2010年7月27日火曜日

シュトゥットガルト Stuttgart





12月20日 
今日は日曜日である。午前8時、ミュンヘン出発。
改札で丁君のチケットが1枚不足。駅長室まで行ったりして出発前に手間取る。
どうも前夜到着した時に駅員が1枚余計に取っていたようだった。


いよいよクリスマスが近づき、汽車は田舎から都会へ、
都会から田舎へ向かう人々やスキー客で満員である。
男装の女性がリュックサックや大きなスキーを片手に勇壮な姿である。
沿道は雪が降り積もったように霜で覆われた平原、
太陽は今日もあかあかと輝いている。


11時、ウルム駅に着く頃はいつしか濃霧となり、
シュトゥットガルト近くになるにつれていよいよ激しくなった。
これでは下車しても仕方ないとハイデルベルヒまで行くことにした。


午後1時40分、シュトゥットガルト駅に着く。
この時皮肉にも濃霧は晴れたが予定変更した通り、下車せずに通過。
シュトゥットガルトは典雅な山林を背にした、落ち着いた街のようである。
ここではラインスの設計した「シルスハ」が有名である。
この街は美術の街といわれる。
美術・工芸が発達した地域で、常に展覧会などを催している。
シルレルの銅像もあるようだ。


午後2時頃食堂車に行く。どこかで見た顔のボーイがいる。
昨日ウイーンからミュンヘンに来る列車で見掛けたのだと気付く。





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ミュンヘン München




12月19日 
自動車でルントハルト(観光)をする。
今日は実に好い天気である。
例によって寺院や博物館、市役所や学校などを見て回る。
1時間半くらいで済む。あとは徒歩で詳細に見物。
美しい公園でベンチに腰掛け、
久しぶりの燦々とした太陽の光を心ゆくまで楽しんだ。
その後、2つほどミュージアムを観た。

午後7時からヒットラーが第一声を挙げたという
「カフェ・ハーフバンハウス」に行ってビールを飲む。
どのテーブルもほとんど満員で、たくさんの男女が
大きなジョッキで盛んにビールをやっていた。
私たちも遠慮なくそれらのテーブルに割り込み仲間入りをした。

ミュンヘンは歴史的かつ芸術的な街で、
ヒットラーの発祥地として元気に満ちた街だ。
今日は何かの記念日と見えて、街で木製のマークを何人からも買わされた。
街は美しく、中央を流れるイザール河も清く、気品の漂う街である。
T君からの送金はついに届かず、禁を犯し、万一の場合に備えて
200マルクほど余計に持っていたからよかったが、
これが無かったらさぞかしまごついたことだろう。

2010年7月23日金曜日

ザルツブルグ着




2時40分ウイーン発、3時半セントポール着。
この辺りの景色は実に好く、山々の林間に連続する別荘、流れの速い小川、
右手には雲を頂くスイスの連山を望む。

午後4時、汽車はドナウ河沿いを走る。
河幅は広く静かに流れ、夕日に反射して美しい。
草葺き屋根に白壁の農家、
遠くに尖塔のある寺院が樹間にそびえ、紫雲がたなびく。

午後7時半、国境ザルツブルグ到着。
車内でパスポートや税関の検査がある。簡単だが外のプラットホームの先の方で
所持金の取り出しをしなくてはならない。それらを紙片に書いて出す。
その間に自分たちの乗ってきた車両が近くへ移動、
午後10時20分頃、ミュンヘン近くで車掌が来て、荷物を持って行ってくれる。
日本製タバコを持っていないかと言う。
持っていないのでオーストリアのタバコを3、4本やる。
別に荷物運賃として1マルクを渡す。車掌やらボーイやらわからない。
到着したハーフトバンホフは大きな駅である。
「ホテル・カイザーホフ」へ行き、
早速ベルリンからの送金がないか尋ねてみたが来ていないという。

ミュンヘン行き




12月18日 
午前8時の列車で出発予定だったが、朝寝したので10時の汽車に変更し、
タクシーをウエストバンホフに飛ばしたが私たちの切符では駄目だという。
普通列車で途中までしか行けない。
時刻表を見ると午後2時のバリー行きがミュンヘンを通る。
それに乗ることにし、荷物を一時預けにして再度外へ出て
バスに乗り、行けるところまで行ってみた。

