ラベル フランス の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル フランス の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011年4月24日日曜日

パリを名残惜しむ

2月16日 
いよいよ明日はパリを出発、
セルブルグに出てクイーンメリー号で渡米の途につくことになった。
滞在中ご厄介になった諸方へ挨拶に出掛けた。今日は相当の雨で少々寒い。
午前中はそんなことで終え、午後は雨の中を濡れながら
エッフェル塔からナポレオン墓所へ詣で、コンコルド広場に出て、
シャンゼリゼからエトワールの凱旋門などに名残りを惜しむ。
大抵の場所は見尽くしたつもりでも、いよいよ離仏となると
何か見落としているようで心残りである。
凱旋門の下に立ち、雨に霞む十二条の放射線道路、
遠く雨下のマロニエ並木を通じてルーブル美術館を望み感慨無量である。
再び見ることもないこれらの景色を心に留めた。

2011年4月23日土曜日

パリ市の交通、街、世俗

パリ市には大部分で地下鉄(メトロ)が敷かれている。
数両を連結した列車がおよそ1分おきに運行し、車両には喫煙禁煙の区別、
1、2等の等級があり、もちろん乗り換えは自由、
会社経営で建設はすべて市が施工し、これを無償で会社に譲渡、
乗客1人あたり1銭ばかり徴収している。
ここでは地下鉄のことを会社の名を取ってメトロと呼んでいる。

他に地上には乗り合い自動車(バス)があり、2階はなく後ろから乗降する。
この経営も民間会社で料金は区制で、これにも1、2等がある。
路面電車もあるにはあるがこれに替わりつつあるようだ。

市内には約40万台の自家用車やタクシーが走り、
さすがのブルバードも夕方のオペラ付近は詰まって動けないぐらいだ。
料金はメーター制で、必ずいくらかのチップをやる習慣である。
夜12時以降は倍額だし、道路はゴー・ストップがあり決して早いものではない。
やはり最も便利で、安くて、早いのはメトロだ。
しかしちょっと馴れないとなかなか乗れない。

オペラ前から東方面にかけてがもっとも繁華なところである。
美しいブルバード、広い人道にはカフェの色とりどりの椅子が5、6列並べられ、
昼過ぎからたくさんの男女がゆっくりとコーヒーを飲んだり食事をしたり、
いかにも楽しそうにしている。これは他にはないパリの特徴である。
この椅子に腰掛けて舗道の通行者に秋波を送る女がいる。
ちょっと笑顔でもしようものならすぐについて来る。

フォリベリゼーのレビュー、
ムーランルージュのダンスホールなどは実に賑やかなものがある。
このあたりを1人でうろうろしていれば案内人がいろいろ勧めてくる。
いわゆる歓楽街に案内してやるというのだ。
パリの裏側では外人に金を使わせるにはいかなることをしても
黙認するフランス政府の醜悪な繁華街がある。
まぁ1度ぐらいは確かな人の案内で見ておくものだろう。
そこには理屈抜きに近代都市経営の真理があるように思う。
偉大な歴史的記念物の豊富さはパリ市繁栄の基礎を成していることは明らかだが、
裏面の思いきった歓楽施設と、遺憾なき近代都市施設が魅力であることは言うまでもない。
約20万のストリートガールと酒を通じて外遊客の落していく金は、
年間で日本円の10億に近いとのことである。政府がこれを真剣に考えるのも無理はない。

歓楽的にみえるパリ人は甚だ浅薄なようだが、
その遊蕩的な一面は外国人観光客の欲求によるもので、
フランスの国民性を物語るものではない。
彼らはむしろその正反対に経済的観念は強く冷静で、その守銭奴的一面の現れだろう。
とくにこの国には全国民の6割を数える堅実な農民のいることを忘れてはならない。
王政に惰することなく、社会主義にあらず、しかし相当に富める国であるのは、
彼ら農民がいるということがフランスの強みである。

パリの都市計画



パリの都市計画はナポレオン3世時代にできた。
放射線状の典型的なもので、公園、広場、街路など全てが美的にできている。
世界一を誇るコンコルド広場は自動車時代の今日でも尚、狭さを感じさせない。
八方へ広がる広い道路、シャンゼリゼからエトワールの凱旋門、
テュイルリー庭園からルーブル美術館へ至る遠大な設計、広壮な計画は
都心に広々とした余裕を示しており、セーヌ河の流れ、そこに架けられた橋梁の美、
粋を極めた市街の建築記念物の美しさ、繁栄を極めたブルバード、
実に世界無比の都市美である。
まことにパリは断然頭角を抜いた世界のキャピタルの感がある。

