切を預けて船中で受け取る。
大連埠頭の待合室をちょっと大きくしたぐらいで、かなり大きな埠頭ではあるものの、
クイーンメリー号は横付けできず沖待ちなので4隻のランチで本船に向う。
大きなランチなのであるフランス婦人など、これがクイーンメリー号かと聞いて大笑いだった。


やがて中天にかかる寒月を仰ぎながら、電光の燦々たる市街をあとに、波を蹴り、沖に出る。
クイーンメリー号は浮城のごとく、大ビルディングに自動車を付けた程度に感じる。
9層楼の側窓に電飾が輝き、それが水面に反影してなんとも美しい。


船室も決まり荷物を受け取ったが、3個のうち
肝心の手回り品を入れた手提げがどうしても見つからない。
ボーイに連れられて広い船中の長い廊下を昇ったり降りたりして探し歩いたが
遂に見つからなかった。明朝にしてくれという。仕方がないので食堂で夕食をとる。
約300人収容の大きなものである。
本船の1等は私たちには少々窮屈だというのでツーリストクラスに決めたのだが、
船底8層の全部がそれで、大きく美しいロッジやスモーキング、ライブラリー、
果てはプロムナードデッキなどがあり、相当に立派なものである。
しかも新様式に仕上げられている。日本人は全部で7人。
ドイツ留学中だった台北医大のT博士、新潟大のA博士、ロシア留学中だった
東京外語大のS夫妻に日本電気のH技師と私たちである。
食後は欧州の話がはずんだ。

パリを名残惜しむ

2月16日 
いよいよ明日はパリを出発、
セルブルグに出てクイーンメリー号で渡米の途につくことになった。
滞在中ご厄介になった諸方へ挨拶に出掛けた。今日は相当の雨で少々寒い。
午前中はそんなことで終え、午後は雨の中を濡れながら
エッフェル塔からナポレオン墓所へ詣で、コンコルド広場に出て、
シャンゼリゼからエトワールの凱旋門などに名残りを惜しむ。
大抵の場所は見尽くしたつもりでも、いよいよ離仏となると
何か見落としているようで心残りである。
凱旋門の下に立ち、雨に霞む十二条の放射線道路、
遠く雨下のマロニエ並木を通じてルーブル美術館を望み感慨無量である。
再び見ることもないこれらの景色を心に留めた。

2011年4月23日土曜日

パリ市の交通、街、世俗

パリ市には大部分で地下鉄(メトロ)が敷かれている。
数両を連結した列車がおよそ1分おきに運行し、車両には喫煙禁煙の区別、
1、2等の等級があり、もちろん乗り換えは自由、
会社経営で建設はすべて市が施工し、これを無償で会社に譲渡、
乗客1人あたり1銭ばかり徴収している。
ここでは地下鉄のことを会社の名を取ってメトロと呼んでいる。

他に地上には乗り合い自動車(バス)があり、2階はなく後ろから乗降する。
この経営も民間会社で料金は区制で、これにも1、2等がある。
路面電車もあるにはあるがこれに替わりつつあるようだ。

市内には約40万台の自家用車やタクシーが走り、
さすがのブルバードも夕方のオペラ付近は詰まって動けないぐらいだ。
料金はメーター制で、必ずいくらかのチップをやる習慣である。
夜12時以降は倍額だし、道路はゴー・ストップがあり決して早いものではない。
やはり最も便利で、安くて、早いのはメトロだ。
しかしちょっと馴れないとなかなか乗れない。

オペラ前から東方面にかけてがもっとも繁華なところである。
美しいブルバード、広い人道にはカフェの色とりどりの椅子が5、6列並べられ、
昼過ぎからたくさんの男女がゆっくりとコーヒーを飲んだり食事をしたり、
いかにも楽しそうにしている。これは他にはないパリの特徴である。
この椅子に腰掛けて舗道の通行者に秋波を送る女がいる。
ちょっと笑顔でもしようものならすぐについて来る。

