2010年8月28日土曜日

50日余のベルリン滞在、最後の夜に




T氏と別れ、階下のカフェでワイングラスを傾ける。
ベルリンもとうとう最後の晩かと思うと無性に名残惜しい。
夫婦や女連れがテーブルでトランプに興じながら、睦まじく語り合っている。
そんな光景も今までそれほど好意的にはみえなかったが、
今日はなんだか親しみ深く、このカフェには度々来たので
特に名残惜しさを感じ、ボーイにチップをはずんだ。

外に出れば12月だというのに外套もいらない暖かさ。
満月が雲間に見え隠れしている。
感慨深く、公園の側道を時を忘れて縫い歩いた。
今朝、海軍のS氏からローマよりの報に接し、旅程を聞いたところでは、
ジェノバあたりで会えるように思う。
陸軍のK氏も同行とのこと、ぜひ会いたいものだ。

10時頃、ホテルのマダムや老婆らが別れの挨拶に来てくれる。
家族の写真を見ながら色々話し込み、
サインブックを持ち出して写真を興えたりサインしたりする。
約50日も滞在したので人情に変わりない。共に名残惜しむ。
なんだか身内と別れるような気分だ。
色々と話したいのだがこまかいことはお互いよくわからない悲しさ、
堅い握手を交わして明朝の再会を約束。
部屋に戻り最後の入浴を済ませて、11時頃床につく。

日本から持参したタオル、クリーム、歯ブラシ、香水、
インキ、レターペーパーなどを使い切り、
靴が擦り切れ、ドイツ製を購入したが、
土踏まずが高くて歩きにくく閉口する。

ドイツ出立準備

12月27日 
起床後直ちに出発の用意をする。
日誌や荷物の整理を済ませ、宿料を払う。
相当考えてマルクの見当をつけておいたつもりだが、
汽車中の小遣いを見込んでも尚、20マルクほど残る。
だが日曜なので何も買えない。

2時頃、T氏が来訪、出発に際して色々と世話になり荷物まで依頼する。
氏は8年もベルリンにいる。
外語大卒の逸材で、ドイツ語はベルリン人以上なのには感服する。
しかし外国にいる人々の通弊として自己信頼が強く、
時には誤解する人もいるので、余計ながら前途有為の氏のために、
また満州国のためには自重を望む。
あれほどの語学・見識をもって満州国のために真に努力してもらえたら、
自他ともにいかに得るところが多いかを痛感する。
一度満州国に来訪を勧め、休み中の用意に買っておいたハム、ソーセージ、
果物、ドイツのウイスキーなどでドイツ事情について8時頃まで語り合う。

2010年8月20日金曜日

散歩道で故国を思う




12月26日 
朝10時頃、神戸商船学校のM氏と散歩しながら
クリスマスの教会視察に出掛けた。
バイヤーシャルプラッツの教会に行き、階上のギャラリーに入る。
中は説教の真っ最中で、満員だが若者は1人もいなく婦女子と老人のみである。
ヒットラーは宗教の問題には悩みが多いと見える。
こればかりは独裁とはいかないらしい。
「人強ければ神にも勝つ」というが、
真の復興の機は宗教的なものともいえるだろう。
真の仕事は信仰的基礎を築くことが必要ではないだろうか。

M氏と教会を出て、クリスマスの静かなペーブメントを、
宗教、教育、社会制度、はては芸術のことまで話しながらツォー駅まで歩いた。
近くの川沿いの公園を、散歩者にまぎれて時の経つのを忘れて漫歩した。
日本は天興の絶対、他の犯し得ないところがあるが、自負してはいけない。
他国のよいところを採り入れて自己のものとし、
さらに個人的修養、社会人的訓練を修得し、
時代的島国根性を脱して国家の大方針に従い助長し得てこそ、
自他ともに最たる一等国民となり得るのではないかと痛感した。

明けて、クリスマス



12月25日 
昨夜の酔いが覚めず頭が重い。
そして朝から稀しい荒天である。
家で静かにクリスマスを楽しむにはおあつらえ向きかも知れない。
ベルリン最後の日も迫り、28日にパリへ立つことにする。
思えば2ヶ月半の滞在中、その間24日間はスカンジナビアなど各地を旅した。
今日から27日まで3日間は荷物や日誌の整理をしよう。
日記はもう6回以上も発信した。

2010年8月12日木曜日

ベルリンのクリスマス・イヴ

夜7時、セミコートに着替えてホテルのサロンに出る。
クリスマスツリーは見事な灯りで飾られた。
ウイスキー、コニャックなどで年に一度のクリスマスを祝った。
同宿のW氏のピアノとマダムの賛美歌でクリスマスの序曲は滑らかに時を移していく。
それなのに私などにはこれがさっぱりわからず、押し黙っていなければならなかった。
老婆や女中まで夜会服ではしゃぎだす。8時には食堂に出た。
ドイツではやたらに見られないような立派なご馳走が運ばれる。
だが、A氏邸に招待されているので
マダムにわけを話して席を離れ、タクシーを走らせた。