ノードバンホフで降ろされた。
付近の遊園地をうろつき、また引き返してリングストラッセの博物館に飛び込む。
日本の部屋があり沢山の物が並べられ、監守が色々と説明してくれる。
三月雛のひと組が飾られていたが、
よく見ると内裏様が下に矢大臣が上に姫君と並んでいる。
これは大変と、直すように言っておいた。
仏像もお稲荷さんも、天照皇大神までもが同居されていた。
まだ時間があるので繁華街のショウウインドウを見ながら駅まで歩く。
クリスマスの贈り物でどの店も綺麗に飾られていた。

2010年7月18日日曜日

音楽の都、ウイーン




T氏と別れて外に出た。
コンサートには時間があるので市街を散歩する。
たくさんの木彫り人形を売っている店で土地の匂いのするものを2、3買う。
クリスマスが近く、キリスト像がたくさん並び、婦人たちがひっきりなしに出入りしていた。

繁華街を一巡してコンサートホールに行く。
礼服の男女で階上も階下も満員の盛況である。音楽会のつもりで来たがコーラスだった。
舞台には400人近い声楽家たちが1人の指揮者のもとで歌う。
間には盛装の婦人による独唱もあった。4回ばかり聴いて出る。
時刻はまだ9時頃で、すぐそばのグランド・オペラへ飛び込んだ。大きな劇場だ。
白大理石が張り詰められ、金色の装いをした案内人が佇む。
ちょっと気が引けたが、勇気を出してブッキングオフィスへ行き切符を買う。
高いのは日本円で約70円、安いのは2円ぐらいからある。
8円程度のところでよかろうと買ってみたが、最上階のギャラリー席だった。
下から5階のところである。ボックスに王侯のように君臨するような態度で着席する。
クレオパトラの何かをやっているようだった。
舞台には5〜600人の各種衣装を着けた男女が、目も覚めるような美しさだった。
2幕ばかり観て出る。近くのカフェで遅い夕食にビールを傾け、よい気持になって帰宿する。

世界は意外と狭いのかもしれない

ウイーン市はオーストリア共和国の首都で人口180万の大都市であり、
市は1つの国家のような自治体で、財政上の独立権限を持ち、
しかもたくさんの私有財産があり、各種の株主となり
多額の出資をしているということだ。
大戦後、市の行政権は多数の社会民主党の手に握られ、
同党の総裁が市長で、120名の議員中80名は同党員で絶対多数を占め、
その指導精神によって遂行されつつある。
ガス、電気、醸造、水道、銀行その他色々を直営しているほか、
社会事業施設として前記の市営住宅、児童に対する各種施設、
老人救護所、病院、助産院、託児所、職業紹介所、無料宿泊所、授職場、浴場、
精神病院、養老院、サナトリウム、火葬場など立派な施設を持ち、
皆相当の成績を上げているようだ。
市の中央をダニューブ河が流れ、美しい橋が架せられている。
その両側の整った6、7階建て白壁の建物は美しい。


オストバンホフ付近の小離宮見物が済むと、午後2時である。
時間があるので地図を開き「どこかへ連れて行け」と言ったがなかなか通じない。
するとそこに通行人が集ってきた。1人の日本人がひょっこり顔を出す。
公使館のT氏だった。とにかく氏の宿まで同行することにした。

氏は最近まで済南領事館にいて、2、3日前に移動してこられ、未だホテル住まい。
私たちも昼食前だったので会食することにした。
令息2人と女中を連れ、夫人も同席された。
話しているとベルリンのK氏とは知己で、ことに夫人は師弟関係の間柄とのこと、
4時頃まで色々と話し、記念撮影をして夫人たちと別れ、T氏と同道、公使館に行く。
訪問者名簿に記入した。懐かしいものだ。
公使は新京におられたT公使だが、折悪しく不在でお目にかかれなかった。


