2011年1月21日金曜日

姉のために涙する夜



Y君からは役所の機構改変について細々と書かれていたが見る気がしない。
シャンゼリゼの大通り、人と自動車の波、日頃でも大変なのに今日は土曜日、
非常な人出だが私には何も感じない。少し風のある、森の中のような気がする。


明日からオランダ行きなので切符を受け取りに行き、早々に帰宿した。
丁君にも妻君からの手紙を渡す。
そこに何か書いていないかと話しながら読んでいくのを待った。
やはりあった。私から話すまで内緒にとして、
12月30日から発病、1月3日午後、大連病院で死去とある。
間違いではない。厳然たる事実なのだ。信じられないことを信じなくてはならない。

部屋に戻り、とめどもなく流れる涙の間に好き姉を思った。
まずお礼を言った。今さら礼など仕方がないが自然と頭が下がるのだ。
私たちのために真に喜び、悲しんでくれた姉。
ことに長い間たくさんの子供が世話になった。
妻には姉とはいえ、事実上の母であった。力とも柱ともなってくれ、
ほとんど一身のように仲が良かった。いや、大きな愛で抱えていてくれた。母の愛である。
常に家にばかりいる姉、比較的世間に疎い姉を妻は補っていたようだ。
妻は力を落したことだろう。ほとんどなるところをしらないだろう。
私も世の中が真っ暗になったようだ。真に私の帰りを喜び、迎え、
私の話を喜んで聞いてくれるはずだった。


パリで姉のために2、3のものを買っておいたが何になる、
好きなうどんを美味そうに食う姿も永久に見られない。
別だん不自由もなかったが、一生働き通し真の生き甲斐をその内に感じていたように、
夜など2時より早く就寝することはなかった。
何ひとつ小言を言わず、常ににこにこと、接するものをみな和やかにした。


あの出不精の姉が一昨年、新京に来てくれた。
今考えれば私たちの新京での生活を見ておきたかったのだろう。
どういうものか自分の家に応接間が欲しいと言って、それも昨年立派に出来あがり、
わずか半年ばかり住んだのである。思えば悲しい思い出ばかりだ。
私は涙に曇るメガネを拭きながら妻に手紙を書いた。思いはそれから止めどもない。
姉の子供も皆これからだ、心残りだろう。
人の世に生存することの辛さをつくづく考えさせられる。


妻も12月20日頃まで大連にいたはずだったが、新京に帰って間もないこと、
恐らく死に目にはあえなかったことだろう。どんなに嘆いていることか
私が亡くなったよりも、きっと力を落としたことだろう。
妻よ泣け、うんと泣け。お前の好きな姉のために…。


早、午前3時、明朝は8時に起きなければならない。
ともかく服を脱いでベッドに入ったが眠れるものではない。
心配すると思って知らせてこないのではあるが、
すでに知った以上、私の気持は黙って入られない。
早速「ヨキアネヲオモヒナキアカス」と打電し、妻に手紙を出した。
また涙を新しくしてすまないが仕方がない。

2011年1月19日水曜日

姉の死

正月23日 
三井支店へ行く。丁君は気分が優れないので1人で出掛けた。
局から電報で「願の件を許可する」とあった。これで米国経由で帰れる。安心だ。
次に局の矢追氏から長文の手紙が来ている。最初に


「奥様は正月4日、大連の御令姉が死去されお子様共々大連へ行かれた。
 今妻から電話があったのでちょっとお知らせします」とある。


大連の令姉…令姉といえば梅本の姉しか今はいない。
梅本の姉が死去…?
あの達者な姉が、何かの間違いだろう、とふたたび手紙を見直す。
しかし「令姉」とはっきり書いてある。
これは大変だ…!私には信じられない。そんなバカなことがあるものか。
出発の朝、あんなに元気で色々と注意してくれたり、別宴の食卓の用意をして、
別盃をくんだではないか。あの姉が…。私は頭が混乱して何もわからなくなった。
支店長が昼食を一緒にと勧められたが、それどころではない。
一応お断りしたが、先達からお話もあったことでもあり、断りかねて結局お供をした。


シャンゼリゼの立派なレストランである。
たくさんのご馳走が出たが、私には味も何も感じられない。
つとめて平静にと心掛けたが、話はとんちんかんなものになる。
支店長は近々ロンドンへ赴任予定で、海外居住者は子供の始末に困るという話から、
私に『子供をどうしているか』とお尋ねになり、
一部分は新京に、3人ばかりは大連に、と答えると、
『奥様が付いておられるのか』と聞かれ、いや姉が…といったきり後が続かない。
涙がぽたぽたと落ち、もう立派な部屋も紳士淑女も何もかも見えなくなった。

早々に支店長と別れ、1人でシャンゼリゼからコンコルド広場まで歩いた。


公園のベンチに腰掛けて再度手紙を出してみる。
やっぱり令姉とある。梅本の姉に違いない。留守宅からは何も言ってこない。
知らせたからといってかえって心配させるだけだと知らさないのだろう。