A氏邸では宴がすでに絶頂にあり、
三井のW氏の隣席に着くと、ただちにワインの雨である。
ホテルでひと通りアルコールをやり、
車中で十分に身体の隅々に浸透させてきたので、アルコールのまわりは急激に進む。
ワインとともに同席の方々と一巡の名乗りをあげ、
送れた罰にこの雨はますますひどくなる。
アルコールとともに皆から推されて挨拶に立つ。
A家の祝礼のために乾杯し、満州の民謡を歌い、
そのうえアルコールは私に、「満州を見ずに世界を語るなかれ」とまで言わせた。
ホテルでもそうだったが、列席の47人中、満州関係の人間は満鉄のI氏、
動向の丁君と私のみ、ほかは内地人で少しも満州のことを知らない。
今日、日本の生命線として邁進途上にある満州を知らないとは何ごとかと挨拶した。

A夫妻に美しい令嬢を加えたこのクリスマス・イブは、
ご主人の勧め上手なのとW氏の酒豪ぶりとでまったくアルコールの倪儡(かいらい)となり、
古い歌やら東京音頭など、知らない歌まで鼻歌で歌い通す始末。
サロンではダンスが始まる。
三次会以降も、W氏や同席のM氏らと1時頃までほとんど夢中で、
途中2、3軒のカフェに暴れ込んだが、何も記憶していない。
ただ1つ、ドイツで初めて自分の女性感に合格する美人に出会ったことだけ記憶している。
ベルリンでこんな愉快なクリスマスイブを迎えられようとは思わなかった。
A氏に心から感謝した。

クリスマスの準備




12月24日 
同宿の第一生命のT氏や丁君らと師走景気を見物しながら、
日本人の土産物屋「中管」に行く。
ベルリンにはこのほかに「ヨサノ」という同様の店もあったが、
カメラフィルムはここが一番安価だ。
ここで世界の古切手2000枚を集めたものを9マルクで買う。
昼から満州国事務所に出頭し、K氏に最後の挨拶をして、
郵船、商船にも挨拶に行ったがすでに帰宅された後で、
大西洋航路の切符も得られなかった。

以後、向う3日間の食べ物の用意をしなくてはならず、
パンやソーセージなどをどっさりと買い込む。
24日午後より事務所関係や商店、飲食店が休みになるからだ。
しかも27日が日曜なので、丸3日間食事させてくれるところがなくなる。
ドイツ人はクリスマスを静かに家庭で楽しむ。
独身者はどこかの家族に招かれて行ったり、
独身者2人きりで一晩泊まりの鉄道で静かな楽しい旅行をしたりする。
私たちは同宿の諸氏と共にホテルにプレゼントとして1人5マルク、
女中を入れて平均2マルクずつ出すことにした。

ホテルでは午後7時からクリスマスのお祝いがあり招待される。
それとは別に三井物産のA支店長からもお招きいただいていた。
午後はT氏の来宿を乞い、出発に関して諸々の依頼をする。
滞在2か月のあいだ非常に厄介になり、私たちが何の間違いもなく
目的を十分に達し得たことは氏の力によるところが大きく、
お礼に何かプレゼントをと思い、K氏の意見もあって50マルクばかりを贈ったが、
どうもまだ気が済まないので、別に25マルクをプレゼントした。
さらに持ち物の中から不要のシガレットケースやパジャマなどを差し上げ、お礼とした。

クリスマス前のベルリンで



12月23日 
最後の市内見物と買い物のために外に出る。
折りたたみ式のコウモリ傘、ゾーリンゲンの金物などを2、3入手する。
電車、バスで市内を見物して回る。
いよいよ明日の午後からはクリスマスの休みになるので、
街は日本の師走と変わりなく、街じゅうが飾り立てられている。
夕食を日本料理店あけぼので、田村氏と共にすき焼きで会食する。
帰途、日本からの靴がすり切れたのでドイツ製の靴を求め、
レンズメガネなども買う。

2010年8月7日土曜日

ベルリンにて、在留日本人忘年会へ。




12月22日 
ドイツを去るが、ベルリン事情については他の機会に譲ることにする。
午前中、正金銀行に行き最後のレジスターマルク500マルクを引き出す。
(1日に100マルクずつ出す決まりなのだ)
その足で満州国事務所に行ってK氏に会い、中欧旅行の報告をしてくる。
24日から年明け3日まで、クリスマス〜お正月休みに入るので、
お世話になった方々のところへ挨拶に行く。
もうじき出発なのでボーイに荷作りを頼んだのだが、
1つの荷作りに約40マルクも取られたのには驚いた。
安トランクなら3つも買えたことだろう。