フォリベリゼーのレビュー、
ムーランルージュのダンスホールなどは実に賑やかなものがある。
このあたりを1人でうろうろしていれば案内人がいろいろ勧めてくる。
いわゆる歓楽街に案内してやるというのだ。
パリの裏側では外人に金を使わせるにはいかなることをしても
黙認するフランス政府の醜悪な繁華街がある。
まぁ1度ぐらいは確かな人の案内で見ておくものだろう。
そこには理屈抜きに近代都市経営の真理があるように思う。
偉大な歴史的記念物の豊富さはパリ市繁栄の基礎を成していることは明らかだが、
裏面の思いきった歓楽施設と、遺憾なき近代都市施設が魅力であることは言うまでもない。
約20万のストリートガールと酒を通じて外遊客の落していく金は、
年間で日本円の10億に近いとのことである。政府がこれを真剣に考えるのも無理はない。

歓楽的にみえるパリ人は甚だ浅薄なようだが、
その遊蕩的な一面は外国人観光客の欲求によるもので、
フランスの国民性を物語るものではない。
彼らはむしろその正反対に経済的観念は強く冷静で、その守銭奴的一面の現れだろう。
とくにこの国には全国民の6割を数える堅実な農民のいることを忘れてはならない。
王政に惰することなく、社会主義にあらず、しかし相当に富める国であるのは、
彼ら農民がいるということがフランスの強みである。

パリの都市計画



パリの都市計画はナポレオン3世時代にできた。
放射線状の典型的なもので、公園、広場、街路など全てが美的にできている。
世界一を誇るコンコルド広場は自動車時代の今日でも尚、狭さを感じさせない。
八方へ広がる広い道路、シャンゼリゼからエトワールの凱旋門、
テュイルリー庭園からルーブル美術館へ至る遠大な設計、広壮な計画は
都心に広々とした余裕を示しており、セーヌ河の流れ、そこに架けられた橋梁の美、
粋を極めた市街の建築記念物の美しさ、繁栄を極めたブルバード、
実に世界無比の都市美である。
まことにパリは断然頭角を抜いた世界のキャピタルの感がある。

パリの労働事情



現在のパリにはほとんど見るべき建築工事はなく、
僅かに博覧会工事と前記の飛行場ぐらいのものであった。
パリでは民間の建築家は悲鳴をあげ、
労働者は副業または失業手当でささやかに暮らしているとか、気の毒なものである。
失業手当は1日10フラン、妻子ある者は各4フラン
家賃付き40フランを直接家主に支払ってくれるとか。
これでやり方によれば1日にワイン1杯もやれ、シネマぐらいは観られるそうだ。
しかも1週40時間、最近では38時間労働制が叫ばれていて、
これが成功に近付いているとのことだ。
7割の社会党員を有する現内閣によって、労働者は実に優遇されつつある。
しかし私たちが見たところ、労働者の現場における活動能率の悪さは呆れるばかりである。
木靴を履いてのろのろと、3尺程の土管を2人がかりで運んでいる様を見て嫌になった。
労働時間はなるべく短縮し、賃金値上げを叫び、
その反面で個人的生活は酒と女で裸の生活である。
結局は野蛮に帰る、文明の極致とはこんなものなのだろうか。

2011年4月22日金曜日

建設中のオルリー空港を訪ねる




2月15日
今日はブラツサルモパン会社の案内で、目下建築中の交通省の飛行場見学に行く。
約40分で現場に到着。在来の建物を漸次取り壊し、平面積約7000坪、
鉄筋コンクリート造3階建て、外部はすべて大理石張りのモダンな新様式である。
すでに八部通り竣工し、一部分は使用されている。


約3時間に渡って見物したが、目についたのはエアコンプレッサによる
コンクリート打である。階下の一部にモーターを据え、ミキサーを通じて
六●ぐらいの鉄管で各階の現場へコンクリートを送り打ち込んでいる。
相当の速度で打ち込むので棒突などは一切不要、
鉄筋にもよく密着し細部にも打ち込めて非常に能率的なようだ。
瑕枠も1メートルほどの鉄板を並べていたが、
外したあとのコンクリート肌も平均的でムラがなく、
後からモルタルで塗りつぶすような無様なことはしていない。
その作業能率を比較して、機械設備、電力操作の手数などを計算し、
在来施工法と比較研究する必要があるだろう。