パリの労働事情



現在のパリにはほとんど見るべき建築工事はなく、
僅かに博覧会工事と前記の飛行場ぐらいのものであった。
パリでは民間の建築家は悲鳴をあげ、
労働者は副業または失業手当でささやかに暮らしているとか、気の毒なものである。
失業手当は1日10フラン、妻子ある者は各4フラン
家賃付き40フランを直接家主に支払ってくれるとか。
これでやり方によれば1日にワイン1杯もやれ、シネマぐらいは観られるそうだ。
しかも1週40時間、最近では38時間労働制が叫ばれていて、
これが成功に近付いているとのことだ。
7割の社会党員を有する現内閣によって、労働者は実に優遇されつつある。
しかし私たちが見たところ、労働者の現場における活動能率の悪さは呆れるばかりである。
木靴を履いてのろのろと、3尺程の土管を2人がかりで運んでいる様を見て嫌になった。
労働時間はなるべく短縮し、賃金値上げを叫び、
その反面で個人的生活は酒と女で裸の生活である。
結局は野蛮に帰る、文明の極致とはこんなものなのだろうか。

2011年4月22日金曜日

建設中のオルリー空港を訪ねる




2月15日
今日はブラツサルモパン会社の案内で、目下建築中の交通省の飛行場見学に行く。
約40分で現場に到着。在来の建物を漸次取り壊し、平面積約7000坪、
鉄筋コンクリート造3階建て、外部はすべて大理石張りのモダンな新様式である。
すでに八部通り竣工し、一部分は使用されている。


約3時間に渡って見物したが、目についたのはエアコンプレッサによる
コンクリート打である。階下の一部にモーターを据え、ミキサーを通じて
六●ぐらいの鉄管で各階の現場へコンクリートを送り打ち込んでいる。
相当の速度で打ち込むので棒突などは一切不要、
鉄筋にもよく密着し細部にも打ち込めて非常に能率的なようだ。
瑕枠も1メートルほどの鉄板を並べていたが、
外したあとのコンクリート肌も平均的でムラがなく、
後からモルタルで塗りつぶすような無様なことはしていない。
その作業能率を比較して、機械設備、電力操作の手数などを計算し、
在来施工法と比較研究する必要があるだろう。


その他、屋上の防塞装置あるいは防水工事は、気候に恵まれた土地だけに
すこぶる簡単なものである。防空防毒に対しては何ら設備せず、
戦時はまったく報捨する考えだと係員は言っていた。
丸天井が5〜6カ所あるが、円形のプリズムで装飾と採光を兼ねているが、
外部に僅かに防水装置があるだけで、
内部はそのスラブ下に直にピラスターが塗ってあるだけだ。
これで冬季も凍害なく解氷期にも問題ないとは羨ましいことだ。
めずらしく見たのは、普通の天井下地が長さ50センチ・幅30センチ・厚さ6センチぐらいの
中空タイルを3個ほど繋ぎ合わせ、三分丸鉄筋で固めたものを
各コンクリートビームの径間に釣るし付け、その面を漆喰仕上げとしていることだ。
採暖と防音装置だと言っていた。
また瑕枠なども相当の径間のあるもので、同一形体のものは鉄骨を使用し、
または立派なトラスを組み、移動的に組み立てられていた。


本工事完成後は欧米における最大の空港となるそうで、
800万フランを要し、本年5月の博覧会開催までに竣工予定である。
フランス政府の建築業務の処置はさすがに自由の国だけあって各省分立であるが、
大体必要なものは公務省で会議する程度で、
設計施工ともに主要なものはコンクールにかけ決定するとのこと。
請負の方法も欧州一帯同様に分業的で、
公入札制によってその決定は相当に手数と日時を要するものである。

パリ滞在・・・




2月1日 
珍しく晴天である。
10時頃ホテルを出て伴野商店に託送の荷物を持参した。
色々と買い物をして一切の仕度を済ませた。約2000フランである。
3月19日着の神戸行き箱根丸で大連へ積み替えるはずだ。


次に郵船の支店へ立ち寄ってクイーンメリー号の乗船券と、
太平洋航路・浅間丸の切符も一切が用意出来ていたので受け取った。
差額賃金や米国入国税8ドル、およびフランス出国税30フランなど一切を支払う。
これで横浜まで帰ることが出来る。
帰途、日仏銀行へ立ち寄り最後の50ポンドを引き出した。
残額150ポンド少々、これだけで米国旅行をしなくてはならない。
相当に倹約をしなければ不足するだろう。
2時頃から建築関係の書店へ行き、あれこれと3冊ばかり買い求めた。
目新しいものはなかった。夕食は都ですき焼き。
三越の宇都宮君もいた。大西洋も太平洋も同船らしい。