大西洋航路予約の返事はいまだ来ない。
午後7時から在留日本人忘年会に出席。
会する者、知名の氏、百余名、武者小路大使も出席された。
大使による列国情勢の話を聞く。
日本料理にビールで会は時を移さず朗らかになっていく。
神戸商船のM氏、海軍の某氏による流行歌、
余興は詩吟に続いて日本の流行歌、終わりにベルリンの日本人歌を合唱。
鉄道省事務所の好意で日本の写真映画が上映され、
思い出の故郷の自然美に酔っていたところ、
突然、画面は舞妓たちなど過剰な純日本趣味を描き出したので、
皆一様に悲鳴をあげたが郷愁はひとしおであった。

中欧旅行を振り返り…



午後11時半、疲れた体でベルリンのツォー駅に下車。
タクシーでホテルに帰る。荷物を持ってエレベーターで5階まで上がり、
鍵を開けて自分の部屋に帰る。遅いので誰もいない。
洋服の始末から荷物の整理など、すべて自分でしなくてはならない。
忘れないうちに日記も書かなければならない。
これだけは疲れていても休むわけにはいかない。
こんなときはつくづく旅の苦しみが身にしみる。
ぐずぐずしているとすぐに1時になってしまう。大急ぎで寝る。

約12日間の中欧旅行はこれで済んだが、なかなか忙しかった。
もう少しゆっくりするつもりだったが、何しろ時候が悪いので、
濃霧に閉ざされ、あれ以上は仕方がなかっただろう。
しかし日本贔屓のハンガリーでは、
まるで日本にいるような気持になったり、
建築技師に会えば、同じ悩みに同情しあったり励まされたり…。
それにしてもこの時季の旅行は損である。
朝は8時頃に明け、4時には暗くなる。
それが夏になると6時には明けて、9時頃まで明るいそうだ。
行動時間は倍ほどにもなり、暖かくて服装も荷物も簡単で済み、
諸事経済的にも倍の能率。旅行者はよほど考えて出掛けたほうがよいだろう。

今回の旅行は訪れる国が多く、旅行者にはかなり面倒である。
パスポートや税関の検査はよいとしても、
国が変わるたびに金を交換しなくてはならない。これがあまりにも不経済である。
短期間の旅行者にとって、こんなことに頭を使い、時間を要するのはかなわない。
たとえ仮の宿でも自分の部屋に帰れば、
我が家に帰ったような気がして落ち着くから妙である。

ケルン Köln




ケルンは大きな町である。
停車場のすぐ前にはゴシックの大きな寺院、ケルンドーム本山寺がある。
内部にはステファンやロックネルの絵がある。
クリスマスの装飾で大騒ぎしていた。

そこから繁華街を右に左に見ながらライン河岸に出る。
ホーヘンツォーレン橋である。
2本の塔や銅像などをそなえた美術的な鉄道橋だ。
図書館や美術館、博物館などを見て駅に帰る。

午後5時、ベルリン行き特急に乗る。急行料金は3マルク、
ドイツ人土木技師、ナチス将校1名と乗り合わせる。
ドイツ人技師と食堂で向かい合わせてドイツ語と英語で話す。
橋梁の検査に来たのだそうで、部屋でもしきりに何か書いていた。
食堂でやたらとワインを勧めるのには閉口した。
でも、支払いの時、ボーイの釣り銭間違いを注意してくれ、
3マルクばかり助かった。

2010年8月5日木曜日

ライン河下りの美景



12時50分、ケルンへ向かう。
昨夜は到着が遅くて駅の建物は見えなかったが、今朝見れば立派なものである。
赤石の仕上げで高い塔があり、流行したプロポーションのよいスタイルである。
これも以前に写真などでよく目にしたものである。
駅前広場は欧州では珍しく、広々していて公園のようだ。
舗道には3メートルおきぐらいに噴水が連続している。

この駅を出てケルンまでが、いわゆる「ライン下り」である。
世界的に景色のよさが有名なところである。
列車は絵のような景色を左右に見ながらライン河の左岸を走る。
山上、山腹の古城、さびのある優雅な街、崩れかけた寺院、
急流を帆航する船が水面に浮かび、
なんともいえない色あいの街並み、岩上の城主の家々。
夏期に船下りするのもよいが、この季節の裸の山並みの景色、
化粧しない豪華さも決して見劣りしないと思う。


