Y君からは役所の機構改変について細々と書かれていたが見る気がしない。
シャンゼリゼの大通り、人と自動車の波、日頃でも大変なのに今日は土曜日、
非常な人出だが私には何も感じない。少し風のある、森の中のような気がする。
明日からオランダ行きなので切符を受け取りに行き、早々に帰宿した。
丁君にも妻君からの手紙を渡す。
そこに何か書いていないかと話しながら読んでいくのを待った。
やはりあった。私から話すまで内緒にとして、
12月30日から発病、1月3日午後、大連病院で死去とある。
間違いではない。厳然たる事実なのだ。信じられないことを信じなくてはならない。
部屋に戻り、とめどもなく流れる涙の間に好き姉を思った。
まずお礼を言った。今さら礼など仕方がないが自然と頭が下がるのだ。
私たちのために真に喜び、悲しんでくれた姉。
ことに長い間たくさんの子供が世話になった。
妻には姉とはいえ、事実上の母であった。力とも柱ともなってくれ、
ほとんど一身のように仲が良かった。いや、大きな愛で抱えていてくれた。母の愛である。
常に家にばかりいる姉、比較的世間に疎い姉を妻は補っていたようだ。
妻は力を落したことだろう。ほとんどなるところをしらないだろう。
私も世の中が真っ暗になったようだ。真に私の帰りを喜び、迎え、
私の話を喜んで聞いてくれるはずだった。
パリで姉のために2、3のものを買っておいたが何になる、
好きなうどんを美味そうに食う姿も永久に見られない。
別だん不自由もなかったが、一生働き通し真の生き甲斐をその内に感じていたように、
夜など2時より早く就寝することはなかった。
何ひとつ小言を言わず、常ににこにこと、接するものをみな和やかにした。
あの出不精の姉が一昨年、新京に来てくれた。
今考えれば私たちの新京での生活を見ておきたかったのだろう。
どういうものか自分の家に応接間が欲しいと言って、それも昨年立派に出来あがり、
わずか半年ばかり住んだのである。思えば悲しい思い出ばかりだ。
私は涙に曇るメガネを拭きながら妻に手紙を書いた。思いはそれから止めどもない。
姉の子供も皆これからだ、心残りだろう。
人の世に生存することの辛さをつくづく考えさせられる。
妻も12月20日頃まで大連にいたはずだったが、新京に帰って間もないこと、
恐らく死に目にはあえなかったことだろう。どんなに嘆いていることか
私が亡くなったよりも、きっと力を落としたことだろう。
妻よ泣け、うんと泣け。お前の好きな姉のために…。
早、午前3時、明朝は8時に起きなければならない。
ともかく服を脱いでベッドに入ったが眠れるものではない。
心配すると思って知らせてこないのではあるが、
すでに知った以上、私の気持は黙って入られない。
早速「ヨキアネヲオモヒナキアカス」と打電し、妻に手紙を出した。
また涙を新しくしてすまないが仕方がない。
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