その他、屋上の防塞装置あるいは防水工事は、気候に恵まれた土地だけに
すこぶる簡単なものである。防空防毒に対しては何ら設備せず、
戦時はまったく報捨する考えだと係員は言っていた。
丸天井が5〜6カ所あるが、円形のプリズムで装飾と採光を兼ねているが、
外部に僅かに防水装置があるだけで、
内部はそのスラブ下に直にピラスターが塗ってあるだけだ。
これで冬季も凍害なく解氷期にも問題ないとは羨ましいことだ。
めずらしく見たのは、普通の天井下地が長さ50センチ・幅30センチ・厚さ6センチぐらいの
中空タイルを3個ほど繋ぎ合わせ、三分丸鉄筋で固めたものを
各コンクリートビームの径間に釣るし付け、その面を漆喰仕上げとしていることだ。
採暖と防音装置だと言っていた。
また瑕枠なども相当の径間のあるもので、同一形体のものは鉄骨を使用し、
または立派なトラスを組み、移動的に組み立てられていた。


本工事完成後は欧米における最大の空港となるそうで、
800万フランを要し、本年5月の博覧会開催までに竣工予定である。
フランス政府の建築業務の処置はさすがに自由の国だけあって各省分立であるが、
大体必要なものは公務省で会議する程度で、
設計施工ともに主要なものはコンクールにかけ決定するとのこと。
請負の方法も欧州一帯同様に分業的で、
公入札制によってその決定は相当に手数と日時を要するものである。

パリ滞在・・・




2月1日 
珍しく晴天である。
10時頃ホテルを出て伴野商店に託送の荷物を持参した。
色々と買い物をして一切の仕度を済ませた。約2000フランである。
3月19日着の神戸行き箱根丸で大連へ積み替えるはずだ。


次に郵船の支店へ立ち寄ってクイーンメリー号の乗船券と、
太平洋航路・浅間丸の切符も一切が用意出来ていたので受け取った。
差額賃金や米国入国税8ドル、およびフランス出国税30フランなど一切を支払う。
これで横浜まで帰ることが出来る。
帰途、日仏銀行へ立ち寄り最後の50ポンドを引き出した。
残額150ポンド少々、これだけで米国旅行をしなくてはならない。
相当に倹約をしなければ不足するだろう。
2時頃から建築関係の書店へ行き、あれこれと3冊ばかり買い求めた。
目新しいものはなかった。夕食は都ですき焼き。
三越の宇都宮君もいた。大西洋も太平洋も同船らしい。




2月2日 
大使館にI氏を訪問したが留守だった。ここで林内閣成立を聞く。
次いで博覧会場の日本館に氏を訪ねたが不在であった。


2月3日
博覧会場を見ながらセーヌ河沿いにノートルダム寺院まで散歩する。
寺院の屋上に昇る。晴天なので市内全体がよく見える。
例の怪異なガーゴイルの彫刻が目の前にある。
何百段かの暗い回り階段を上下した。
そこからイタリア街に出てマデレン座でシネマを観た。


ホテルでベルリン以来一緒だった台北医院のA氏に会う。
17日のクイーンメリー号は同船とのこと、サロンで遅くまで話した。

5度目のパリ




正月29日 
今日1日は休養だ。昨晩は妙なもので、しばしの宿といえども
まるで我が家へ帰ったような気持になり、よく眠れた。
しかし風呂の排水が破損して使えなくなったのには閉口した。
朝食後は諸方への通信や日誌など様々な整理をする。今日は少々曇天で寒い。




正月31日 
日曜でよい天気である。カメラ片手にバスでマドレーヌ寺院へ詣でる。
日曜日の礼拝者でいっぱいだ。亡き姉の冥福を祈るため黙祷して礼拝した。
そこからぶらぶらとコンコルド広場へ出て、
シャンゼリゼから左折しアレキサンドリア三世橋畔へ出る。
パレスギャラリーのマネジメント展覧会を観る。
家庭用品一切や建築の展覧会もある。博覧会の模型や図面も出ていた。
そこの売店で建築の雑誌を2〜3冊買う。