2月2日 
大使館にI氏を訪問したが留守だった。ここで林内閣成立を聞く。
次いで博覧会場の日本館に氏を訪ねたが不在であった。


2月3日
博覧会場を見ながらセーヌ河沿いにノートルダム寺院まで散歩する。
寺院の屋上に昇る。晴天なので市内全体がよく見える。
例の怪異なガーゴイルの彫刻が目の前にある。
何百段かの暗い回り階段を上下した。
そこからイタリア街に出てマデレン座でシネマを観た。


ホテルでベルリン以来一緒だった台北医院のA氏に会う。
17日のクイーンメリー号は同船とのこと、サロンで遅くまで話した。

5度目のパリ




正月29日 
今日1日は休養だ。昨晩は妙なもので、しばしの宿といえども
まるで我が家へ帰ったような気持になり、よく眠れた。
しかし風呂の排水が破損して使えなくなったのには閉口した。
朝食後は諸方への通信や日誌など様々な整理をする。今日は少々曇天で寒い。




正月31日 
日曜でよい天気である。カメラ片手にバスでマドレーヌ寺院へ詣でる。
日曜日の礼拝者でいっぱいだ。亡き姉の冥福を祈るため黙祷して礼拝した。
そこからぶらぶらとコンコルド広場へ出て、
シャンゼリゼから左折しアレキサンドリア三世橋畔へ出る。
パレスギャラリーのマネジメント展覧会を観る。
家庭用品一切や建築の展覧会もある。博覧会の模型や図面も出ていた。
そこの売店で建築の雑誌を2〜3冊買う。

そこから再びシャンゼリゼへ出てエトワールの凱旋門に出て、
ダーフィンの並木道をボロジン公園へ出た。
広いマロニエの並木道にはたくさんの散歩者。
両側の青々とした芝生を隔てて乗馬道があり、
洒落た男女のギャロップ姿も好いものである。
両側の緑樹の葉隠れには美的建築も見える。公園はほとんど森といってよい。
大きな池には白いスワンが浮き、ボートに乗った男女が池の中を右往左往している。
岸辺には糸を垂れる者、垂直の松の木、
白樺の林の中で乳母車を押す女、
睦まじそうに手を組む男女、
ローラースケートを履き道路上で盛んにたわむれる子供の群れ、
実に溌剌と生を楽しんでいるようである。

2011年1月21日金曜日

姉のために涙する夜



Y君からは役所の機構改変について細々と書かれていたが見る気がしない。
シャンゼリゼの大通り、人と自動車の波、日頃でも大変なのに今日は土曜日、
非常な人出だが私には何も感じない。少し風のある、森の中のような気がする。


明日からオランダ行きなので切符を受け取りに行き、早々に帰宿した。
丁君にも妻君からの手紙を渡す。
そこに何か書いていないかと話しながら読んでいくのを待った。
やはりあった。私から話すまで内緒にとして、
12月30日から発病、1月3日午後、大連病院で死去とある。
間違いではない。厳然たる事実なのだ。信じられないことを信じなくてはならない。

部屋に戻り、とめどもなく流れる涙の間に好き姉を思った。
まずお礼を言った。今さら礼など仕方がないが自然と頭が下がるのだ。
私たちのために真に喜び、悲しんでくれた姉。
ことに長い間たくさんの子供が世話になった。
妻には姉とはいえ、事実上の母であった。力とも柱ともなってくれ、
ほとんど一身のように仲が良かった。いや、大きな愛で抱えていてくれた。母の愛である。
常に家にばかりいる姉、比較的世間に疎い姉を妻は補っていたようだ。
妻は力を落したことだろう。ほとんどなるところをしらないだろう。
私も世の中が真っ暗になったようだ。真に私の帰りを喜び、迎え、
私の話を喜んで聞いてくれるはずだった。


パリで姉のために2、3のものを買っておいたが何になる、
好きなうどんを美味そうに食う姿も永久に見られない。
別だん不自由もなかったが、一生働き通し真の生き甲斐をその内に感じていたように、
夜など2時より早く就寝することはなかった。
何ひとつ小言を言わず、常ににこにこと、接するものをみな和やかにした。


あの出不精の姉が一昨年、新京に来てくれた。
今考えれば私たちの新京での生活を見ておきたかったのだろう。
どういうものか自分の家に応接間が欲しいと言って、それも昨年立派に出来あがり、
わずか半年ばかり住んだのである。思えば悲しい思い出ばかりだ。
私は涙に曇るメガネを拭きながら妻に手紙を書いた。思いはそれから止めどもない。
姉の子供も皆これからだ、心残りだろう。
人の世に生存することの辛さをつくづく考えさせられる。