午後2時頃、コブレンツ着。
ここで今まで右岸を通ってきた汽車は、鉄橋を渡って左岸に移る。
旅客のために特にそうしたわけでもあるまいが、
観光者にはいたれりつくせりだ。
今まで右岸から太陽に向って山並みを見ていたが、
今度は左岸から、太陽を背に陽を正面に受けた景色を見ることになる。
アンデマルクにあかあかと夕日が照り輝く光景は実によい。
レマーゲンを過ぎる頃、多少あった濃霧も晴れ、
対岸のマンクスウインターの山上にゴシック風の大建築。
その高い塔は雲表にそびえ、夕日を受けて美しいのなんの、
この二時間ばかり沿岸の景色を右に左にして、座席にじっとしてなどいられない。


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保養地ヴィースバーデンのクアハウス



12月21日 
午前10時頃ホテルを出て、公園のクアハウスや立派なオペラなどを見る。
公園は小さいがなかなか美しい。
静かな池に真っ白なスワン、道では人馴れた鳩がまといつく。
青々とした芝生の噴水は盛んに水を吹いている。
尖塔のある寺院や市役所のある広場に出る。
赤レンガのドイツ風ルネッサンス様式が美しい。

繁華街を横断して、高台にある浴場「カイザーフリードリッヒバス」を見物する。
ボーイに頼んで内部を見せてもらう。
浴室はコンパートなものを主として、別にスイミングバスもある。
ブダペストの方が遥かに規模も大きく立派である。
とはいえここは小綺麗で設備もしっかりとしている。
湯の中でマッサージをしたり、
身体の不自由な者が自由に使えるように色々な機械装置も備えている。

2010年8月2日月曜日

ヴィースバーデン Wiesbaden



午後7時半、マインツを過ぎて北上し、ヴィースバーデンに到着。
温泉地と聞いていたので日本のようなつもりでいたら、
どうしてどうして、大きな街である。
もっとも世界的に有名な温泉地で、年間5万人からの浴客を迎えているそうだ。
ここにはノイエスシュロス、アルラシュロスなどの城があり、
バーデンの絶景を見下ろすことができる。
この街の近くには山川渓谷で有名なところがたくさんある。

駅前でかねて聞いていたコンチネンタル・ホテルに行ったが、
バス付きの部屋は1つしかないというのでここを出て、
付近のシュワルツブルク・ホテルに行く。
このホテルは大きく一流のもので、浴場もあると思ったら、風呂は普通。
あとでよく聞き、考えてみたら、立派な浴場がある街なので、
浴客はみんなそちらへ行くため、ホテルの部屋に風呂は必要ないのだ。
翌日知ったことだが、最初に行ったコンチネンタル・ホテルは
市営の浴場と廊下続きに接続していた。
浴場付属のホテルと言ってもよいくらいなのだった。
やれやれ。


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ハイデルベルヒ Heidelberg




午後3時、ハイデルベルヒ到着。
ここも濃霧である。駅に荷物を一時預けにしてぶらぶらと街へ出る。
道行く人が振り返ったり立ち止まったりして、
こちらをじろじろと見るので気持が悪い。
「なんだ田舎者が!」と元気を出して川沿いを歩いた。ネスカル河である。
河幅は広く、満々とした水は静かに流れている。
橋を渡って断崖に立ち、立派な住宅、庭園、つたやかづら、
藤などの巻き付いた古い家を眺めた。
12月も半ば、北海道よりも北寄りの地だというのに庭にバラが咲いている。
常緑樹は青々と丸くまた長く、建物との調和もよい。
昔、アカデミーなどで見た通りの景色である。

彫刻のある古い橋を渡り、正面の大きな寺院の前へ出る。
その両側の大きなバツトレスの間に粗造りの店舗がある様子が面白いので、
カメラを向けていると中から老婆が子供を連れて出て来て、
自分で編んだ刺繍付きのハンカチを買ってくれという。
1マルク50だという。2マルクやったら
『これでこの子のクリスマスの小遣いができた』と喜んでいた。
それからシルスの下まで行ったが、濃霧でついに姿を見せず
メインストリートを駅に向う。月曜の午後で大変な人通り、
ペーブメントは狭く押されながら駅に出た。

ハイデルベルヒは実に綺麗で優雅で、ドイツ1と言われる大学もある。
午後5時の汽車でウイスバーデンに向う。
車中、自分たちの席の前にちょっと粋な女がいた。
赤い唇赤い爪、人前でしきりと化粧をする。
フランクフルトで大きなトランクを降ろしてくれと言うので、
荷物などの世話をしてやる。ここでは約30分停車。
プラットホームは鉄骨の上屋の中に10線もあった。
ホームではたくさんの人が待ち合わせている。
3人連れの女が窓越しに私たちの方をじろじろと見て何か言っているが、
こちらから手を挙げて笑いかけたら向こうも笑いながら3人揃って手を挙げた。


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