そこから再びシャンゼリゼへ出てエトワールの凱旋門に出て、
ダーフィンの並木道をボロジン公園へ出た。
広いマロニエの並木道にはたくさんの散歩者。
両側の青々とした芝生を隔てて乗馬道があり、
洒落た男女のギャロップ姿も好いものである。
両側の緑樹の葉隠れには美的建築も見える。公園はほとんど森といってよい。
大きな池には白いスワンが浮き、ボートに乗った男女が池の中を右往左往している。
岸辺には糸を垂れる者、垂直の松の木、
白樺の林の中で乳母車を押す女、
睦まじそうに手を組む男女、
ローラースケートを履き道路上で盛んにたわむれる子供の群れ、
実に溌剌と生を楽しんでいるようである。

2011年4月21日木曜日

ハーグ平和宮

正月28日 
ハーグの朝も特に寒い。教えられてホテルの前から8号電車に乗り、ピースパレスへ行く。
20分ぐらいでパレス前の広場に降ろされた。
途中の街路に相当モダンな建物を見受けた。
ピースパレスは午前中、門から中へは入れない。門衛の番人に色々交渉したがダメだ。
門のところから写真を撮ることだけ許してもらう。
内部は午後2時から見せるというのだが、私たちは1時50分に出発の予定なので思いきった。
パレスは写真などで見た通り、よく均衡のとれた立派なものである。
色の感じも良い。そのディテールなども良くこなされている。庭園も実に立派だった。


とても寒いので、大急ぎで近くの新様式のものなどをカメラにおさめ
マウリヒュース・ミュージアムへ行き、レンブラントの解剖講義の絵なども観た。
王城の7つの門のある現国会議事堂、古くは平和会議のあった所などを見て急いで宿へ帰り、
午後1時50分パリ行きの急行列車に乗る。
急行料金に45フランばかり取られ、午後7時40分、パリ北駅に着いた。


タクシーでホテル・マスネへ帰ったが、前の部屋に病人が出て消毒したそうで、
とても臭うので5階にかえてもらう。
腹が減ったので久しぶりに「都」へ行って日本食をたらふく食べた。
階下では三井支店長の送別会が行われている。
パリは風もなく暖かである。これで欧州における最後の旅行を終えた。
当分ここパリに滞在してゆっくりと気分を味わうことにする。


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アムステルダムの建築見学




正月27日 
今朝はとても寒い。季節外れで観光バスもないので、自動車を雇って見物に出た。
市の中心のダム広場に出る。壮麗な宮殿、その後には教会などがあり、
市役所の前を通り郵便局や大きなリュクス博物館などを見た。
フォンデル公園には詩人フォンデルの銅像がある。赤レンガのオペラの前は賑やかである。


アムステルダムはベニスとストックホルムを1つにしたような水の都で、
運河が縦横に走り、色々な形の橋がたくさんある。
それから新市街の方へ出てみたが、建物はすべてモダンで立派だ。
多くはレンガの見出し積みだが、よくデザインされ、
それぞれのディテールはみなよいものだ。
今までに見た欧州のどれよりも優れているように思う。
欧州において近代建築はオランダがそのトップだろう。
しかもその用材や建物の程度が日本や満州に似たもので、じかに応用でき、
ここに少し落ち着いたら参考になるものがたくさん集められると思う。


幸い市内の書店を漁ると新様式の書籍が見つかり買い求めた。日本円で30円ほどであった。
またここは世界のダイヤモンドの原石が集り加工される場所で、
その工場が大小約10カ所もある。その1つを見せてもらった。
たくさんの職工が分業的にやっている。仕上げには20人ぐらいの手を経るようだ。
あの多角形な形を作るには色々な機械を通し、みな拡大鏡で作業している。
ここにはダイヤモンドの取引所もあり、価格その他の統制をやっている。
物価が非常に高く、珍しいものもあったがちょっと手が出せない。


午後4時の汽車でヘーグに向う。
駅前のホテル・テルミナに投じる。ここは国際都市でホテルもなかなか立派だ。

アムステルダム

正月26日 
今朝は雪だ。少々風邪気味で頭が重い。
たいして見るものもなく、姉のことなどが考えられるので
外へ出る気もせず部屋で手紙を書いて過ごした。

午後1時30分の列車でオランダのアムステルダムに向う。
座席にいると、昨日ブリュッセルで一緒に見物したオランダ人の2人連れがいて、
わざわざ私たちの部屋に挨拶をしに来てくれた。
2人とも商人で、1人はアムステルダムから少々離れた街で雑貨商をしているという。
店の写真などを出して見せてくれる。もう1人は宝石商だ。
カタコトの英語で色々と話した。約3時間の車中、退屈しなかった。