妻も12月20日頃まで大連にいたはずだったが、新京に帰って間もないこと、
恐らく死に目にはあえなかったことだろう。どんなに嘆いていることか
私が亡くなったよりも、きっと力を落としたことだろう。
妻よ泣け、うんと泣け。お前の好きな姉のために…。


早、午前3時、明朝は8時に起きなければならない。
ともかく服を脱いでベッドに入ったが眠れるものではない。
心配すると思って知らせてこないのではあるが、
すでに知った以上、私の気持は黙って入られない。
早速「ヨキアネヲオモヒナキアカス」と打電し、妻に手紙を出した。
また涙を新しくしてすまないが仕方がない。

2011年1月19日水曜日

姉の死

正月23日 
三井支店へ行く。丁君は気分が優れないので1人で出掛けた。
局から電報で「願の件を許可する」とあった。これで米国経由で帰れる。安心だ。
次に局の矢追氏から長文の手紙が来ている。最初に


「奥様は正月4日、大連の御令姉が死去されお子様共々大連へ行かれた。
 今妻から電話があったのでちょっとお知らせします」とある。


大連の令姉…令姉といえば梅本の姉しか今はいない。
梅本の姉が死去…?
あの達者な姉が、何かの間違いだろう、とふたたび手紙を見直す。
しかし「令姉」とはっきり書いてある。
これは大変だ…!私には信じられない。そんなバカなことがあるものか。
出発の朝、あんなに元気で色々と注意してくれたり、別宴の食卓の用意をして、
別盃をくんだではないか。あの姉が…。私は頭が混乱して何もわからなくなった。
支店長が昼食を一緒にと勧められたが、それどころではない。
一応お断りしたが、先達からお話もあったことでもあり、断りかねて結局お供をした。


シャンゼリゼの立派なレストランである。
たくさんのご馳走が出たが、私には味も何も感じられない。
つとめて平静にと心掛けたが、話はとんちんかんなものになる。
支店長は近々ロンドンへ赴任予定で、海外居住者は子供の始末に困るという話から、
私に『子供をどうしているか』とお尋ねになり、
一部分は新京に、3人ばかりは大連に、と答えると、
『奥様が付いておられるのか』と聞かれ、いや姉が…といったきり後が続かない。
涙がぽたぽたと落ち、もう立派な部屋も紳士淑女も何もかも見えなくなった。

早々に支店長と別れ、1人でシャンゼリゼからコンコルド広場まで歩いた。


公園のベンチに腰掛けて再度手紙を出してみる。
やっぱり令姉とある。梅本の姉に違いない。留守宅からは何も言ってこない。
知らせたからといってかえって心配させるだけだと知らさないのだろう。

2011年1月18日火曜日

パリ中心街を観る



正月21日 
今日は市内見物である。バスでルーブル美術館を見物して、
川向こうのモンマルトルの学生街に行って支那飯で簡単に昼食を済ませ、
リュクサンブール公園を通り貴族院を右に行き、
リュクサンブール美術館で現代美術を観て、パンテオンへ行った。


ここにはフランス国重臣の墓所がある。
有名な壁画が白大理石の柱の間に彫刻などと共にあって壮観である。
地下にユーゴーやルソーなどの墓を詣でた。


次に近くのリスボン大学、クリユーニ博物館を観る。
規模は小さいがローマの総督府だった古い建物が残されていて、
内部には昔の武器その他がたくさん陳列され、例の眞操器などもあった。


そこを出てセーヌ河畔の古本市を見ながら、警視庁や病院を見て、
ノートルダム寺院前まで歩く。すでに午後4時で塔の上には登れない。
ここの広場にある国立劇場やサラ・ベルナール劇場などを見て
メトロでルーブル近くの大きなデパートを見物した。






夜7時頃から鴨料理で有名な「トゥールダルジャン(銀の塔)」へ行った。
内藤所長から聞いていた以上に美味い。
最近だいぶん安くなったのだそうだが、それでも1人前が日本円で16、7円。
開店以来今日まで客に提供する鴨に番号を付しているそうで、
私たちの番号は「132930」だった。
この店はノートルダム近くの川岸であまり大きな建物ではないが、
夏は屋上でも食べさせるそうで、各国の貴賓方も一度は訪れるそうである。


帰途は「カジノ・ド・パリ」へ車を走らせた。
その大部分は裸で舞台をはねまわる。甚だしいのは舞台に寝台を持ち出し、
各国の風俗をしたひと組の夫婦者が次々と現れて、
その国の習慣によって着衣をとって寝台に入る。それを面白おかしく演じる。
途端に子供を抱いて飛び出すのもあり、観客はキャッキャッと喜んでいる。
この頃のパリのレビューにはだいぶん軽業めいたものが流行しているようだ。