2011年1月18日火曜日

パリ中心街を観る



正月21日 
今日は市内見物である。バスでルーブル美術館を見物して、
川向こうのモンマルトルの学生街に行って支那飯で簡単に昼食を済ませ、
リュクサンブール公園を通り貴族院を右に行き、
リュクサンブール美術館で現代美術を観て、パンテオンへ行った。


ここにはフランス国重臣の墓所がある。
有名な壁画が白大理石の柱の間に彫刻などと共にあって壮観である。
地下にユーゴーやルソーなどの墓を詣でた。


次に近くのリスボン大学、クリユーニ博物館を観る。
規模は小さいがローマの総督府だった古い建物が残されていて、
内部には昔の武器その他がたくさん陳列され、例の眞操器などもあった。


そこを出てセーヌ河畔の古本市を見ながら、警視庁や病院を見て、
ノートルダム寺院前まで歩く。すでに午後4時で塔の上には登れない。
ここの広場にある国立劇場やサラ・ベルナール劇場などを見て
メトロでルーブル近くの大きなデパートを見物した。






夜7時頃から鴨料理で有名な「トゥールダルジャン(銀の塔)」へ行った。
内藤所長から聞いていた以上に美味い。
最近だいぶん安くなったのだそうだが、それでも1人前が日本円で16、7円。
開店以来今日まで客に提供する鴨に番号を付しているそうで、
私たちの番号は「132930」だった。
この店はノートルダム近くの川岸であまり大きな建物ではないが、
夏は屋上でも食べさせるそうで、各国の貴賓方も一度は訪れるそうである。


帰途は「カジノ・ド・パリ」へ車を走らせた。
その大部分は裸で舞台をはねまわる。甚だしいのは舞台に寝台を持ち出し、
各国の風俗をしたひと組の夫婦者が次々と現れて、
その国の習慣によって着衣をとって寝台に入る。それを面白おかしく演じる。
途端に子供を抱いて飛び出すのもあり、観客はキャッキャッと喜んでいる。
この頃のパリのレビューにはだいぶん軽業めいたものが流行しているようだ。

※画像は2005年のパリ、ノートルダム寺院

2011年1月17日月曜日

ヴェルサイユ






正月20日 
今日はヴェルサイユ行きである。
朝からとてもよい天気で、インバルト駅から電車により約30分で到着。
静かで上品な街である。宮殿内部を見る。
例の鏡の間、講和談判の机、フランス革命の時に止まったままの大きな時計、
人民が『パンを与えよ!』と叫んで集ったマーブル広場などを見る。




建物の正面は思ったほどでもないが、裏側の庭園は広く、
大きな建物も庭園側から見た方が好いようだ。
近くのトリアノン宮殿も見た。
建物は小規模だが内部はちょっと好い感じだ。
庭園の中のコテージなどすべての建物が面白い。
豪奢をきわめた末にはこんなものが欲しくなるのだろう。
水車や鳥小屋など田園風に出来ている。実に人間生活の自然なものであろう。




午後5時頃、パリに帰り例の有名な各国部屋を見物に出掛けた。
ここは公許の女郎屋で、贅沢な世界各国代表的で立派な部屋が各階に出来ている。
○○帝が使われたという○○用の機械的な椅子がある。
洞穴のような階段や、四方が天井まで鏡で出来ていたりして、
1人でこんなところへ放り出されたら出口がわからないほどだ。


続いてもう1軒の有名なスイングスを見た。ホールに入ってまず驚いた。
右側はカウンターがあり酒場である。
左側は大きくモダンなホールだが、電飾に煌煌と照らされた下に展開された光景は
実に目を覆うのさえ忘れるほどの驚くべき光景である。
50名ほどの若い女性が一糸纏わぬ姿である。
それが20人ぐらいまで入口の両側に腰掛けて客を待っている。
ホールの中のテーブルを囲んだソファでは、
客と裸の女の数組が盛んに酒を飲み媚体を演じている。
あまりに極端な露骨さにただ呆れるばかりである

*画像は68年後、私が訪れたヴェルサイユ・・・

2011年1月11日火曜日

パリにて、郷里からの通信に和む




正月19日 
バスで三井に行き支店長に面会。たくさんの手紙が来ていた。
雅子からのが2通、吉田章恵君からは国務院の絵はがきと会廟式当日の切り抜きなど。
当日の盛況を遥かに忍ぶ。吉田君は内地で女児をもうけられ、2回目のおめでたである。
ベルリンの田村君からは、私たちの乗船券のこと、荷物の発送などについて知らせてきた。
石井猪七君からは、私がたびたび飛行機に乗るので姉がしきりに心配しているそうで、
今後はなるべく乗らないようにとのこと!
毎日神詣でをして私の無事を祈っているそうである。
母なき後の自分には姉が母であった。姉なればこそ心配してくれる、ありがたいことだ。