雑貨商さんは2人の娘がいて1人は20歳。雅子と同じで、
もう1人は15歳、妙子と同じだ。2人ともなかなか美しい。
別の写真を出してこれは妹の家族だという。
11人の子供がいるがつい最近そのご主人が死んで、
自分が生活を援助しているのだという。人ごとではないように思った。
私たちも家族の写真を出して見せた。日本の着物がとても美しいと珍しがっていた。

4時半頃、アムステルダムに着いた。途中は雪景色が好い感じだ。
ウインドミルも季節外れであまりのどかな感じではない。
平地には間隔を置いて運河が出来ている。
ホテル・ヴィクトリアに投じる。駅の近くで相当なホテルだ。
夕食後、明日の見物のことなどを頼む。寒くて雪の市内には出てみる気にもなれず、
オランダ風俗の絵はがきなどを子供たちに出した。


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アントワープ




3時頃、尚1時間ばかりあるのでバンドボザールに入る。
ここではロダンの彫刻、ムニエの労働者マーラの死、アダムとイブの名画などを観た。


午後3時、ホテルの近くにある北駅を出発しアントワープに向う。
約35分間で着く。ホテル・ロンドネスに投じる。
昼食のビールが効き、ソファにもたれたままいつしか眠ってしまった。
目覚めたのが午後6時、外はすでに暗く、夕食まで尚時間があるので
外へ出てみたが非常に賑やかである。1時間ばかり散歩した。
食後、外はかなり寒く別に見るものもないのでシネマへ飛び込んだ。

2011年2月11日金曜日

ブリュッセルの建築

ブリュッセル中心街は土産物屋でいっぱいだ。
中央銀行やドイツ銀行、幅一尺五寸ぐらいのアーケードの道路、大学なども見た。
これらは政府の管理ではなく、州と市と個人の出資による経営だそうだ。
高台で国会記念碑の大円柱がある取引所も見た。
その下は無名戦士の墓で通行人は脱帽して通る。私たちも敬礼した。
高さ140尺ぐらいで頂上にはレオナルド1世の巨像が建ち、
入口にはブロンズのライオンがある。
台座の女神は国語、出版、教育、信仰、自由を表したものである。


公園を抜け、凱旋門のあたりは良い眺めである。
左右には自然科学博物館や工芸美術館などが、凱旋門の両翼としてよく出来ている。
これで大体の見物は済んだが、郊外のブルバードにある約20年前の建築家を騒がせた
セセツションのレジデンスを再度見るためにタクシーを走らせた。

美しいマロニエ並木、古い様式の建物の中で、断然特殊な存在である。
近くに新様式のものもたくさん出来ているが、これには追従を許さない。
たいして大きなものではないが、その高低のプロポーショナリーな点、
ディテールの大胆かつ繊細な線、
壁面は白砂岩石に金色のモールディング、塔の型も自然で良い。
特に玄関の車寄せの人像はブロンズに金をあしらったのみで、非常に有効に活かしてあった。


2011年2月8日火曜日

ブリュッセル 〜Brussels〜

正月25日 
今日は午前中にブリュッセル見物をして午後はアントワープに行く予定だ。
シティの観光ツアーは10時頃から。
ホテルへ車が迎えに来たがあまり客はなく、
私たち以外には2人連れのポーランド人だけなので、そのまま自動車で出掛けた。
市内を見晴らす高台にそびえる裁判所を見る。
どっしりとした偉大なものである。実に壮観で裁判所としては世界無比だろう。
しかし裁判所があまり立派なのは感心できない。
しかも建築的に見てもあまりよろしくない。ディテールもどうかと思う。