※画像は2005年のパリ、ノートルダム寺院

2011年1月17日月曜日

ヴェルサイユ






正月20日 
今日はヴェルサイユ行きである。
朝からとてもよい天気で、インバルト駅から電車により約30分で到着。
静かで上品な街である。宮殿内部を見る。
例の鏡の間、講和談判の机、フランス革命の時に止まったままの大きな時計、
人民が『パンを与えよ!』と叫んで集ったマーブル広場などを見る。




建物の正面は思ったほどでもないが、裏側の庭園は広く、
大きな建物も庭園側から見た方が好いようだ。
近くのトリアノン宮殿も見た。
建物は小規模だが内部はちょっと好い感じだ。
庭園の中のコテージなどすべての建物が面白い。
豪奢をきわめた末にはこんなものが欲しくなるのだろう。
水車や鳥小屋など田園風に出来ている。実に人間生活の自然なものであろう。




午後5時頃、パリに帰り例の有名な各国部屋を見物に出掛けた。
ここは公許の女郎屋で、贅沢な世界各国代表的で立派な部屋が各階に出来ている。
○○帝が使われたという○○用の機械的な椅子がある。
洞穴のような階段や、四方が天井まで鏡で出来ていたりして、
1人でこんなところへ放り出されたら出口がわからないほどだ。


続いてもう1軒の有名なスイングスを見た。ホールに入ってまず驚いた。
右側はカウンターがあり酒場である。
左側は大きくモダンなホールだが、電飾に煌煌と照らされた下に展開された光景は
実に目を覆うのさえ忘れるほどの驚くべき光景である。
50名ほどの若い女性が一糸纏わぬ姿である。
それが20人ぐらいまで入口の両側に腰掛けて客を待っている。
ホールの中のテーブルを囲んだソファでは、
客と裸の女の数組が盛んに酒を飲み媚体を演じている。
あまりに極端な露骨さにただ呆れるばかりである

*画像は68年後、私が訪れたヴェルサイユ・・・

2011年1月11日火曜日

パリにて、郷里からの通信に和む




正月19日 
バスで三井に行き支店長に面会。たくさんの手紙が来ていた。
雅子からのが2通、吉田章恵君からは国務院の絵はがきと会廟式当日の切り抜きなど。
当日の盛況を遥かに忍ぶ。吉田君は内地で女児をもうけられ、2回目のおめでたである。
ベルリンの田村君からは、私たちの乗船券のこと、荷物の発送などについて知らせてきた。
石井猪七君からは、私がたびたび飛行機に乗るので姉がしきりに心配しているそうで、
今後はなるべく乗らないようにとのこと!
毎日神詣でをして私の無事を祈っているそうである。
母なき後の自分には姉が母であった。姉なればこそ心配してくれる、ありがたいことだ。


局の江崎氏からはその後の局の事情を細々と知らせてあった。
本年度の予算は1千万円出るそうである。これは忙しくなる、遊んではいられぬ、
早々と帰って諸氏と協力しなければならない。
 
憲三からは自分でとった崇子の写真を送って来た。
大きくなった。写真もよく撮れている。
高梨君のお宅からは奥様やお嬢ちゃんたちから年賀状をいただいた。
何といっても旅行中は郷里からの通信が嬉しいものである。


その足で「伴野」に行き、売店のソファでゆっくりとこれらの手紙を読んだ。
それから郵船の支店へ行って旅程変更を申し込むと快く承知してくれた。
すなわち2月17日、フランス・セヤーブルグ発のクイーンメリー号に乗船し、
22日ニューヨーク上陸、4月1日サンフランシスコ発の郵船浅間丸に乗船することで決定。
切符は木曜日にくれるそうだ。
米国には40日ばかり滞在の予定で、ヨーロッパにはこれから約1ヶ月いる予定だ。
宿は早速マスネに移した。私は3階の33号、丁君は6階の60号で部屋は美しく、
特に気持ちがいいのは部屋の洗面所、浴室の立派なことである。
これで当分のあいだ落ち着くことができる。
しかも朝食付きで38フラン、日本円で1ヶ月200円ぐらい。パリでは格安だ。

パリの風景




正月17日 
日曜なのでゆっくり寝るはずだったが、外がやかましくとても寝ていられない。
しかも晴天なので9時頃目覚める。
総局のO氏から電話で11時頃訪問され、ベルリン以来のお互いの旅行話に弾んだ。
相変わらす忙しく勉強のようだ。