局の江崎氏からはその後の局の事情を細々と知らせてあった。
本年度の予算は1千万円出るそうである。これは忙しくなる、遊んではいられぬ、
早々と帰って諸氏と協力しなければならない。
 
憲三からは自分でとった崇子の写真を送って来た。
大きくなった。写真もよく撮れている。
高梨君のお宅からは奥様やお嬢ちゃんたちから年賀状をいただいた。
何といっても旅行中は郷里からの通信が嬉しいものである。


その足で「伴野」に行き、売店のソファでゆっくりとこれらの手紙を読んだ。
それから郵船の支店へ行って旅程変更を申し込むと快く承知してくれた。
すなわち2月17日、フランス・セヤーブルグ発のクイーンメリー号に乗船し、
22日ニューヨーク上陸、4月1日サンフランシスコ発の郵船浅間丸に乗船することで決定。
切符は木曜日にくれるそうだ。
米国には40日ばかり滞在の予定で、ヨーロッパにはこれから約1ヶ月いる予定だ。
宿は早速マスネに移した。私は3階の33号、丁君は6階の60号で部屋は美しく、
特に気持ちがいいのは部屋の洗面所、浴室の立派なことである。
これで当分のあいだ落ち着くことができる。
しかも朝食付きで38フラン、日本円で1ヶ月200円ぐらい。パリでは格安だ。

パリの風景




正月17日 
日曜なのでゆっくり寝るはずだったが、外がやかましくとても寝ていられない。
しかも晴天なので9時頃目覚める。
総局のO氏から電話で11時頃訪問され、ベルリン以来のお互いの旅行話に弾んだ。
相変わらす忙しく勉強のようだ。


正午頃から晴天の街を3人連れでトロカデロへ出て、エッフェル塔に登った。
頂上まで登るのかと思ったら、500尺くらいのところでエレベーターは止まる。
しかし全市を見下ろせ、博覧会場は眼下に展開する。
盛んに工事をやっている。今夏の盛況を忍んだ。
塔上で外人連れと記念撮影をしたり、土産物を買ったりして下の公園に降りた。
日曜なのでたくさんの人が散歩している。
たくさんの子供が集ってなわとびやシャットルコックなどをして遊んでいる。
夫婦連れが睦まじく乳母車を押してくる。どのベンチも満員で、
静かに読書する者、編み物をする者、のどかな景色である。
焼き栗を売っている。一袋買って遠慮なく食べながら歩く。満州の方が美味いようだ。


ここからコンコルド広場に出た。岸辺にはたくさんの太公望が糸を垂れているが、
釣れた者は見受けなかった。釣り竿はみな日本製だそうだ。
O氏は今日ベルリンへ出発なので日本料理の都に行き、時ならぬ夕食をとる。
食後は氏の宿、マスネに行く。新しくさっぱりとしたホテルである。
私たちも今後約1ヶ月ばかり滞在するので、
気持がよく比較的経済的なこのホテルに変更することにした。

4度目のパリへ




正月16日 
昨夜はよく眠れなかった。朝寝して丁君に起こされた。
今日も相変わらず嫌な天気である。ホテルのマネージャーに仕切りにとめられたが、
これでは仕方がないので出発することにする。
午前10時15分、パリ行きの特急に乗るためにタクシーを駅へ走らせる。
再び見ることもあるまいニースの街に名残惜しむ。


駅には案内会社のポーターがいて、プルマンの急行券や座席の世話をしてくれる。
2等の座席だがなかなか立派なものである。
定刻出発、途中1時間ぐらいは海岸沿いを走り抜く。ニースの景色に似ている。
その後は葉のない木立、広々とした平野、典型的なフランスの景色である。


マルセイユ着は午後1時だったが、昨年着いた時とは違って、
街はずれで山上のノートルダム寺院も遠くに見えた。
車内で昼食をとる。座席にテーブルを作り、提供してくれる。
久しぶりにフランスの美味いパンにありついた。
途中ほとんど停車せず、午後11時パリ・リヨン駅に到着。
約1000キロ、12時間を要したわけである。
旅館・ぼたん屋に投じる。これで4度目のパリ。約18日間の旅行を無事に終えた。


今年の旅行はスイスおよびイタリアの2国であったが、霧のジェノバ、
ことに正月元旦のインターラーケンからユングラウに登ったことは、
天気にも恵まれ有意義で大成功だった。恐らく永久に忘れることはできまい。
そしてスイスの山中の冬景色、イタリア・ローマの驚くべき存在は想像以上であった。
ニースのプロムナードの大変な気持ちよさは目頭が熱くなるような感激を覚えた。
晴天に恵まれていたなら一層印象深いものだっただろう。


今日は12時間も列車に揺られて相当に疲れた。
フランスの優秀な列車ではあるが、昨夜の寝不足もあるので何も考えられない。
幸い明日は日曜である。ゆっくり休むとしよう。