2010年7月15日木曜日

美しきウィーン観光

12月17日 

朝10時からタクシーで見物に出掛ける。近くの宮殿を見る。
フランスのヴェルサイユ宮殿を模倣したのだそうで、
外部はさほどでもないが内部は立派である。
謁見室や会議室、大食堂は特に荘厳かつ美しい。
各室の油絵や各国寄贈の美術品、特に日本の物は目を引いた。
内部も綺麗だが庭園は特に立派で広い。
池や噴水、林に芝生、遠くに美術的な門が見える。
世界の宮殿の中でも指折りなだけはある。

工芸美術館からイーストバンホフ前をリングストラッセに出た。
対立するミュージアム庭園の中央にはクインの銅像、ウイーン大学、
国会議事堂、各宮ゴシックの尖塔のある市役所、チャールズ教会、
自由広場のホテーフ教会などが、この付近で各様式を競っている。
今日は好い天気で、ブタペストの濃霧に気を悪くしていた目には、
太陽の光を仰ぎ見られて晴れ晴れする。
落ち葉の樹間にそびえ立つ美都ウィーンの美的建築へ、
自動車を止めて右に左にカメラを向ける。
議事堂前で写していると、通りがかりの3〜40人の学生が写してくれと
先生の言うことなど聞かずに押し合って寄って来る。


2、3枚写すとしきりに何か言う。多分できたら送ってくれというのであろう。
1人の学生にアドレスを書かせる。皆「アルーアルー」と手をあげて別れる。

自動車は繁華街を古イセントステファン教会前に出る。
外部を一巡して内部へ入るが、薄暗くてよく見えない。
たくさんの参拝者が皆ひざまずき、白衣の僧正から何か口に入れてもらっている。
みな、僧正の祈りで合唱している。なんとなく敬虔な気分に合掌する。

それから国立劇場、チャールズ教会などを見て郊外へ車を飛ばす。
有名なマルクスホフのアパート見物である。
6、7階建ての近代様式で、単紅色フラットの大集団は古都の一偉観である。
戸数1200、人口6000人、託児所、プール、庭園、運動場などが設備され、
内部は玄関、便所、台所に2つの寝室くらいである。
これで家賃は月20●約12円。3室で18円。
この家賃計算には経常費だけで建築費は入れていないそうである。

オーストリア、ウィーンへ



12月16日


午後3時半、オストバンホフでヨセフ君の見送りを受けて出発。
列車は満員で私たちの車両には2人の女客がいた。高話をしてうるさい。
いつのまにか眠ってしまい夢を見た。

憲三と2人で釣りに行って、何かかかるのだがなかなかあがらない。
2人がかりで力を出したところで目が覚めた。
向いの女が私の足元にその大きな足を乗せて穢なく眠っていた。

途中、国境でパスポート検査があり、税関員も来たが別に何も見なかった。
午後4時半、外はすでに暗く彼女たちの高話にも馴れ、いつのまにかうとうとする。

7時半ウイーン・オスト駅に到着。
駅前は暗く、音楽の都の玄関とは思えない。
欧州の駅前はなぜか暗く、もの寂しい。
日本の方が遥かに明るく賑やかである。
タクシーにパークホテルと告げて乗ると、
何か言ったようだったが30分ぐらい走らせてようやく着いた。
ちょっとしたホテルであった。
ここにはパークホテルが2軒あり、駅前に1軒あるのでどうもそれを聞いていたらしい。
部屋も浴室も綺麗で特に水は美しい。


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2010年7月7日水曜日

建築家、ビルヂル・ヘルバール氏を訪問

張学良のクーデターを新聞で見た。
午後9時、かねて約束していた建築局の技師で大学教授をしている
建築家のビルヂル・ヘルバール氏を私邸に訪問する。
ブダ市の静かな住宅街である。
書斎に通されてたくさんの作品や氏の発行している雑誌などを見せてくれる。
12時頃までいろいろと話した。
家族は旅行中とかで、ご自分でコーヒーをたててタバコを勧めてくれた。
ハンガリーの建築図書、自分の実施した図面や写真を見きれないほど出してくれる。
ブダペストは今、都市計画が立ち、五カ年計画で来年から着手するそうで、
すでにブダ市の一部分では政府が土地を買収し、建築物の取り壊しにかかっていた。
ここに新様式の都市を計画中で、役所から取り寄せた計画図を見せてくれた。
かなりの大計画で、特に交通関係などはよく考えられている。
五カ年では完成しないのではと思う。