正午頃から晴天の街を3人連れでトロカデロへ出て、エッフェル塔に登った。
頂上まで登るのかと思ったら、500尺くらいのところでエレベーターは止まる。
しかし全市を見下ろせ、博覧会場は眼下に展開する。
盛んに工事をやっている。今夏の盛況を忍んだ。
塔上で外人連れと記念撮影をしたり、土産物を買ったりして下の公園に降りた。
日曜なのでたくさんの人が散歩している。
たくさんの子供が集ってなわとびやシャットルコックなどをして遊んでいる。
夫婦連れが睦まじく乳母車を押してくる。どのベンチも満員で、
静かに読書する者、編み物をする者、のどかな景色である。
焼き栗を売っている。一袋買って遠慮なく食べながら歩く。満州の方が美味いようだ。


ここからコンコルド広場に出た。岸辺にはたくさんの太公望が糸を垂れているが、
釣れた者は見受けなかった。釣り竿はみな日本製だそうだ。
O氏は今日ベルリンへ出発なので日本料理の都に行き、時ならぬ夕食をとる。
食後は氏の宿、マスネに行く。新しくさっぱりとしたホテルである。
私たちも今後約1ヶ月ばかり滞在するので、
気持がよく比較的経済的なこのホテルに変更することにした。

4度目のパリへ




正月16日 
昨夜はよく眠れなかった。朝寝して丁君に起こされた。
今日も相変わらず嫌な天気である。ホテルのマネージャーに仕切りにとめられたが、
これでは仕方がないので出発することにする。
午前10時15分、パリ行きの特急に乗るためにタクシーを駅へ走らせる。
再び見ることもあるまいニースの街に名残惜しむ。


駅には案内会社のポーターがいて、プルマンの急行券や座席の世話をしてくれる。
2等の座席だがなかなか立派なものである。
定刻出発、途中1時間ぐらいは海岸沿いを走り抜く。ニースの景色に似ている。
その後は葉のない木立、広々とした平野、典型的なフランスの景色である。


マルセイユ着は午後1時だったが、昨年着いた時とは違って、
街はずれで山上のノートルダム寺院も遠くに見えた。
車内で昼食をとる。座席にテーブルを作り、提供してくれる。
久しぶりにフランスの美味いパンにありついた。
途中ほとんど停車せず、午後11時パリ・リヨン駅に到着。
約1000キロ、12時間を要したわけである。
旅館・ぼたん屋に投じる。これで4度目のパリ。約18日間の旅行を無事に終えた。


今年の旅行はスイスおよびイタリアの2国であったが、霧のジェノバ、
ことに正月元旦のインターラーケンからユングラウに登ったことは、
天気にも恵まれ有意義で大成功だった。恐らく永久に忘れることはできまい。
そしてスイスの山中の冬景色、イタリア・ローマの驚くべき存在は想像以上であった。
ニースのプロムナードの大変な気持ちよさは目頭が熱くなるような感激を覚えた。
晴天に恵まれていたなら一層印象深いものだっただろう。


今日は12時間も列車に揺られて相当に疲れた。
フランスの優秀な列車ではあるが、昨夜の寝不足もあるので何も考えられない。
幸い明日は日曜である。ゆっくり休むとしよう。

2010年12月12日日曜日

ニース 〜NICE〜

正月15日 

相当の悪天である。朝食後、小降りの隙に海岸に出た。
公園入口の美しいこと、常緑樹の間に真紅の花、
青い芝生の間には色とりどりの草花が目も覚めるように咲き誇る。
噴水がある池の美しさ、たくさんの水禽に群衆が餌をやっている。




この美しい公園を通って海岸のプロムナードに出た。
なるほど広く、見渡すかぎり彼方にまで延びて長いものだ。
幅は両側の人道が各々約20メートル、中央の車道は約30メートル、
さらに10メートルくらい後退して家屋が建ち並び、
5〜6階建てのフランス風の建物が色とりどりに建ち連なり、
前庭には熱帯樹や草花が、各階の窓からは花が垂れ下がる。
散歩道の真下は小砂利を隔てて白波が打ち寄せ、実に気持ちのいい舗道である。




このプロムナードを散歩していると、いったい東京の街全体を買えばいくらぐらい
するだろうなどと大きな気が起こるというが、実際そんな気になってくる。
ここは春3月のカーニバルには花合戦や仮装行列、
舞踏会など贅沢の限りを尽くす娯楽場である。
なんの屈託もなくここで呑気に暮らしたら、確かに長生きするだろう。


午後からはモナコのモンテカルロに行く。
自動車で山越えして行くのだ。山頂からの眺めは実に好い。
しかし残念なのは雨上がりの濃霧に遠望を妨げられ、楽しみが半減してしまったことだ。
立派な自動車道路を坦々と山頂に登り、いくつものトンネルあるいは
数十丈の懸崖を見上げ、緑樹の間を快走する。
山腹の街街を通ってモナコに出て、やがてイタリアに出る。
付近にサラ・ベルナールの別荘があった。絵に描かれたような家だ。
ここから引き返してモンテカルロの中心地にあるカジノに着いた。
宮殿のような立派な建物である。
前庭は南洋樹の並木、草花の花壇が美しく整理されている。