その前で陸軍省を建設していたが、
新様式のさっぱりとしたものでその方が遥かに良いと思った。
次に宮殿の前へ出る。4階建てでさほど大きなものではないが、
屋根のあるフレンチ・ルネッサンス風の落ち着いたもので、
中央ドームにはベルギー国旗が翻っていた。
その前は道路を隔てて美しい公園で、花壇に続いて噴水塔や彫像がある。
これは大したものではないが内部はミュージアムで、
多くの名画があるということだが休みで観られなかった。


大古刹グチュル寺院も見た。
ゴシックの大伽藍は丘の上に屹立し、市内を見下ろしている。
市の中心にグランプラスという小さな広場がある。
ここにはネーデルランド風の市役所がある。
古いものでその周囲のものと共に市の名物とされ、美術的建築の粋とされている。
外部にはさかんに金色を用いてある。
この市役所広場を南へ出ると細い街路のかどに、
鉄柵で囲んだ例の世界の子「小便小僧」の噴水がある。
一坪ぐらいの広さで「小僧」は一尺ぐらいしかない。
これがブリュッセルの元祖ともいい、世界中の人から愛されている有名なもので、
小さいおちんちんから小便ならぬ噴水をにこやかにやっている。



2011年2月3日木曜日

ベルギー、ウォーターローへ。

正月24日 

タクシーをパリ北駅へ走らせた。今日は日曜日で朝も早いので市街は静かだ。
ノーストップで早く着いた。列車はリザーブしてあるのでその席に着く。
また姉のことを思いながら寝不足の頭が重い。



12時40分、ベルギー、ブリュッセル南駅に着く。
ホテル・パレスに投じる。一流のホテルである。
昼食後、早速ウオータロー見物に出かけた。
一行は日本人が私たち2人、ドイツ人が1人、英国人が1組。
案内は英仏独3ヶ国語でやる。日本語も二言三言は知っていた。
なかなか面白いガイドで説明の合間に諧謔を入れて皆を喜ばせる。
英国人夫婦がチョコレートを出して勧める。フランス人はタバコを差し出す。
英国人は日本に行ったことがあるといい、横浜だの神戸だのの話をしきりにする。
船員だろうフランス人もしきりと好意を示す。和やかなものである。


街はずれの立派な公園に入った。
極彩色の支那建築と向かい合わせに本物の五重塔に木彫りの美しい楼門があった。
外人連れは『ジャパンジャパン、ベリーグッド!』などしきりに褒める。
立派な住宅街を通った。
美しいブルバードの両側になかなか気取った家がしばらく続く。
コンクリート舗装の立派な道路が設けられている。
やがて森に入る。
紅葉の落ち葉を敷いた一直線の樹木、奥底の知れぬ森のようだ。
今日は日曜日なので自動車でピクニックに来ている人がたくさんいる。
途中でユーゴーの家を通り過ぎ、ウォーターローの街に着く。寂しい街だ。


ここはナポレオンの古戦場でピラミッド型の丘の上に巨獅子の記念碑が建ち、
その下にナポレオン敗戦のパノラマ館がある。パノラマは随分久しぶりに見た。
それは30年ぐらい前に東京で、奉天合戦だったと思う。
記念碑に登ったが石造りの階段を約230段、登り着いたら息が切れるようだった。
たくさんの小学生が先生に連れられて登っていた。教師がしきりに説明していた。


宿に帰ったのは5時頃。夕食後、1時間ばかり静かな街を散歩した。
しかし少々寒いので早々に寝た。

2011年1月21日金曜日

姉のために涙する夜



Y君からは役所の機構改変について細々と書かれていたが見る気がしない。
シャンゼリゼの大通り、人と自動車の波、日頃でも大変なのに今日は土曜日、
非常な人出だが私には何も感じない。少し風のある、森の中のような気がする。


明日からオランダ行きなので切符を受け取りに行き、早々に帰宿した。
丁君にも妻君からの手紙を渡す。
そこに何か書いていないかと話しながら読んでいくのを待った。
やはりあった。私から話すまで内緒にとして、
12月30日から発病、1月3日午後、大連病院で死去とある。
間違いではない。厳然たる事実なのだ。信じられないことを信じなくてはならない。