ここで妙に思ったのは、面積の単位が日本の坪と同じであることだ。
見せてくれたたくさんの本の中に珍しいものがあり、
欲しそうにしたら気前よく譲ってくれ、自分の発行している雑誌も2冊ばかりくれた。
いろいろ話し込んで思わず12時を過ぎたので辞すことにした。
別際に「どうか世界に誇る満州国の建築の表現に努力してもらいたい」と言われ、
堅い握手を2度も3度もして別れた。

帰途タクシーを一流のカフェに寄せた。たくさんの客がいる。
古風なハンガリーの服装をした少年楽士が、特徴的な音楽をやっていた。
ビールを飲んで1時頃帰宿する。

ハンガリーと日本の不思議な共通点




内務省があるのでその建築局に行って次官に会い、
さらに建築局長や技師その他2、3人の人に面会した。
皆ニコニコと喜んで会ってくれ、色々と話してくれた。
日本の記章を付けた日本語の官吏もいた。
これらの人々の多くは髪が黒く、顔つきも日本人に似ている。
街を通る女にも日本人にそっくりな人がいてびっくりするくらいだ。

ハンガリー民族は、今から約千年前、アルバートという人に率いられ、
西へ西へと移住して、ついにダニューブ流域の沃野に国を建てたとか。
不思議なのは我が国の神話によく似たところがあることだ。
「ハンガリヤ」という守護神は女神で、日本の天照天皇に相当し、
「アルバート」は神武天皇ということで、その西征の際には金の鷲が現れたという。
日本の金鳶と同じではないか。
次来幾変遷、大戦後はオーストリアと分立を余儀なくされ、
チェコと3分の1に国土は減らされ、
これは国民の痛憤を能ざるところで、会う人ごとに言っている。
絵はがきにちなんでいる、またその場合も国旗を頂上まで上げない徹底ぶりだ。
実に気の毒に思う。

日本とよく似ている点は食塩を「シオ」、水を「ミューズ」といい、
島を「シーマ」と言う。何だか偶然ばかりではないような気がする。
日本人にとても好意的で、大抵の店やレストラン、カフェなどでも
「こんにちは」「おはよう」「ありがとう」くらいは知っていて、
皆ニコニコしながらしゃべる。

2010年7月4日日曜日

山側のブダ市、平地のペスト市



12月15日 
今日は朝寝をして10時半、丁君に起こされた。
かねて頼んでおいた日本語の出来るハンガリー人が案内してくれる。


11時頃その人がやって来て、タクシーで出掛ける。
彼はレイチェル・ジョセフといって約8年かけて独学で日本語を学んだそうで、
なかなか上手く、しかも上品な言葉だった。

今日は雨で濃霧に閉じ込められ、遠くはほとんど見えない。実に残念だった。
ブダペストは気候と景色の好い温泉都市で始終旅客が絶えず、市直営の温泉ホテルもある。
夏はとても景色がよく繁盛するそうだ。
中央を流れるダニューブ河を隔てて山の方がブダ市、平地の方がペスト市で、
合わせて「ブダペスト」と称されるのだ。
川岸のペスト市の方に行政官邸や商店、会社、銀行、劇場などがあり、
有名な「バリヤメント」もここにある。山の手には立派な宮殿寺院がある。


ハンガリーは王国だが現在王様がいない。
王様の問題はハンガリー人の苦労の種らしく、
国民の間には英国やオランダから来てもらうという説もあるが、
『日本は同民族だから日本の皇族からお迎えしたい』などと真面目に語られ、
昨年、高松宮殿下が来られた時などは「我らの王様」と感激したということだ。
このように日本人を兄弟のように信じ非常に親しんでいる。
米国の排日移民法の制定の時も非常に憤慨したそうだ。
こんな親日国に領事館がないのは遺憾である。