2010年9月10日金曜日

パリ・リヨン駅より、ジュネーブへ





12月30日 


早朝から珍しく陽光を見る好天気だ。
旅での会合は会うが別れである。
朝、T博士に別れを告げて、12時50分パリ・リヨン駅発の列車に乗る。
タクシーはセーヌ河沿いに人と自動車のあいだを縫って走る。
エッフェル塔は頂上まではっきりと見えた。
この塔を中心に今、建築の博覧会場も大部分が出来上がり、
例のトロカデロを改造して正門にする工事も大半を終え、
左右の高い建物も仕上げ工事に忙しい様子。
博覧会場とはいえすべて鉄骨鉄筋の本建築ばかり。
日本のそれとはまったく趣を異にする。

パリ・リヨン駅はパリに初めて降り立った駅だ。
その時は夜のことでわからなかったが、
今眺めるとフレンチ・ルネッサンスの趣の高い塔などがあり、
昔モデルにしたこともあって懐かしさを感じた。
列車は満員、少し早く来てよかった。窓際の席に着く。
2人ずつ6人1組で身動きもできないほどだ。
向い側のプラットホームでは、若い男女の別れの抱擁シーンが何組も見える。
しまいに彼・彼女らはところ構わず接吻する。
プラットホームの群衆はまったく気にせず見向きもしない。
外国ならではのステーション風景である。
定刻発車、郊外の景観はベルリンの方が遥かに美しく、
こちらは建物も粗雑で景色も悪い。
打ち続く野菜畑に日本の●の形をしたガラスの蓋をしたものが数千、見渡す限り続いている。
温床だろう。やがて川沿いの美しい丘を通り、
川向こうに平野、樹木の茂みに一時よい眺めが見えた。


列車が止まるたびに多くの人が乗り降りする。
車内には上品な白髪の老人が5、6歳の子供を連れて乗り込む。
人々は身動きもできない中で互いに席を譲り合う。
面倒なのと腹が減らないので昼食を抜いたが、
さすがに7時の夕食までは我慢ができず、4時のお茶の時間に食堂に行く。

満員の列車は午後9時40分、ジュネーブに到着。
湖畔の「ホテル・メトロポール」に投じる。
見物は一切翌日にまわし、入浴後、水の都・ジュネーブの湖を
心地よく見下ろしながら絵はがきを2、3通出して床に入る。

パリ滞在



12月29日 
三井物産に行く。
パリもこれで三度目、宿で道順を聞きバスで容易に行き着いた。
支店長に会い金の引出しに日仏銀行を指示され、そこで受け取ることにする。
支店長は来春ロンドンに栄転とのこと、家族と共に海外に在住する者が、
子どもの教育でいかに困難しているか、実情を聞いて同情に堪えなかった。

郷里より数通の書面が届いており、宿での楽しみにポケットに納める。
日仏銀行の場所は、はいはいと聞いて出たものの、
外に出てみれば少しも見当がつかない。
仕方なく車に乗ったがすぐに止まる。目と鼻の先だったとは迂闊だった。
日仏銀行にはY氏がおられ、親切にお世話になる。
イタリアリラを2000リラ買う。
これはドイツのレジスターマルクと同様、国外で買えば安く手に入いる。
ほかに250シルほどスイスの紙幣を買う。
なお1250フランほど、合計43ポンドほど引き出した。
クレジットが少なくなっていくが、計画通りにいっているので大丈夫だろう。

イタリア通の坂野商店に行く。
様々な外遊の人々が出入りするこの店で商品を見ながら5時頃まで話し込む。
帰りはオペラ裏から記憶をたどりバスで宿に帰り着く。
折からT博士に玄関で出会い、夕食を共にして
ベルリンのT氏宛てに寄せ書きなどをする。
食後、氏の部屋で雑談に耽っていたが、喉が渇くあまりに外に出て
カフェに飛び込みフランスビールを試みた。

2010年9月4日土曜日

ベルリン出発、3度目のパリへ




12月28日 
午前8時、宿のマダムらに見送られ、
パリ行きの急行でツォー駅を出発。
街はまだ闇の中だ。
特別列車なので車賃のほかに座席料を3マルク取られる。

午前11時頃、ハノーバー着。
陽も麗らかで心地よい郊外の風景である。
車内の隣席には小柄な美人と似合いの夫婦、車内もまた麗らかである。
ハノーバーの建物の多くはレンガ洗い出しの軽快な5、6階建て。
ドイツの建物は一般に新旧を問わず軽快なものが多い。