部屋に戻り、とめどもなく流れる涙の間に好き姉を思った。
まずお礼を言った。今さら礼など仕方がないが自然と頭が下がるのだ。
私たちのために真に喜び、悲しんでくれた姉。
ことに長い間たくさんの子供が世話になった。
妻には姉とはいえ、事実上の母であった。力とも柱ともなってくれ、
ほとんど一身のように仲が良かった。いや、大きな愛で抱えていてくれた。母の愛である。
常に家にばかりいる姉、比較的世間に疎い姉を妻は補っていたようだ。
妻は力を落したことだろう。ほとんどなるところをしらないだろう。
私も世の中が真っ暗になったようだ。真に私の帰りを喜び、迎え、
私の話を喜んで聞いてくれるはずだった。


パリで姉のために2、3のものを買っておいたが何になる、
好きなうどんを美味そうに食う姿も永久に見られない。
別だん不自由もなかったが、一生働き通し真の生き甲斐をその内に感じていたように、
夜など2時より早く就寝することはなかった。
何ひとつ小言を言わず、常ににこにこと、接するものをみな和やかにした。


あの出不精の姉が一昨年、新京に来てくれた。
今考えれば私たちの新京での生活を見ておきたかったのだろう。
どういうものか自分の家に応接間が欲しいと言って、それも昨年立派に出来あがり、
わずか半年ばかり住んだのである。思えば悲しい思い出ばかりだ。
私は涙に曇るメガネを拭きながら妻に手紙を書いた。思いはそれから止めどもない。
姉の子供も皆これからだ、心残りだろう。
人の世に生存することの辛さをつくづく考えさせられる。


妻も12月20日頃まで大連にいたはずだったが、新京に帰って間もないこと、
恐らく死に目にはあえなかったことだろう。どんなに嘆いていることか
私が亡くなったよりも、きっと力を落としたことだろう。
妻よ泣け、うんと泣け。お前の好きな姉のために…。


早、午前3時、明朝は8時に起きなければならない。
ともかく服を脱いでベッドに入ったが眠れるものではない。
心配すると思って知らせてこないのではあるが、
すでに知った以上、私の気持は黙って入られない。
早速「ヨキアネヲオモヒナキアカス」と打電し、妻に手紙を出した。
また涙を新しくしてすまないが仕方がない。

2011年1月19日水曜日

姉の死

正月23日 
三井支店へ行く。丁君は気分が優れないので1人で出掛けた。
局から電報で「願の件を許可する」とあった。これで米国経由で帰れる。安心だ。
次に局の矢追氏から長文の手紙が来ている。最初に


「奥様は正月4日、大連の御令姉が死去されお子様共々大連へ行かれた。
 今妻から電話があったのでちょっとお知らせします」とある。


大連の令姉…令姉といえば梅本の姉しか今はいない。
梅本の姉が死去…?
あの達者な姉が、何かの間違いだろう、とふたたび手紙を見直す。
しかし「令姉」とはっきり書いてある。
これは大変だ…!私には信じられない。そんなバカなことがあるものか。
出発の朝、あんなに元気で色々と注意してくれたり、別宴の食卓の用意をして、
別盃をくんだではないか。あの姉が…。私は頭が混乱して何もわからなくなった。
支店長が昼食を一緒にと勧められたが、それどころではない。
一応お断りしたが、先達からお話もあったことでもあり、断りかねて結局お供をした。


シャンゼリゼの立派なレストランである。
たくさんのご馳走が出たが、私には味も何も感じられない。
つとめて平静にと心掛けたが、話はとんちんかんなものになる。
支店長は近々ロンドンへ赴任予定で、海外居住者は子供の始末に困るという話から、
私に『子供をどうしているか』とお尋ねになり、
一部分は新京に、3人ばかりは大連に、と答えると、
『奥様が付いておられるのか』と聞かれ、いや姉が…といったきり後が続かない。
涙がぽたぽたと落ち、もう立派な部屋も紳士淑女も何もかも見えなくなった。

早々に支店長と別れ、1人でシャンゼリゼからコンコルド広場まで歩いた。


公園のベンチに腰掛けて再度手紙を出してみる。
やっぱり令姉とある。梅本の姉に違いない。留守宅からは何も言ってこない。
知らせたからといってかえって心配させるだけだと知らさないのだろう。