ブダペスト着




午後、マサリックバンホフを出発し、ハンガリーのブダペストに向う。
汽車は満員で若い夫婦者1組と2人のチェコ人がいた。
1人はしきりにドイツ語や英語で話しかけてくる。
途中下車する際、窓際の席を譲ってくれたりする。
若い夫婦者は遠慮なく私たちの前で手を握り接吻をする。
こちらにあまり視線を向けなかった。

国境近くで下車した。すると今度は1人のデブ婦人が乗り込んで来た。
ハンガリー人でイタリア地方を旅行して帰るところだという。
あまり寒がるのでスチームに近い私の席と替えてやる。
片言でブダペストまで行くかと話す。
国境では両国の調べがある。うるさい軍服の役人や平服の者、なかなか厳重である。

夜11時半、やっとハンガリー・ブダペストのオストバンホフ(東駅)に着く。
例の婦人と別れてタクシーで「ホテル・ハンガリヤ」に投宿。
駅から約10分の河岸近くにある一流ホテルだ。
ホテルの食堂は夜12時近いというのに尚盛んに音楽をやっている。
ホテルに来る途中、路面電車の停留場になっている安全地帯のところどころで、
その両側に内部に電燈装置を備えたガラス張りの広告塔を見た。
実用を兼ねたものだ。


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2010年7月1日木曜日

プラハ市内観光




12月14日 


今日は私の誕生日である。
昨夜はよく眠ったので今日は6時に目を覚ます。
9時半、ホテルの前にクックの観光自動車が来た。
車内に1人の日本人がいると思ったら支那人だった。
市役所広場に行く。例の、時季節満干その他を表示する時計塔があり、
その時計は音が鳴るのと同時に窓が開き、歴代の皇帝の人形が回転式に出てくる。
ちょっと子供騙しのようだが、外国人は感心して見ている。

内部の会議室や礼拝堂を見る。
広場の中央には革命家ヤンズの石像がある。
市を貫流するウルタバ河の橋は世界名橋の一つだ。
カルフス橋」といって彫像が陳列し、実に立派なものである。
橋を渡った高台の大宮殿は大統領府で大きな教会がある。
その下にある500年も前の小さな古い家で、絵はがきだの土産物などを買う。
ここでちょっと休む。30人ばかりの外人たちが、私の持っているコンタックスを珍しがる。
なるほど、見ると彼らは皆、コダックを持っている。
外国の街で写真機を持って歩いているのは大抵日本人で、
しかも皆よい機械を持っているそうだ。
案内人が小声で「あれは日本人か」と例の支那人を指して聞く。
「いやキネだ」と言ったら、どうも変だと思ったと舌打ちしていた。
2、3の日本語など話していた。

ここには「マサリックホーム」と称する、
大統領の名を冠した社会施設の立派なものがある。
非常に完備されたもので、養老院や教育院を兼ねた有数の社会設備であるが、
郊外にあるため時間がなくて見られなかった。

チェコの歴史少々…




チェコは焼き物がよく、特に人形類はよいと知っていたので見たが、
昔と変わってすべてのものが俗悪化され、昔の物はほとんどない。
小さい人形に面白いものがあったので3つばかり買い求めた。
1つ25クローネ、約3円である。

ホテルに帰って食堂で飯を食っていると、S博士やN氏が到着された。
彼らとはよく出会う。世界は広いようで狭い。

チェコは世界大戦後、ヴェルサイユ条約で民族自決主義の名のもと、
チェコ民族としてつくられた国である。
大戦前、ロシア、オーストリア、ハンガリー、ドイツなどの各国から
土地を削り取ってできた小国で、日本は大戦当時、
チェコ軍救援にシリア出兵までやり多大な犠牲を払ったにもかかわらず、
1933年、ジェノバでチェコの代表が一番に立ち、
満州承認に反対を唱えたことは我が国民のよく知る通りである。
こんな小さな寄木細工のような国は、欧州大陸牽制のため
国際連盟に頼らねば存在できない。欧州はなかなか多難だと思う。