午後5時、ベルギー国境のアーヘンに着く。
例によってパスポート、所持金品の検査があったが簡単なものだった。
このあたりの沿道一帯には大小の工場が軒を連ね、
駅付近にも溶鉱炉などが隣接した大工場地帯である。
さらにその中に住宅地区が散在している。

夜7時、フランス国境で型通りの検査を通過し、11時パリ北駅に着く。
今回の宿は日本人旅館の牡丹屋。
グランドオペラ付近からシャンゼリゼ、エトワールの凱旋門を通り、
約15分でパッシーの先にある宿に着いた。
久しぶりに日本茶をご馳走になり、陸軍の会があってK中佐にもお会いできた。

フロントでイタリアまわりの切符の予約を頼む。
旅程はジュネーブからローザンヌに出てインターラーケンに行き、
有名なユングラフに登り、イタリアのミラノに出て、
ヴェニスを見てフローレンス(フィレンツェ)を経てローマに入る。
帰途は海岸線をピサよりにゼノアに出て、
ニース、モンテカルロ、モナコを見てマルセイユを通り、パリに帰る。
ここでは正金も三井も何末31日まであるとのこと。
翌日は三井に行くことにし、疲れたので11時頃床に付く。

2010年5月3日月曜日

パリ発、ドイツ・ベルリンへ




11月7日 
午前7時起床。簡単な朝食を部屋でとり、
預けておいた荷物やホテルの勘定を済ませ、北駅へタクシーを走らせる。
パリ〜ベルリン間の急行は、大鉄傘下のホームに横付けになっている。
「荷物が多い」と改札で文句を言われたが、
かねて教えられていたように2人で10フラン握らせたら無事にパス。
車両はドイツ製でなかなか上等である。
無論2等だが、コンパートメントで3人掛けの向かい合い6人乗りである。

やがて9時出発。窓外の景色はしばらくの間、お馴染みの様子である。
フランスの税関員が来て手提げを開けさせられ、
ロンドンで買ったハンドバッグを念入りに見ていたが、何事もなくパスする。

12時半、丁君は昼食に行かないので1人で行く。
席に1人の日本人がいた。自然に色々と話したが、鉄道省のS工学博士といい、
ベルリンに約半年近くも滞在とのことで、ベルリン事情を色々と聞くことができた。
氏は話好きと見え、食後に私たちの席に来て色々と注意を授けてくれた。
ベルギーの税関は非常にやかましいと聞いていたが、氏のドイツ語で簡単に済み、
心配していたドイツ国境での所持金やレジスターマルクの検査にも立ち会ってくれたので、
これもわけなく済み、非常に助かった。

夜11時、列車がベルリンに着くまでの間、話し込んだ。

S男爵と満州国建築計画を語らう




11月6日 
今日1日は休養。
しかし午後5時、かねて約束していたS男爵をホテル・ウインザーに訪問する。
氏は昨年兇手に倒れた三井の重役、S氏のご令息であり、
有名な美術研究家で多数の著書もある。
来春5月、パリ市で開かれる万国博覧会の日本建築他の用務のため滞在中なのだ。

氏は自室に我々を快く迎えられ、
来満の際、新京を通過されたが、せっかく新市街が出来ながら、
乱雑な商店の看板が市街美を害していることを惜しんでおられた。
まったく同感である。
しかし建設局もすでに看板に対しては特に留意し、
制限を設け広告塔なども建造してあるはずだ。
さらに氏によると、英国は本国の行き詰まった建築を各植民地において思う存分実行し、
都市計画においても新様式の実現に努力しつつあるという。
満州も日本の後など学ばず世界の先端をいくべきだと熟説され、
モスコーの建築の近代的表現を賞されていた。
私が満州国宮殿計画の困難を話すと同情され、
むしろ庭園に主体を置いてはとのことだった。

6時半に辞し、ぶらぶらとホテル近くまで帰り、あるレストランを覗いた。
中は立派な食堂で、紳士淑女で一杯だ。
ちょっと気が引けたが、ええいままよと彼らに割り込む。
しかし誰一人妙な顔をする者はいない。皆知らん顔をしている。
片言の仏語で定食を頼む。時々ウエイターが来ては
「どうだ、うまいか」などと言い、もう少しどうだと勧める。親切なものだ。
外は大変な雨。ホテルに帰ると京大のS博士の名刺が置いてある。
留守をして失敬したが丁君は会ったそうだ。

明日はいよいよドイツ、ベルリンである。荷物の検査やレジスターのことが気にかかる。
窓の外はさめざめとした雨が降っている。